第32話 終わる夢、分断される現
お母さん――フウカがそう告げた途端に、シルキィのオーグメントは動きを止める。
『お母さん……お母さん……』
シルキィの脳内に響く声は、困惑した様子でその単語を何度も繰り返した。
一方で、そうしている間にも彼女の意識は徐々に遠ざかっていく。
『お母さん……娘……フウカ……』
変わり果てた意識の中に、わずかに残る家族の記憶。
バラバラになっていたそれを寄せ集めて、一つにすると、形が浮かび上がってくる。
オーグメント――否、フウカの母であるコユキは、それを確かめるように、瞳を開いた。
触手はフウカを取り囲むと、その表面に何十個もの眼球が浮かび上がらせる。
『ああ、フウカ……私の娘……』
記憶と、感覚が得た情報が結びつき、彼女は完全に“思い出す”。
オーグメントはフウカを抱きしめるように包み込んだ。
そして彼女もまた、その仕草に“母”を感じ、身を委ねる。
「どうりで懐かしい気分になるはずだ。お母さん、シルキィは私の恋人なんだ。だから――どうか助けてやってほしい」
助ける――そう言われても、シルキィはもはや、中身の無くなった卵の殻のような状態だ。
命をつなぐのに必要な機関は、全て失われているように感じられる。
意識も――魂も――この世界から遠ざかっていって。
親子の再会を見つめながら、シルキィの視界は暗闇に閉ざされた。
◇◇◇
「ん……んぅ……?」
わずかな違和感を覚え、明日香は目を開いた。
いつもなら天井が見えるはずなのだが、眼前には肌色の何かがある。
彼女は試しに、それにぺちりと手で触れてみた。
「やば……」
何か喋った。
もう片方の手でも触れてみる。
「あ、明日香、ごめんって。別にいたずらしようとしたわけでは――」
そのまま顔を近づけて、唇を重ねた。
「んむっ!?」
最初は驚いた繭も、すぐさま抱き返して、ベッドに倒れ込む。
そして二人はじゃれ合うように抱き合いながら長めのキスを楽しんだ。
ベッドは二人で眠れるように大きいサイズを買ったので、そのままゴロゴロ転がっても問題はない。
唇を離すと、明日香の目はすっかり覚めている。
「おはよう、繭ちゃん」
「おはよ。朝から大胆すぎるって」
「繭ちゃんこそ、寝てる私にキスしようとしてたくせに」
「う……だって仕方ないじゃん、いつもは明日香が先に起きるから、なかなか観察できないんだもん。じっと見てるうちにかわいすぎて我慢できなくなったの!」
言い訳になっていない言い訳をまくしたてる繭。
明日香は思わずくすくすと笑った。
しかし、繭の後ろにある時計を見て、すぐに固まる。
「あれ……もしかして私、寝坊をっ!」
慌てる明日香の頭を、繭が苦笑しながらぽんぽんと撫でた。
「まだ寝ぼけてるなぁ? 今日の講義は午後からだよ」
「あ……そ、そうだっけ」
だから昨日は夜ふかしをしたのだ――と昨夜のことを思い出し、思わず赤くなる明日香。
繭と明日香が同棲を初めて数ヶ月。
すっかりお揃いのパジャマも馴染んできた。
いくら幼馴染とはいえ、共同生活を始めるとなれば、多少の問題は出てくるだろう――なんて少しだけ不安を抱いていたのも昔の話。
さすがは物心つく前からの幼馴染といったところか、二人は至って平和な日常を過ごしている。
「んー……なんか顔色悪いね。いつもより起きるのも遅かったし、体調悪いの?」
「そんなことはないよ! むしろ、いいぐらいなんだけど……」
言葉を濁す明日香に、首をかしげる繭。
「ごめん、私にもうまく説明できないんだ。たぶん……夢を見てたんだと思う」
「夢?」
「うん、すっごく良くない夢。でも、起きたらすっかり内容は忘れてて……」
「それで顔色が……どうする、今日は休む?」
「体調は気にしないで! 本当の本当に大丈夫なの。繭ちゃんの顔を見てたら、それだけで元気になれるから」
嘘を言っているようには見えない。
調子が悪いときは素直に言うのが明日香だ。
繭もそこに関しては疑っていない。
「わかった。とりあえず朝ごはん食べよっか」
「うんっ」
◇◇◇
同じソファに座り、テレビを眺める明日香と繭。
といっても、情報番組にはほぼ目は向いておらず、見つめ合っては笑い、じゃれついては笑いを繰り返しているだけなのだが。
季節は夏――朝とはいえ暑めの室内なのだが、二人はお構いなしにくっついている。
「はあぁ……やっぱり朝のお味噌汁は染みるねぇ」
「ふふっ、繭ちゃんってばおばあちゃんみたい」
「実際におばあちゃんになったらどうなるかわからないよ? 意外とスタイリッシュになってるかもしれないし」
「朝ごはんがお味噌汁じゃなくてポタージュになってたり?」
「それは……お味噌汁がいいなぁ」
「繭ちゃんはおばあちゃんになっても変わらなそうな感じする」
「今までも変わらなかったから?」
「だって18年も一緒なんだもん」
「そこいらの若い夫婦より一緒にいるんだねぇ……」
「最終的には100年ぐらいになるのかな」
「まだ5分の1以下なんて、恐ろしいな人生……私をどれだけ幸せにするつもりなんだ」
お互いに、相手が近くにいるだけで幸せになるのだから、何事もなければこの先50年は幸せが保証されたようなものだ。
二人の未来はあまりに明るい。
「だからこそ……怖いんだよね」
「何が?」
「繭ちゃんがいなくなること」
ふいに明日香は、繭に体を預けると、寂しそうにそう言った。
まるで、繭がどこかに行ったことがあるかのように。
「私はどこにも行かないよ。明日香のいる場所が、私の居場所なんだから」
「……そうだよね」
「そんな不安そうな顔して、よっぽど怖い夢を見たんだね」
明日香は繭に抱きしめられ、胸の中でよしよしと頭を撫でられる。
これは現実である。
夢なんて、この幸せの前では取るに足らないものだ。
「なんでかなぁ、内容も覚えてないのに……怖すぎて忘れちゃったのかも」
「隣で寝てたのに、助けに行けなかったのかな、私」
「そんなの無理だよ、夢だから」
「いーやできる。きっとまだまだ私の愛が足りないんだね」
「これ以上増えたらどうかなっちゃうかも……」
「……そんなにしんどい?」
「んーん、しんどくない。でもよすぎてちょっと怖い」
明日香が上目遣いで頬を赤らめると、繭の心臓はどくんと跳ねた。
耳を当てずとも心音が聞こえそうなほどに。
「明日香、この空気……そんな雰囲気だけど」
「うん」
「今日、同窓会だよね」
「……あ、そうだった。さすがに午後に講義行って、そのあと同窓会だと体もたないね」
「ううぅー、私としてはいっそ講義サボりたいぐらいなんだけどー!」
「一緒に卒業できなくなっちゃうかも」
「だよねぇ。かといって同窓会をすっぽかすわけにもいかないし。そういや先生も来るんだってね」
「先生?」
「2年と3年で担任だった木村先生。忘れちゃったの?」
「忘れてないよ。だって、つい最近まで授業受けてたんだから」
ただ、“先生”という単語を聞くと胸がざわつく。
だがどうせ夢の中で何かあっただけなのだろう。
記憶はもう消えた。
残り香もじきに消える。
それは、気にするだけ無駄なものだ。
だって現実はここにあるんだから。
「んー……明日香、とりあえずさ」
「とりあえず?」
「ちょっとだけ、いちゃいちゃしよっか」
絶対に“ちょっと”じゃ終わらないなぁ、と確信しながら、明日香は「いいよ」と頷いた。
◇◇◇
暗闇の中に、割れ目のような光がある。
黒と白の境界には、膜のようなわずかな障害があり、少し力を入れれば“あちら側”に行けそうな気がした。
シルキィは、その手前でじっと光の先を見つめている。
明日香と繭が、幸福に包まれる姿を。
「黒川さん」
ふと名前を呼ばれ、シルキィはびくっと肩を震わせた。
慌てて立ち上がり振り返ると、そこには制服姿の女生徒が立っていた。
「吉田さん……なの?」
「はい、吉田さんですよ。戻る前に、クラスメイトを代表して挨拶をと思いまして」
辺りを見回すと、他にも同級生たちの姿が見えた。
全員ではないが、みな一様に、シルキィと同じように光を覗き込んでいる。
「黒川さんのおかげです」
「私の……?」
「丸木さんと一緒に、私たちも解放されたんだと思います。ようやく、元の世界に戻ることができます」
吉田さんの背後で、一人の生徒が光に飛び込んだ。
「あ……」
「
「じゃあ、明日香も」
「もう戻っていると思いますよ」
だから明日香は夢を見た。
もう二度と思い出すことは無いし、思い出す必要もないが。
シルキィは振り返り、改めて光の中を見る。
彼女が最後に見た明日香の姿は、あまりに悲惨なものだった。
だが今はどうだ。
シルキィが異世界に来る前よりずっと明るく笑っている。
繭自身もそうだ。
そこには――誰もが望む幸せがある。
「私たちも、あちらに戻れば、この世界で受けた仕打ちなど夢のように忘れてしまう」
「もし……戻らなかったら、元の魂に問題は起きるのかな」
「2年後の私たちも平気みたいですから、問題はないと思いますよ。その必要があるかどうかは別として」
“必要”。
それが最も重要だ。
少なくとも、繭を除く同級生たちは、みな元の世界に戻るべきだ。
あちらの世界で感じたものは、せいぜい苦痛と恐怖ぐらいのものだから。
「私を必要とする人がいる」
だが、シルキィは違う。
得たものは、苦しみだけではなかったはずだ。
光と闇を比べれば、圧倒的に闇の方が多いといえるぐらい碌な目に合わなかったが、それでも。
「必要とされるから、戻るんですか?」
「私も、必要としてる。それに、“あっち”の私じゃなくて、“こっち”の私にしかできないことだから」
「……そうですか。でしたら、あのとき施設から一人だけでも逃げ切れたことは、無駄ではなかったんですね」
「もちろんだよ! ありがとう。吉田さんじゃなくて、みんなに言いたい……心から、ありがとうって」
吉田さんはにこりと笑った。
きっとその微笑みも夢に消えてしまうのだろう。
だが、何もしないより、少しぐらいはマシな目覚めになるはずだ。
「私、行くね」
シルキィは光に背を向け、どこまでも続く闇に向かって歩きはじめる。
「黒川さん」
「ん?」
「私からも――いえ、私たちからも言わせてください。解放してくれて、ありがとうございます!」
その言葉は――オーグメントとの衝突が、喪失だけの戦いではなかった、無駄ではなかったのだと、そう告げているようで。
次に目を覚ましたとき、シルキィは自分の命を肯定できそうな気がしていた。
そして彼女は「どういたしまして」ととびきりの笑顔で返すと、闇に向かって走り出す。
同級生たちは、一人、また一人と光に消えていく。
もちろん吉田さんもだ。
誰もいなくなった暗闇の中で、シルキィは延々と走り続けた。
やがて、その彼方に小さく光が見え始める。
光が近づくにつれて、その先にある景色も見えてきた。
誰かが泣いている。
血まみれになったシルキィの体にしがみついて、角の生えた、見た目だけは大人びた少女が、子供のように泣いている――
◇◇◇
イニティに存在する病院の一室。
黒髪の少女は、目を閉じたままベッドに横たわっていた。
その手を掴み、念じるように「シルキィ、シルキィ」と名前を呼び続けるフウカ。
ファムとルーシュは部屋の隅に置かれた椅子に座り、心配そうにその様子を見つめていた。
「フウカ、いくらオーグリスだからって、3日も寝ずに付き添ってたらあなたまで倒れるわよ」
「構うものか! シルキィが生きていないと意味がないんだ。もし二度と覚まさないのなら、いっそ倒れてしまったほうがいい!」
「そーゆーのって、だいたい倒れる間に目を覚ましたりするよね」
「するわね」
ルーシュたちが苦言を呈すのは、もう何度目か。
3日前、シルキィと明日香の戦いが終わったあと、ルーシュとファムは少し遅れて現場に到着した。
そこにいたのは、フウカと、彼女に抱き上げられた血まみれのシルキィだった。
しかし、不思議なことにシルキィの体には傷がなかった。
フウカが言うには、オーグメントにされた彼女の母“コユキ”が、シルキィの肉体を再生してくれたらしいが――
「体は完全に元に戻っているんだろう? ならなぜ目を覚まさないんだ」
「形は元通りだけど、人間とは全く別物になってるんだもの。医者にだってわからないわ」
「でもいずれは目を覚ますって言ってたよね」
「完全に脳が死んだ人間は、とある魔術に反応しなくなるのよ」
「でもシルキィちゃんは反応したから大丈夫、と」
「そうは言うが……医者にもわからないんだろう」
「それはそうねぇ」
いずれ目を覚ます、と言った人間も、それが100%正しいとは言い切れない。
専門家でも、誰にもわからない――そのせいで、余計にフウカの不安は膨らんだ。
コユキとの対話に成功し、全てがうまくいったかのように思えただけに、落差が大きい。
フウカはシルキィの顔に近づくと、頬にかかった髪を指で軽く動かして、頬に触れた。
「体はこんなに暖かくて……顔だって、ただ眠っているだけのようにしか見えないのに……なのに……っ」
つぶやきながら、フウカの瞳から涙がこぼれる。
ここ最近、彼女はすっかり涙もろくなってしまった。
それだけシルキィへの想いが大きいということだろう。
誰も代わりになんてなるはずがない。
ただ一人、この世界にいる、シルキィという少女だけが――孤独に荒んだ、フウカの心を埋めることができるのだ。
「シルキィ……頼むよ、目を覚ましてくれ……シルキィっ……」
そんなフウカの願いに応えるように、シルキィの瞳が開く。
そして目を開けた瞬間、あまりに近くにフウカの顔があったものだから、シルキィは少し驚いた。
ビクッと肩が跳ねる。
顔も動く。
二人の距離は元から近く、そこから動いてしまえば――自ずとゼロ距離になる。
「んむ」
「ふむっ!?」
重なる唇。
正真正銘のファーストキスだった。
お互いに状況が把握できずに、固まるシルキィとフウカ。
だが徐々に頭は冷静になり、そして冷静になるにつれて顔は赤らんでいく。
しかしなぜか、顔を離そうという気にはならなかった。
こんなことをしている場合ではない、と思う一方で、“もっとしたい”とも思ってしまったからだ。
とはいえ、それもずっとは続かない。
返ってきた冷静さが本能を冷まし、フウカはようやく正常な判断力を取り戻す。
「う、うひゃあぁぁあああっ!?」
がばっと顔を離し、大げさに後ずさった。
背中をドンと壁にぶつけると、彼女は手で唇に触れる。
「お、おはよ……」
シルキィは照れくさそうに言った。
「あ、ああ……おはよ、う」
フウカの顔も真っ赤である。
ちなみに、黙って様子を見守るルーシュは口元を手で隠しながら小刻みに肩を震わせ、ファムは堂々と隠しもせずにニヤニヤしている。
「……起きた、のか?」
「うん、そうみたい」
「生きてるん……だな?」
「どうにか、ね。ところでフウカ、今、唇……」
「あ、ああ……当たった、な」
「あはは、初めてのキス……だね」
場違いだとは思いながらも、シルキィは恥ずかしさにはにかむ。
その仕草を見て、紛れもなく“生きたシルキィ”だと感じたフウカは、唇を噛むと、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ぅ……うぅ……っ。良かった……もう、もう目を覚まさないんじゃないかって……」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、再びシルキィに近づいていく。
シルキィも両手を広げて、フウカを迎え入れた。
「うえぇ……よがったぁ……よがっだよぉお……!」
フウカはシルキィの胸の中で泣きじゃくる。
「私も、戻ってこれてよかった」
シルキィは、慈愛の眼差しで彼女を見つめながら、頭を撫でる。
この感触は、夢ではない。
シルキィは、そういう選択をしたのだ。
複製した魂として、元の世界の魂と一つになるのではなく――この世界で幸せになると。
「ずっと一緒だよ、フウカ」
残ったからには、何がなんでもフウカのことも幸せにしてみせる。
シルキィは、心に強く誓った。
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