第36話 星羅の得意なこと

 鈍痛が沈んだ思考を呼び戻す。強くはないが確かに来る痛みにぎゅっと頭を抑えた。


 体にかかったタオルケット。どうやら私はソファに寝かされていたらしく、頭のところには柔かなクッションが置かれていた。


 随分寝心地がよかった。くぁ、と小さく欠伸を零して、体を起こす。肩まで掛かっていた布団代わりのそれが、腰のあたりまで落ちた。


「ぁえ、もう夜……?」


 夏の日は長い。早くに日が昇り、燦々と輝き続けた太陽はゆっくりと沈んでいく。そんな夏の一日を満喫していたはずなのに、いつの間にやら日は沈みかけだ。


 海の端が赤く染め上げられている。夜が光を追いかけるように、薄暗い青が世界を占めていた。


 外が徐々に暗くなっていくのにも関わらず、部屋の中はあまり眩しくない。そんなことにふと気がついて見上げると、照明がかなり落とされているようだった。


 私が眠っていたからなのだろうか。細やかな配慮に感謝をする。


 ……さて、意識が途切れるに至ったのは一体なぜだっただろう。睡眠は十分すぎるくらい取っていたし、物理的な衝撃が加わったというわけでもなかった気がする。


「あ」


 となると、精神的なものか。気がついた瞬間に、一瞬消えていた記憶が戻ってきた。


 そうだ。大富豪。それと一緒に引いていた罰ゲームトランプが余りに過激というか、二人を推している身としては嬉しさやら恥ずかしさやらが限界突破してしまったような気がする。


 頭がくらりと揺れて、ソファに倒れ込んだところまでは覚えている。きっと体を動かして、寝やすいようにしてくれたのだろうと想像できた。二人の優しさが温かい。


 ……そういえば時間が時間だが、二人は今はどこにいるのだろう。


 私のいるスペースは常夜灯だけがつけられて光量が落とされているため、明るいところはすぐに分かった。そう、キッチンである。


 寝起きのおぼつかない足で、ゆったりと歩を進める。


「あ、起きたんだ。おはよマシロ」

「うん、おはよう星羅ちゃん。心配掛けちゃったかな、ごめんね」


 何やらごそごそとキッチン周りで動いていた星羅ちゃん。私が起きてきたのに気付いてくれたようで、ひらひらと手を振ってくれた。


「そりゃ心配もするわよ。急に倒れるんだから……。寝てるだけっぽかったからそのまま寝かせておいたんだけど、体はどう?」


 多少荒っぽくも聞こえるのに、声には心配が滲んでいる。確かに目の前で倒れてしまったのだから、心配させてしまっただろう。申し訳なく思いつつ、星羅ちゃんが気にかけてくれている事実が嬉しくもある。


「全然平気だよ! ただまだちょっと頭がぼーっとしてるから、顔洗ってくるね」

「ん、いってらっしゃい」


 裸足でペタペタとフローリングを歩く。そういえば優依ちゃんはどこにいるのだろう。それは後で星羅ちゃんに聞いてみることにして、蛇口を捻った。


 冷たい水が肌にしみる感覚。ぼんやりしていた思考が鮮明になってゆく。


「ただいまぁ、そういえば優依ちゃんって今どこにいるの?」

「優依は今買い物中。ご両親に頼まれたみたいで、運転手さん呼んで車で出掛けていってたよ」

「なるほどね! 星羅ちゃんは……見た感じ、夕飯の準備中、かな?」

「せーかい。優依が何時になるかわかんないけど、ぼちぼち帰ってくるかもしれないから夕飯の準備してようかなって思って」

「じゃ、じゃあ手伝わせて! 昨日はあんまり力になれなかったし……」


 昨日どころか、不器用がゆえに毎回二人に任せっぱなしにしてしまっていた部分がある。優しい二人はあまり気にしていないようだったが、申し訳なさは拭えないのだ。


「んじゃあ、お願いしよっかな」

「っ、うんっ!」


 よほど私が嬉しそうな顔をしていたのだろうか、星羅ちゃんの口元に笑みが乗る。苦笑というよりも、微笑ましいとでも言った表情。少しだけ恥ずかしくて、けれど嬉しいのも確かである。


「何作るの?」

「材料とかから見てパスタかなーって。それだけだと味気ないからスープ作って二品にしようかなと思ってるよ」

「おぉ……!」

「そんな大層なやつじゃないんだけどなぁ」


 今度はくしゃりと苦笑する星羅ちゃん。表情の変化に乏しいと思われがちだけれど、彼女はたくさんの笑い方のバリエーションを持っているのだ。そんな彼女と触れていられる時間が愛しい。


「マシロ、手ぇ洗った?」

「さっき洗ったけど、一応もう一回洗っておこうかなぁ」


 なんせ推し二人と一緒に食べるご飯づくりだ。念には念を入れるのが私のモットーである。


「おっけ、手洗ったら材料切るの手伝ってほしいんだよね」

「ん、了解っ」


 いつもより丁寧に手を洗って、包丁を握る。差し出されたのは玉ねぎとニンニク、そしてベーコン。


「ベーコンは短冊切り、ニンニクはみじん切りで、玉ねぎは、んー……角切りがいいかなぁ。お願いしても良い?」

「え、あ、はいっ」

「わかんなかったら聞いてー? ちょっと食材見てるから」


 包丁で切る簡単な作業を任せてもらったはずなのだが、懐かしい単語たちが出てきて困惑している。昔々の家庭科の時間にしか聞いたことがない。


 短冊切りってこういうやつだよな……?


 包丁と、目の前の食材たちと格闘する。皮むきが必要なものはもう済ませてくれているようなので、私のミッションは切るだけだ。


「猫の手……」


 記憶を掘り起こしながら、おぼつかない手でどうにか進めていく。難易度が低そうなベーコンから取り掛かったのが功を奏したのだろうか。既に不格好ではあるが、きちんと切り終えることができた。


 次は……難易度を考えるとニンニクが良いだろう。


 みじん切りの正しいやり方をしらない私。一人でやってみようかとも思ったが、失敗するほうが怖いので一旦星羅ちゃんに聞きに行く。


「えっとね、とりあえず半分に切ったら芯があるのよ。それ取り除いたら、横向きに包丁入れてから縦向きに切ると良いんだけど……難しそうだったらできるだけ小さく切ってから、包丁を両手で持って上下に動かしてみて?」


 不安そうな私を見てか、本来教えようとしていたやり方とは違うやり方に変えてくれたらしい。とはいえどちらも難しそうに感じるので、料理下手にはみじん切りは鬼門なのだろうか。


 教えてもらったとおり、半分に割る。すると、たしかに芯のような物があった。確かこういうときは包丁の手前の部分を使うんだっけ。ない記憶をひねり出しながら、とりあえずニンニクを小さく刻んでゆく。


 よくわからないままではあるがみじん切りにはなっただろうか。


 さて、最後は玉ねぎである。


 ……これは前世でも良い思い出のない野菜だ。美味しくて好きなのだが、目が痛くなるのが頂けない。角切り、と言っていたので、小さい四角形にすればよいだろうか。


 へたの部分と、下の根っこの部分を切り落とす。平たくなって切りやすくなったので半分に包丁を入れた。この時点で、ツンと鼻にくる匂いがキッチンに広がっている。まだ頑張れる気がする。


 次は、一センチの幅ができるように繊維と逆向きに包丁を滑らせた。切れ味が良いから、よく切れる。刃を入れて、滑らせる。徐々に、目が痛くて潤んでいく感覚があった。涙がこぼれそうになるが、包丁を動かす手は止めずに。


「っあ! ぃ、ったい……、うぅ、」


 堪えきれずに涙を一粒零せば、潤んでいた視界のせいだろうか。勢い余ってしまって、指先を切ってしまった。


 赤が滲む。目も痛いし鼻の奥も痛いし、切れてしまった親指も痛い。どこもかしこも痛くて、玉ねぎのせいかどうかも分からない涙がまた溢れそうになった。


「マシロ!? ちょっとアンタ手……! ちょっと見せて」


 私が叫んだのを聞いて見に来てくれたのだろうか。また、星羅ちゃんの心配そうな声が私を呼んだ。怪我をした方の手を取られる。


「結構深いわね……、っん、」


 切ったところから滲んだ血は、いつの間にか流れ出しそうになっていた。

 確かめるように傷を見た星羅ちゃんは、躊躇なく私の指を自身の口に入れた。


「っえ……!? せ、せらちゃん!?」

「んん、ぁに、……?」

「えぁ、ごめんしゃべれないよね、えと、どうしよっ」


 動揺が止まらない。まず人の血ってなめて大丈夫だったっけ、というか、それよりも指で感じる彼女の口の中が熱い。ゆっくりと動いている舌の感触が、腰にぞくぞくとした何かを送ってくる。


 なんだか、変な気分になりそうな。


 どうしようどうしよう、と慌てっぱなしの私のことを窘めるように、星羅ちゃんは空いている手で私の肩を優しく叩く。ゆったりとしたペースに、段々と気持ちは落ち着いてきた。


 変わらず彼女の口は私の指を咥えたままだが。


 時折吸ったり、チロチロと舌を動かしたり。やけにその動きが扇情的で、私を窺う上目遣いに胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。


「っん……せらちゃん、とまった?」

「ん……びっくりさせないでよね、絆創膏とってくるから待ってて」


 ある程度血は止まったようで、最後に口づけのように離れていった私の指と彼女の唇。離れていくそれを見つめてしまう私はおかしくなってしまったのだろうか。


 ぱたぱたと走っていく星羅ちゃん。傷はまだくっきりと残り、じんわりとではあるが血が滲む。けれどそのペースは先程と比べ物にならないくらいゆっくりになっていた。


 戻ってきた星羅ちゃんに、絆創膏を貼ってもらう。その手付きは真剣そのもので、彼女の心配がそのまま伝わってくるようだった。


「ご、ごめんね」

「謝ってばっかりじゃなくて、お礼の言葉も聞きたいんだけど?」


 くるりと指を一周するように、絆創膏が貼られる。若干バツの悪そうな、けれど芯を持った瞳。


「んん……ありがとう、星羅ちゃん。おかげで助かったよ」


 申し訳ない気持ちもありつつ、心からの感謝を告げる。これでよかったのだろうか。不安が残り、また謝りそうになって急いで口を噤んだ。


「いーよ、もう……心配、したわ」

「気をつけます……」

「ん。とりあえず痛いだろうから後は見てて?」


 手伝えるところは手伝いたい、と思ったのだが、彼女の有無を言わさぬ雰囲気に大人しく頷く。満足そうに微笑んだ彼女は、私が途中で投げ出していた玉ねぎを手にとって刻み始めた。


「星羅ちゃんすっごく手際いいね! 切るのも早かったしすごいなぁ」

「なんか料理はちょっとできるのよね」


 トマトと玉ねぎ、それにニンニクが炒められて、良い匂いが漂ってくる。アイランドキッチンのカウンターという特等席で彼女を眺めていた私は、その手際の良さに感心するばかりだった。


 まず包丁の使い方が素人とは思えないほど綺麗で早いのだ。包丁の滑り方から、切り終えた形の揃い具合も。丁寧な料理、というのはこういったことを言うのだろうと推察できるほど。


 フライパンの動かし方も、火の入れ方も。漂ってくるいい匂いに、思わず目を輝かせる。


 ホールトマトを潰しながら入れて、水気が飛ぶまで煮詰める。ニンニクのスパイシーな香りと、トマトの甘酸っぱい匂いが混ざって食欲を唆った。煮詰めている間に、と、次はスープの下ごしらえを。


「マシロほんと不器用だね〜」

「ご、ごめんってば……!」


 不揃いなベーコン。それを見て、幼子を愛でるような表情になった星羅ちゃん。口では弄ってくるのに、そんな表情をされては怒るに怒れなくて困ってしまう。


 結局何も言わずに、彼女の手元を眺めていた。


 料理のできない私からしたらまるで魔法かなにかのように見えるくらい、スムーズかつ丁寧に料理を作り上げていく。パスタを鍋に入れる瞬間は、本気で星羅ちゃんが魔法使いなのかと思った。


「すごいねっ」

「そうでもないよ? もっと食材があればちゃんと凝って作れたんだけど、あんまり材料ないからさぁ」


 とってもキラキラしている料理たちも、星羅ちゃんに言わせてみれば「まあまあ手抜き」らしい。抜群の手際によって作られたのは、トマトソースのパスタに、コンソメのスープの二品であった。


 コンソメスープが沸騰しないくらいに煮立ち、いい感じに水気の飛んだトマトソースにパスタを絡めているタイミングでコテージのドアが開く。


「ただいま! すっごいいい匂い……!」


 潮風がひっそりと吹き抜ける。

 食卓に並べる料理は完成して、食べる人間が揃ったところで。


「「「いただきます!」」」


 手を合わせて、声が重なった。


 香り高いコンソメと、トマトの爽やかな中に交じるオリーブとニンニクの香り。違う種類の匂いなのに喧嘩しない組み合わせは食欲を掻き立てる。見た目をとっても、彩りや盛り付けまで拘られていることがよくわかる。早く食べたいと悲鳴を上げているお腹に応えるように、くるくるとフォークにパスタを巻きつけて口に含む。


 「美味しい」を連呼し続ける私を嬉しそうに眺める星羅ちゃん。

 なぜだろう、酷く印象に残っている彼女の瞳は、やけに優しかった。


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