第22話 その種に水を与えてはならない
光が示す場所に立ち、慎重に糸と糸の間に脚を踏み入れるシルキィ。
(発想がどこかで見たゲームみたい)
ふとそんなことを思った。
仮に、作った張本人が彼女と同郷の誰かなら、あながち間違いでもないのだろう。
「進む方向、そっちでいいのかよ」
アングラズは、タムガルとは異なる向きに移動するシルキィを見て言った。
「シルキィが見ている光は正しい。確実にたどり着くには迂回が必要なんだろう」
当然彼女が返事できるはずもなく、すかさずフウカがフォローした。
シルキィは身をかがめ、頭を上半身を隙間に滑り込ませると、ゆっくりと脚を前に動かす。
少しのミスで糸に触れてしまう緊張感の中、体を支える片足が震えていた。
(これ、思ってたより……キツい……!)
動きは緩慢だが、それだけに体幹の強さが試されている。
そこに緊張も加わり、指先も震えだした。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が荒くなり、嫌な汗がじとりと手のひらににじむ。
「何もできないのがもどかしいわね」
「頑張れぇ……めっちゃ頑張れぇ……!」
ファムとルーシュは、その様子を見つめながらただ祈ることしかできない。
彼女たちの声に勇気をもらいながら、なおも前に進むシルキィ。
シルキィとタムガルの距離は半分ほどまで縮まったが、『逃亡者』のスキルが示す光はここから大回りをする必要があるため、進行度はまだ3割程度といったところだ。
しかも、この先、五割程度進んだところで大きな難関が待ち受けている。
(いくら『身体能力強化』があると言っても、無茶振りすぎるよ『逃亡者』ぁ)
自分のジョブに文句を言っても仕方ないのだが、そうも言いたくなるというものだ。
足元に糸があるため、体を支えるのは片足のみ。
その状態で、光はシルキィの頭上に向かって伸びている。
要するに、片足で飛び上がり、糸に当たらぬよう定められた通りに一回転して、また片足で着地しろというのだ。
まるで雑技団の曲芸ではないか。
(でも、光が指し示す以上、不可能じゃない。できる、私ならできる、私なら――)
シルキィはそう言い聞かせながら、フウカのほうを見た。
彼女は両手を強く握って祈っていたが、目が合うと、『シルキィなら絶対にできる』と勇気づけるようにうなずいた。
なんだか、本当にできるような気がした。
(惚気けてるなあ、私)
そう自分で苦笑いしながら、シルキィはわずかに膝を曲げた。
そしてふわりと空中に飛び上がる。
自分の身長よりも高い跳躍――その上でくるりと宙返りして、両脚は張り巡らされた糸を見事に避けていく。
(よし、行ける!)
そう確信した次の瞬間、シルキィは右脚に強い痛みを覚えた。
思わず「い、づっ」と声が漏れる。
「シルキィっ!」
フウカは前のめりになり声をあげた。
他の3人も驚いている。
だがそうしている間にも地面は近づく。
シルキィが自らの脚に目を向けると、何かに貫かれ出血していた。
(まさか糸から――そっか、あれも化物の一部みたいなものだから)
彼女を攻撃した物体の正体は、糸から発射された血の塊のようなものだった。
さすがに空中で飛んでいる間に足元を狙われたのでは、避けることも防ぐこともできない。
足裏が床に触れる。
踏ん張ると痛みはさらに強烈になり、シルキィの体が傾きそうになる。
(く……力は入る。この、痛みさえなければッ――!)
彼女はそう強く願った。
すると『逃亡者』の力はそれに答え、新たなスキル――『逃走時痛覚軽減』が目覚める。
とたんにシルキィの痛みは弱まり、ぐらぐらと倒れそうになった体も安定した。
「あ、危なかった……」
安堵したのはシルキィだけではない。
その様子を見つめる四人もほっと胸をなでおろす。
(今の、絶対にスキル使ったよね。あと何枠? 前に見たときは枠は2つ空いてた。でもそのあと逃げた分で増えてれば、まだ――)
残る道のりは半分。
ここで相手が嫌がらせをしてきたということは、ただではタムガルを助けさせてはくれないということ。
まだまだ何かを仕掛けてくるだろう。
もっとも、考えたところで、もう後戻りはできないのだ。
乗り越えていくしかない。
血を流す脚に若干の痺れを感じながらも、これまでと同じように前進するシルキィ。
すでに
幸い、先ほどスキルを習得したため、それで足が止まることはないが、見ているフウカは自らの不甲斐なさを呪っていた。
「あんまり怖い顔すんじゃねえよ、さすがにビビるだろう」
「あんなに傷だらけになっているのに、見ていることしかできないんだぞ……!」
「だからって俺を睨まれても困る」
「ここからでも手伝えることないのかなぁ……」
「下手に手を出すと足を引っ張ることになるわよ」
「わかってるし。でも……」
「場合によっては、タムガルを捨ててシルキィだけを連れ戻す。アングラズ、それでも構わないな?」
「……半端になっちまうが、そもそもあん中に入ること自体がリスキーだしな。構いやしねえよ」
最も避けるべきは、タムガルとシルキィの共倒れだ。
だからどちらか一人しか助けられないのなら、この場にいる全員が迷わずにシルキィを選ぶ。
なぜならタムガルは、あの状態になった時点で実質的に死んでいるようなものだからだ。
彼はフウカとアングラズの会話を聞いて、小刻みに首を振っている。
しかしシルキィが傷ついていく姿を目の当たりにしたからか、恐怖から声も出せないようだ。
一方で、傷だらけのシルキィは、さらに集中力を増して周囲の声すら聞こえなくなっていた。
一種のトリップ状態のようなものだ。
傷だらけになって追い詰められたからこそ、火事場の馬鹿力のようなものを発揮しているのだろう。
それをどこかで見ているのか、はたまた自動的なものなのか、張り巡らされた糸が新たな動きを見せた。
『繭ちゃん』
シルキィは、耳元で自分の名を呼ぶ声を聞いた。
糸が微細に振動し、音を発しているのだ。
『繭ちゃん、2年ぶりだね』
その声を聞いて、平静を保てるはずがなかった。
思わず体をこわばらせ、動きが止まるシルキィ。
(明日香……なの……?)
それは、彼女が最も待ち焦がれ、同時に最も恐れている存在。
黒川繭の幼馴染であり、親友であり、おそらく恋心を抱いていた相手。
2年前、繭を逃がすために施設に取り残された人間。
『2年間もよく逃げられたね、すごいよ繭ちゃんは』
(違う……違う、違う。これが仮に本当の明日香の声だとしても、あの子は、もう……)
『私も化物になったと思ってる?』
(っ……)
『違うよ。ああ、この糸は佐々木さんなんだけど、その体を使って私はこうして繭ちゃんに話かけてる』
(意思が……ある? 明日香は、化物のに、なってない?)
惑わされるな、と自分に言い聞かせても、明日香の生存を期待する甘さがそれを跳ね除けてしまう。
「動き止まったわ……」
「シルキィ、もう進めないのなら無理をする必要はない。私が助けに行くから、返事をしてくれ。シルキィ!」
様子のおかしなシルキィに、フウカは必死で呼びかける。
その声にはっとしたシルキィは、絞り出すような声で応えた。
「大丈夫。少し、休んでただけ、だから」
そして再び動きだした。
そうしている間にも、明日香らしき声は絶え間なく彼女に語りかけてくる。
『私ね、ずっと繭ちゃんのことを探してたんだよ。ここ1年ぐらい、ようやく施設から外に出る許可をもらえたから。もちろん軍の命令に従う条件付きで、だけど』
(この喋り口調……声の抑揚……あの化物たちが発していた声とは、明らかに違う)
『クラスのみんなも一緒。本当は廃棄処分になるはずだったんだけど、相性がよかったから。繭ちゃんも会ったよね、話は聞いてるよ』
(……クラスの、みんなって)
『あんな姿になったけど、みんな意識はあるんだ。元の形とは違うけど、本気で繭ちゃんのこと心配してる。一緒に、元の世界に帰りたいと思ってる。みんな人間だよ、私たちと何も変わらない』
(でも……あんな姿で、元の世界に帰ったところで……)
『全部無理なのにね』
(そう、何もかも……私と明日香以外は)
『私と繭ちゃんもそう。私たちに帰る場所なんて、ない』
シルキィは強く唇を噛んだ。
この2年間、明日香は何をされて、何を見せられてきたのかはわからない。
だが、シルキィが逃げ続けた旅路よりも、ずっと苦しい目に合ってきたのは間違いないのだ。
(もし……本当に生きてるんなら、私は明日香を)
『だから私は、繭ちゃんのことを』
そう、きっとお互いに、お互いの身を案じている。
共に相手の苦しみを理解しようと務め、そうして考え抜いた上で――
(救いたい)
『殺してあげたい』
結論を出している。
お互いに、どこまでも噛み合わない結論を。
シルキィは目を伏せ、聞こえてきた言葉を噛みしめる。
殺す、と。
明日香はそう言った。
彼女なら絶対に口にしない言葉だ。
シルキィは理解する。
もし明日香が、あの化物と違う形で生きていたとしても――その中身は、もう別物に変わってしまっているのだと。
だからこそ、化物になってしまったクラスメイトを“同じ”だと言っていたのだ。
『私たちに未来なんて無い』
シルキィは、再びフウカを見つめた。
視線で勇気を貰う。
湧き出す胸の暖かさが、凍てつく絶望を溶かしてくれる。
あと少し。
そう自分に言い聞かせ、血を流しながら前に進む。
ゴールまでは、あと2割ほど。
『けれど死ねば、魂だけは元の世界に戻れるかもしれないから』
声にはこれ以上耳を貸さないことにした。
どうせ罠だ。
シルキィの心を揺るがすためだけの。
誰が、どんなつもりでやっているのかは知らないが、乗ったところで彼女に得るものはない。
だからがむしゃらに、今はただタムガルを助けることだけを考える。
『それが、たった一つの、私たちがあるべき場所に帰る方法』
生きたいと思う理由がある。
迷いや戸惑いはあるけれど、大切だと思える人の存在は、こんなにも自分を前向きにしてくれる。
『ねえ繭ちゃん』
2年間、ずっと逃げ続けてきた。
物理的にも、精神的にも、未来へ進むことを考えられないでいた。
【ありえないことが起きてしまいました。面白い結果ではありますが、これを奇跡と呼ぶか、世紀の大失敗と呼ぶかはこの場では判断しかねます】
しかし今は[殺せ]違うのだ。
そしてきっと、タムガルを助けられれば、シルキィはもっと前へ行ける。
『もし生きてここから出られたら』
右腕が蠢く。
(頭が……痛い。明日香の声だけじゃない、何かが、私の頭を揺さぶって……)
耳鳴りがして、頭がぐわんぐわんと揺れる。
【警告はしておきます。今の体で戦おうなどとは思わないことです。戦ったら負けなんです。貴女は逃げることしかできない。万が一、戦おうなどと思えば――】
ひょっとすると、本当に明日香が出てきたら、そのときはまた折れそうになるかもしれない。
『屋敷の東にある路地で、待ってるから。必ず一人で来てね』
だが、そのときはそのときだ。
おそらく隣にはフウカが[返せ]いて、抱きしめて、また立ち上がらせてくれるかもしれないのだから。
【みんな死にます。敵も、味方も、貴女自身も】
だから、今は――
(余計なことを考えるな。思い出すな。考えるな。思い出すな! 考えるな!)
タムガルはもう目の前だ。
手を伸ばせば、肉の爆弾に触れられる距離まで来ている。
指先が脈打つそれに近づいたそのとき、肉塊に横一文字の線が入った。
そこから裂け、まるで口のようにぐぱぁっと開く。
さらに無数の鋭い牙が生えてくる、肉塊はタムガルの体から離れ、シルキィに向かって飛びかかる。
即座にフウカたちも反応するが、シルキィと肉塊の距離が近すぎる。
彼らにシルキィを救うのは不可能だ。
だが、救わずとも、シルキィ自身の力で切り抜けることはできる。
(そんなことだろうと思った)
彼女は落ち着いていた。
最後の最後だ、何らかの罠が仕掛けてあることは装丁済みだったのだ。
すでに“光”は見えている。
糸に囲まれているため、動ける範囲は限られているが、それでも――手首から先が動けば十分だ。
スキル『絶命回避』。
シルキィの指先が撫でるように肉塊に触れると、口を開いたまま軌道が逸れていく。
周囲から見ると簡単にやったように見えるが、それを受けた当人は、なぜ受け流されたのか、その理由を一切理解できぬまま体勢を崩されるのだ。
これでタムガルから危機は去った。
しかし――
(あれ? 爆弾自体があの糸に触れても、もしかして爆発……する?)
肉塊は勝手に跳ねて、勝手に糸にぶつかる。
そしてもちろん、その場合も起爆する。
シルキィが振り返ると、すでに肉塊は爆発寸前まで膨張していた。
(結局、どっちにしたって爆発するんじゃん!)
だが、彼女の行為が無駄だったわけではない。
わずかでも爆弾とタムガルの距離が離れること――それが重要なのだから。
次の瞬間、彼女の体は何者かに抱き上げられていた。
ふわりと漂う甘い香りで誰なのかすぐにわかった。
フウカだ。
肉塊が襲いかかった時点で動き始めていたため、この速度でシルキィの元に駆けつけることが出来たのだ。
フウカはシルキィを優しく抱きしめ、そしてタムガルを雑に片手で掴むと、できる限り爆弾から距離を取ろうとした。
そのとき、ファムとルーシュも動く。
まずルーシュが強化魔法を使い、ファムの腕力を高める。
そしてファムはナイフを投げ、爆発寸前の肉塊を串刺しにした。
だが絶妙な力加減により貫通はせず、肉塊は壁に磔にされる。
結果、シルキィたちと爆弾の距離はさらに離れた。
最後にアングラズが、フウカの前に壁になるように立ちはだかる。
彼はハルバードを両手で握り、自分の前で回転させはじめた。
ここで肉塊は限界を迎え、爆ぜた。
衝撃と共に紅炎が溢れ出し、瞬く間に部屋を埋め尽くす。
窓ガラスは割れ、壁も砕け、ドアも壊れ、外に待機していた兵士も吹き飛ばされる。
とっさにルーシュはファムに覆いかぶさり、床に倒れ込んだ。
フウカも同じようにシルキィをかばう。
だが彼女たちとタムガルには、爆風は襲いかからなかった。
「ぬおぉぉおおおおおおッ!」
猛りながらハルバードを高速回転させるアングラズが、それを全て打ち消してしまったからだ。
最終的に、彼の背後だけが無傷で残った。
他の場所は壊れるか、焼け焦げるかのどちらかだ。
空いた大穴から吹き込む風が炎を揺らし、燃え広がっていく。
「水魔法を使えるやつ呼んでこい、消火活動を急げッ!」
突然の爆発に腰を抜かす兵士たちだったが、アングラズの声で発破をかけられ、慌ただしく動き出す。
「思ったより強烈な爆弾だったし」
「殺意に溢れてるわね」
ファムは、ルーシュが直前に張った障壁のおかげで何とか無傷だった。
「爆発しちゃった……なかなかうまくいかないね」
フウカの腕の中で、シルキィはしょんぼりと肩を落とす。
するとフウカは、ぽんと彼女の頭に手を置いた。
「いや、それは違う。誰も死んでいないじゃないか」
タムガルも無傷ながら、目の前で起きた爆発への恐怖でガタガタと体を震わせている。
しかし、生きている。
「紛れもなくシルキィの力だ」
フウカの言葉を聞いて、シルキィの胸に自信が湧いてくる。
それを受け入れ、彼女が「そうだね」とうなずくと、フウカは満足げに微笑んだ。
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