第51話 私の罪

 足を動かす。息をする。吸って、吐いて、苦しくてまた吸う。


 じっとりとした暑さが体にまとわりつく。室内だから幾分かマシなのだろうが、運動に慣れていない体は悲鳴を上げた。


 走って、走って、無意識のうちにとある場所にたどり着いた。いい加減息が苦しくなってきて、立ち止まる。こんなに走ったのは久しぶりだ。誰かから逃げるために走る、なんて情けないことを真白の体でしてしまった罪悪感に、少しだけ目を伏せた。


 体にスピードを乗せた反動で、激しく息を吸って吐く。疲れた。こんなに走ったのはいつぶりだろうか。こちらに来る前も走ることや運動は苦手だったが、結局真白になってからも苦手なままだったらしい。


 一心不乱に走った私は、非常階段に来ていた。『一人になりたい時に、たまに来るんだ』真白のルートを選んだ時に、聞いたセリフだ。ゲームで見た景色を辿った日、ここを見つけた。


 ここにいると心が休まるような気がしたのだ。その瞬間だけは、私は真白でいることを素直に受け入れられた。体か、心か、そのどちらもか。わからないけれど、私はこの場所にいることに安心を覚えているらしい。無意識でこんなところに走り込むのだから、相当だろう。


 私と真白の乖離に気がついた日から、私は自分の行動に自信が持てなかった。真白としての気持ちなのか、真白を模した気持ちなのか、はたまた、楓としての私の自我なのか。


 わからないけれど、真白と共通する気持ちがあることに安堵した。


「言っちゃったなぁ」


 真実を口にした。自分の居場所を、自分の手で壊した。こんなことをしたところで、天城楓としての私の生は帰ってこないのに。でもこれがケジメだと思ってしまう私は、なんておかしなやつなんだろう。


「はぁ、あーあ」


 溜息を吐いてぼやく。こんなことするなら、しなきゃいいのに。私だってそう思う。でも彼女たちを傷つけたくない。自分なんかよりよっぽど、ユイセラの二人が大事なのだ。


 涙が乾き始めて、頬にざらついた感覚が残っている。それに気がついたせいか、またツンと鼻の奥が痛かった。もう泣きたくない。二人の前ならなおさらだけど、二人を想って泣いている自分の痛々しさが嫌だった。



「ッあ、真白ちゃんっ……! あ、えと、違う、カエデ、さん?」


「優依、ちゃん」


 現実逃避のために階段に座り込んでいたら、影が差していた。反射的に発された声に顔を上げると、そこにいたのは先程別れたばかりの優依ちゃんだった。


 なんで。どうして?


 私は二人の前から逃げた。逃げざるを得なかった。二人を不幸にする私は二人の前にいてはいけない。二人に害を与えないように、隅に潜んで消えていこう。そう思っていたのに、なんで、貴方は追いかけてきてしまったの?


 来ちゃ駄目だよ、私の所にいたら、優依ちゃんは不幸になってしまうだろうから。だから来ないで、拒絶なんて本当はしたくないけれど。


 ああ、言葉が湧き出て、発せず消えていく。


「ごめん、ごめんね? 困らせちゃってごめんなさい。私が、想いを伝えちゃったから、だから楓さんは、私達の前から消えちゃうの……? 私は、そんなのいやなの。ワガママでごめんなさいっ、でも居なくなってほしくないの! 真白ちゃんのことが、大好きだから」


 黙り込んでいる私に、彼女の声が響く。まっすぐに、凛としたソプラノが私を貫く。


 彼女を見つめる。目が合う。気まずくて、逸らす。彼女の瞳は、曇りのない愛を湛えていた。なんでそんなに純粋で綺麗な愛を私に向けるのだ。私は貴方達を騙して、私は貴方達を裏切った。そんな私に、何を求めるの。


 愛に返せるのは、きっと愛だけだ。それも、等しい愛だ。熱量も、思いも、同等かそれ以上を返さなくては、割にあわない。けれど私は、それを彼女たちに渡せない。二人から、選べないから。


「ごめんなさい、優依ちゃん。私は、わたしは、っ」


 本当は、一緒にいたいよ。


 私も本当は、貴方達に愛を告げたい。必死でここまで追いかけてくれる貴方達に、謝罪じゃなくて感謝を伝えたい。


 もう何度目かわからない。言葉を飲み込んだ。飲み下した。苦かった。


 そんなに虫のいい話は存在しないのだ。甘い。甘ったるくて、羨ましい。


「楓、さん。私は、今日まで一緒に過ごしてきた、真白ちゃんとの思い出は変わることがないと思っています。え、っと。私が好きになったのは紛れもなく真白ちゃんで、そして、その一部はきっと、楓さんなんだと、思います。楓さんが私のことを、見てくれたこと。優しくしてくれたこと。過ごした時間は嘘じゃないし、楽しい時間も、共有した思い出も、全部全部、変わらない。私は、真白ちゃんにも、楓さんにも、いなくなってほしくない、です」


 考えながら、彼女は必死に言葉を紡いでくれる。


 潤む瞳に、手を伸ばしたくなる。抱きしめたい。私のために、そんな顔をしないでほしい。もっといい人はいるはずだ、私なんかじゃなくていい。


 確かに彼女が言うことは正しい。悠一を排除してから、いや、その前から。私が真白になってから、彼女たちと日々を過ごしてきた事実は変わらない。その時間も、彼女たちに掛けた言葉も、全部、嘘偽りない真実だ。彼女たちを思う気持ちも、全部全部、本当のこと。


 優依ちゃんの言葉は温かい。愛おしい。貴方が私に伸ばしてくれる手を、取りたくてたまらない。


 ……でも。でも、私は。


「私は、柊真白の居場所を奪ったんだ」


 口から溢れた言葉は、私の中でずっと燻っていた思いだった。伝えるための言葉ではない。これは、ただの、私の懺悔。唇を噛む。血が滲んだ。少しだけ、血の味がした。


 真白が真白として生きてきた時間を、私は奪い取った。悠一を追い出して、私は自分のための楽園を造った。彼と、やろうとしたことは変わらない。私が彼を追い出したのに、結局結果は同じだった。本当は悠一がもらうはずだったかもしれない、或いは、『柊真白』が受け取るはずだったかもしれない思いは、好意は、全て私が奪ってしまった。


「ごめん、なさい」


 本当にごめんなさい。謝ることしかできなくて。その温かい手をとれなくて。投げかけてくれる言葉に応えられずに。素直でまっすぐな思いを踏みにじって。


 ごめんなさい。何度謝っても足りないけれど、何度だって謝るから。だから、許してほしい。


 大好きな人達へ。苦しませてごめんなさい。どうか、私のことは早く忘れて。幸せになって、なんて言わない。言えない。でも、私を覚えていることは、貴方達の幸せにはなり得ない。



 また、私は逃げた。今度こそ、彼女たちの温かい手の届かないところへ。


 最後に見た彼女の顔は、悲痛に歪んでいるような、そんな表情だった。最後くらい笑っている彼女の顔を見たかった。けれど、私は彼女を不幸にした人間なのだから、そんな資格すらないのだろう。


 走る。追いつかれないように、気付かれないように。学校の外に出た。色濃い夏を感じる。蝉時雨。揺らめいた陽炎を追うように、グラウンドの砂を蹴った。


 足を出して、息を吐いて、地面を蹴って、息を吸う。吸いすぎて、噎せた。足を止める。


 必死で走った。あのままだったら、優依ちゃんの甘い言葉に絆されてしまいそうだったから。学校からはぼちぼち離れた。


 優依ちゃんに甘えられれば、どれだけいいか。星羅ちゃんに頼れれば、どれだけいいか。


 私が選んだのはそういう道なはずなのに。それなのに、苦しいのだ。


 陽炎が揺らいだ。孤独を嘲笑われた気がした。


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