第50話 本当の私
嫌に静かだった。今日は始業式の日。だから、部活があるところが少ないのだろう。普段は賑やかで仕方ないくらいの部活棟が、足音を響かせるくらい静かだ。
まだ日は高く、差し込む光は強すぎない穏やかさ。夏の匂いを優しく纏った陽だまりを踏みにじって、部室の扉を引いた。カラカラと乾いた音が響く。一番乗りだ。
数ヶ月前、これと同じ準備をした。あの時は、私が悠一の悪事を彼女たちに暴露して、この部活から排除するために。場を整えながら、思考は妙に澄んでいた。それは、何故だか今も変わらない。
思考が、やけにクリアだ。今から私は彼にしたのと同じように、自分がしてきた過ちを彼女たちに告白する。
愛の告白に対して返す言葉が、私の隠してきた真実だなんて。ああ、なんて馬鹿らしい。自分で大切な居場所を壊すのだ。
いや、もう壊してしまっていたのだろうか。少なくとも私がここに足を踏み入れることはもうないだろうし、彼女たちに笑顔を向けてもらうこともないだろう。
寂しい。苦しい。でも、これは私が選んだ道で未来で、受け入れなくてはいけない痛みだ。
二人が来るまでの時間が、永遠に思えるほど長く感じた。別れを告げたくないという我儘ゆえだろうか。この時間が永遠ならば、私は彼女たちとずっと一緒に笑っていられるだろうから。自分で選び取った答えが、途轍もなく憎たらしい。
選び直したら、私はどんな道を通るのだろう。このエンディングを迎えていただろうか。悠一を排除しなかったIFの世界なんて見たくもないけれど、でも仮にそうだったら、私と彼女たちが別れることはなかったのかもしれない。考えたくもない未来。何故か、頭に浮かんでしまう未来。
幸せになりたいけれど、私の一番の幸せは優依ちゃんと星羅ちゃんの幸せだ。二人が笑っていればそれでいい。私のせいで、彼女たちが傷つくのは見たくない。
悩み抜いて決めた私の答えを、二人に伝えよう。
ゲーム同好会の部室には、窓がある。教室の奥、見晴らしの良い場所。ここから見る景色が好きだった。下校中や部活に勤しむ生徒たちの姿、日々様子を変える空の色、雲の形。変わらない街並みと、灯り。
ゲームでは映ることのなかった景色。この世界に来て知ったこと。思い出した、明るい楽しかった記憶。初めて見たこの景色に心を奪われたことが、今でもありありと思い出せる。
カラカラと乾いた音が鳴った。私が先ほど立てたのと同じ音。扉が開いて、二人分の足音と息遣いが聞こえた。
「お待たせ、マシロ」
「時間掛かっちゃってごめんね、真白ちゃん」
声に振り向くと、この世界のヒロインが二人。制服姿の二人は、ゲームの画面越しでもこちらの世界でも、一番見たことのある姿かもしれない。
やっぱり、綺麗だ。
「全然大丈夫だよ、来てくれてありがとう、ふたりとも」
ただのお礼なのに、二人は微笑みを浮かべてくれる。この笑みを崩すのも私の言葉なのだろう。正直、自分で決めた思いですら告げたくないと思ってしまった。
けれど、もう決めたのだ。
「今日は、二人に返事をしたいと思って呼びました。……まあ、メッセージで伝えた通りなんだけどね。二人とも直接伝えてくれたのに文面で返すのは申し訳ないなって思ったから、わざわざ呼びつけちゃってごめんね」
「直接聞けて嬉しいよ、ありがとう」
「てかまあ、部室来るぐらいそんな手間じゃないしね」
「ふふ、そっか。ありがとう。あと、たくさん待たせちゃってごめんなさい。最初にこの二つだけは謝っておきたかったんだ。思いを伝えてくれたのに、それを返すまでにいっぱい待たせちゃってごめん。今からちゃんと伝えるから。だから、聞いてほしい、ですっ」
優しい目。ようやく、二人の顔をちゃんと正面から見ることができた。言葉を何度も浮かべて考えて、何を言うかまとめようと思ったけれど結局やめた。
二人に対しては誠実でいたいと思ったから。今までやってきたことが誠実かどうか言い切れないからこそ、気がついた今はきちんと向き合いたい。
全部、私の我儘だ。けれど、二人は私のことを受け入れてくれる。どれほど優しいのだろう。彼女たちの愛は、どれだけ深いのだろう。
「まず、ね。二人から、想いを伝えてもらえて、すごく嬉しかったんだ。私自身は優依ちゃんのことも真白ちゃんのことも大好きで、二人と一緒にいられて楽しかったから。だから、二人に好いてもらえたってことがめちゃくちゃ嬉しかった。ありがとう。伝えてくれた言葉も、すごく響いたよ。私のことをたくさん考えてくれたんだなって思えたし、二人と過ごしてきた時間の大切さにも気付かされた。楽しかった日々も、二人に抱いてもらった感情も。全部ぜんぶ大事な宝物で、幸せなの。……長々伝えるのも、違うよね」
言葉を切る。伝えたいことが溢れ出す。二人に伝えたい愛だけが膨らんではちきれそうだ。でも、今から伝えるのは、その愛とは真反対だ。彼女たちを混乱させないように、早く、伝えなきゃ。
口の中が、やけに乾いている。
「優依ちゃん。星羅ちゃん。ごめんなさい。私は、二人とお付き合いはできません。」
二人の顔を見たくない。でも、私は言葉を続けなくちゃいけない。
「そして、ごめんなさい。私は、二人に嘘をついていました」
息を呑んだような音が聞こえた。探るような視線も感じる。全て甘んじて受けよう。全て、私が蒔いた種だ。二人が声を発そうとするのを遮るように、言葉を紡いでいく。
「私は、本当は、真白……
「私の本当の名前は、
あはは、なんて力なく笑ってみる。二人は言葉を失っているようで、何も言えずにいるらしい。そんな現状に甘えて、とりあえず説明を続けていく。二人には早く、私なんて人間のことは忘れてもらわなきゃいけないのだ。
「私は、優依ちゃんと星羅ちゃんに似た人のことを知っていたの。名前も顔も同じ人。私はその子達のことが大好きで、真白ちゃんの体になったんだって分かった時、二人と仲良くできるんじゃないか、って思ったんだ。結果的に二人を騙すみたいになってしまって、ごめんなさい。本当は、二人のことが大好きなだけで、大切にしたいって思ってるだけだったの。仲がいい友達になりたい、って気持ちが、二人を傷つけてしまったと思う。……本当に、ごめんなさい」
深く、頭を下げる。これは、私がしなくちゃいけないことだ。謝罪しかできない不甲斐ない私を、許してくれる人はいるのだろうか。結局こうして、ありもしない希望に縋る。
「二人のことが大好きです。二人に似てる人じゃなくて、目の前にいる優依ちゃんと星羅ちゃんのことが、大好きで、大切で。……でも、私が告白の返事をしたら、優依ちゃんか星羅ちゃん、どっちかのことを傷つけることになると思ったの。私は、二人のことが大好きだから、だから、二人のうちどちらかを傷つけることは、したくない。私が優依ちゃんとか星羅ちゃんを傷つけて、不幸にすることはできないの。私が真白として生きることにしたのは、二人を、幸せにしたかったから。だからね。決めたんだ」
「私は、二人を不幸にしたくない。私の力じゃ、二人共を幸せにする未来は描けない。それなら、私が、消えるしかないかな、って。そうしたら、二人は傷つかずに済む。私も、二人を傷つけずに、済む、から、っ……」
おかしい。何度も、何度もシュミレーションしたはずなのに。二人にさよならを告げるシーンを描いたのに。どうして、私の頬には涙が伝っているんだろう。どうして、視界が歪んで二人の顔が見れないんだろう。
何故、私はここから消えたくないと思っているんだろう。決まっている。私は二人のことが好きだから。
……行きたくない。本当は。でも、私は悠一を追い出して歯車を狂わせた。
狂わせた私も、彼と同じように二人の前から消えなくてはならない。
決めたことだ。こうすれば、二人共、傷つかずに済む。これが最善だ。
「さよなら」
大好きです、と言いたかった言葉を飲み込んで、俯いて。私の言葉を受け取った二人の顔が見たくなかった。だから。
走り出した。振り返れなかった。学校の廊下は走らない。そんなルール知らない。今くらい、知らないフリをしたっていいだろう。
涙が頬を横向きに流れていく。口の中に不意に入った涙が塩辛い。悲しい時の涙はしょっぱいのだ、と、どこかで聞いた気がした。
ゲーム同好会の部室には涙が数滴、床に染み込んで、染みを作った。
飲み込んだ言葉とこぼした涙の行く先は、一体どこにあるのだろうか。
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