小学校からクラスが一緒だっただけの女

紙城境介

本文


 まるで二本の平行線のように、交わらない人間というものがこの世にはいる。

 すぐ近くにいて、視界にも入っていて、けれど自分の人生には関わらない人間。

 それは決して特別なものではなく、考えてみればいくらでも存在して、そして、気付きもしないうちに忘れている。

 彼女も、そんな人間の一人だと――この瞬間までは、思っていた。


「…………え゛…………」


 自分の口から零れ出た、喉を詰まらせたカエルのような声で、『えっ?』と彼女は振り向いた。

 ちょっとした、クラス内での打ち合わせだった。

 ビデオ通話で何人かが集まって、例によって雑談混じりにぐだぐだと、決めるべきことを決めた――その後のことだった。

『お疲れー』という声と共に、一人、二人と通話から退出していき、俺も落ちるか、と退出ボタンにマウスカーソルを動かしたとき。

 気付いたのだ。


 俺以外に、まだ一人、映像を繋げっぱなしの奴がいて――

 ――そいつが、今まさに、シャツを豪快に脱ぎ捨てたことに。


『ふー……』


 と、そいつは息をつきながら、続いて手早くスカートを足元に落としていた。

 俺は咄嗟に、声を上げることができなかった。

 薄いピンク色のブラやパンツに目を奪われていたから――というのも、もちろんあるだろう。

 こんなこと本当にあるんだ――という謎の感動も、なかったとは言えない。

 けれど、何よりも俺の思考を止めたのは――


 まさか、こいつの下着姿を見ることになるなんて。


 ――という、圧倒的な意外性だった。

 その驚愕が音となって漏れたのが、さっきの「…………え゛…………」だったというわけだ。


『えっ?』


 彼女は――呉宮くれみやりんは、俺のほうに振り返る。

 正確には、スタンドに立てたスマホのカメラのほうに。

 そして、モニター越しに、バッチリと目が合い、そのまま固まった。


『…………ええーっと…………』


 愛想笑いの出来損ないみたいな表情で、呉宮は言った。


『これ…………見えてる?』


 呉宮も頭がついていかないのか、胸元を隠すことさえしない。

 彼女の胸が、こんなに膨らんでいることさえ、俺は知らなかった――制服の上からではわからなかった。

 俺は気まずく目を逸らしながら、


「…………見えてる…………」


 と、絞り出すように言う。

 呉宮は今度こそ、何かを誤魔化すように愛想笑いをした。


『ぇは……そ、そっかぁ……。マジかぁぁ……』


 この気まずい空気。

 多少なりとも気心の知れた相手なら、どうにかして笑い話にできたのかもしれない。

 まったく関わりのない相手なら、一言謝ってスッパリ終わらせられたのかもしれない。

 だが、俺たちはそのどちらでもなかった。


 彼女のことは、小学校の頃から知っている。

 昔は人気者で、中学では演劇部で、高校では少し大人しくなったのを知っている。

 決して、幼馴染みではない。

 結婚の約束も、朝起こしてもらったことも、喋ったことすらほとんどない。

 けれど、彼女は常に視界にいた。

 俺の人生の端っこに、けれど確かに、存在していたのだ。


「……ごめん、切るな」


 俺は改めてマウスを握り、退出ボタンを押そうとした。

 最初から、さっさとこうすれば良かったんだ。何してるんだ、俺は。


 呉宮は、今更ながらカメラの画角から離れている。すでにバーチャル背景しか映っていない映像を、俺は消し去ろうとして、


『……歩村あゆむら


 聞き馴染みのある、けれど呼ばれ馴染み・・・・・・のない声に、一瞬だけ手を止めた。


『キミって……そんな顔もするんだね。知らなかった』


 少しだけ迷って、……そのまま退出した。


 ――彼女も、俺のことを知っていた。

 俺が表情の出にくいタチで、いつも薄い顔で友達と駄弁っているのを知っていた。


 繰り返そう。

 決して幼馴染みではない。

 だが、幼い頃の彼女を知っている。幼い頃の俺も知られている。

 ふと話しかけるとき、呼び方に戸惑うこともない。

 俺――歩村あゆむら越児えつじにとって、呉宮綸は、ただの――


 ――小学校から、クラスが一緒だっただけの女だ。






「うっす」


 朝、教室で見慣れた連中に声をかけると、「おー」「んあー」「ぼえー」だのといった気の抜けた挨拶が返ってくる。

 高校も2年に進級し、2ヶ月が経とうとしている。クラス替えの直後は、今までつるんでた連中が軒並み別クラスになったせいで落ち着かなかったものの、今では上手く空気の合う奴らを見つけて、収まるべきところに収まっていた。


「なあ、もうすぐプール授業始まるじゃん」

「おー」

「男女別々でやるじゃん」

「おー」

「昨日、ネトフリで古いアニメ見てたんだけどさぁ、男女一緒でやってたんだよ! いつからだ!? いつからプール授業は男女別でやるようになっちまったんだ!?」

「おめーみてーな奴がいるってわかったときからだろー」


 俺がスマホをチェックしている間に、時間を食い潰すようなどうでもいい雑談が、右から左へ流れていく。


「仕方ねぇだろ! 女子の水着なんざ、授業以外で見るアテがねぇんだからさあ!」

「ふうん。お目当てでもいるわけー?」

「(そりゃお前……凪神さんに決まってんだろ?)」


 最後だけ小声だった。

 一同の視線が、教室内でもいっとう目立つエリアに吸い寄せられる。

 そこにいるのは凪神なぎがみ優璃ゆうり。人形めいた顔立ちと出るところの出たスタイルを併せ持つ、我がクラス自慢の美少女だった。


「(あるか? 他に! 凪神さんの水着姿を拝める機会が! 見ろよ、あの制服を押し上げるおっぱいを! あんな巨乳は他にはいねぇぞ!)」


 凪神さんは確かに、制服越しでもわかるくらいの巨乳だった。カップ数なんか知るはずもないが、グラビアアイドルにいてもおかしくないくらいのスタイルであることはわかる。

 でも、他には……?

 俺の脳裏に過ぎったのは、昨夜、ビデオ通話の事故で見てしまった、呉宮の下着姿だった。


「他には、いない……?」

「ん? どうした歩村?」

「……いや」


 服の上からだとわかりにくいだけで、呉宮も実は、凪神さんに負けないくらい大きいぞ――なんて、もちろん言うわけがない。

 ましてや、水着姿どころか下着姿を見たことなんて――


「――歩村、ちょっといい?」


 噂をすれば影だった。

 声に振り返ると、そこには呉宮綸が立っていた。


「……呉宮……」


 ぐうう、気まずい。

 何も答えずに通話を切ってしまったことが、今更のように心に圧し掛かった。せめて何か反応してから切ればよかった。あれじゃ逃げたのがバレバレだ。

 呉宮はショートのボブカットをさらりと揺らし、俺の顔を覗き込む。


「ちょっと顔貸してくんない? ……用件はわかってるでしょ?」

「……わかってる……」


 溜め息を堪えながら立ち上がる俺を、友人どもが怪訝げな顔で見上げた。


「珍しくね? お前らって、なんか関わりあったっけ」

「ちょっと打ち合わせ。ね、歩村?」

「あー、そうそう」


 よくもそうノータイムで出任せを言えるものだ。昔から、呉宮は要領がいいタイプだったよな、と思い出す。


 二人連れ立って教室を出て、廊下の奥まったところまで行くと、呉宮は壁に背をもたせかけ、居心地悪そうに顔を逸らした。

 俺は所在なくその場に突っ立ったまま、呉宮が口火を切るのを待つ。


「……あー……昨日のこと、なんだけど」

「……ん」

「誰にも……言ってない?」

「言うわけないだろ……」

「そっ……か。ごめん……」


 ……うーん。この空気。

 お互い、どういうノリで行けばいいものか図りかねているこの感じ。

 小1からかれこれ10年、同じ教室にいただけはあり、相手の性格のことは知っている。呉宮は基本、明るい奴だし、俺が茶化してしまえば、きっとそれに乗ってきてくれるんだろう。

 けど……俺、そういうタイプじゃないしな。

 だから今まで関わりがなかったわけだし。


「は……話には聞いてたけどさあ、本当にあんだね、ああいう事故!」


 動いたのは呉宮が先だった。

 明るく、誤魔化すように、へへへと笑いながら早口で喋る。


「気を付けなきゃなあとは思ってたんだけど! あたしってほら、そそっかしくてさあ。小学校のときも――」

「――ああ、そういえば」


 不意に浮き上がってきた記憶があって、俺は思わず口を開けていた。


「あれって、小4くらいだっけか? ドッジボールの大会でさ、お前が思いっきりボール投げたら、味方の女子の後頭部に直撃して――」

「そっ……そうそうそう! めちゃくちゃ泣かしちゃってさ、放課後まで平謝り!」

「あったなあ、そんなこと……」

「うわー、懐かしい! ねえねえ、じゃあアレ覚えてる? 中学の修学旅行で、バス乗るときにさー――」

「あー! アレだろ? 牧田がバスに乗ろうとしたら、その手前で急に消滅した事件!」

「そう! なんか溝の中に落っこちてたんだよね! クラスみんな大爆笑だったなあ~」


 懐かしい。ほんの2年くらい前のことなのに、もう遠い昔みたいだ。

 ……というか、普通に話せてる。

 むしろ盛り上がってる。

 ろくに話したこともないのに――昔の、どうでもいいエピソードを思い返してるだけで。


「……あれ? なんか普通に話せてない、ウチら?」


 呉宮も、はたと気が付いて首を傾げた。

 俺は苦笑を滲ませて、


「伊達にずっとクラスメイトやってないってことだな」

「あっ……覚えてるの? あたしら、小1からずっと同じクラスだよね?」

「覚えてるよ。そんなのお前しかいないしさ」

「ねー! 2年に上がったときもさ、クラス表見て『うわ! また同じじゃん!』って! もはや運命じゃない?」

「だとしたら、小3のときのエミちゃんのほうが良かったよ、俺は」

「えっ? エミのこと好きだったんだ? うわー、意外!」

「意外じゃないって。あのときの男子はほとんどみんな好きだったぞ?」

「マジかよ! あたしのほうがモテてるつもりだった!」


 そのとき、予鈴が鳴った。

 足早に教室に入っていく生徒たちを見て、俺と呉宮は、どちらともなく目配せを交わす。

 何だか、尻切れトンボのような気がした。

 ここで呉宮との会話を終わらせるのは、なんとなく、勿体ないことのような気がした。


「……ねえ」

「……ん?」


 呉宮はスカートのポケットからスマホを取り出す。


「あたしらって、まだLINE交換してなかったよね?」

「してなかったと……思う」

「じゃ、しない? また懐かしい話もしたいしさ……」

「……まあ、いいと思うよ」


 お互いのIDを交換して、「戻ろ!」と教室に歩き出す。

 小1から数えて、10年……か。

 性格も、趣味も、何もかも合うことのない二人が、それでも盛り上がれてしまうくらい、10年という月日は重いもののようだった。






〈今どうしてる?〉


 誰だ、こんなツイッターみたいなLINEを飛ばしてくる奴は。

 と思って確認してみれば、それは呉宮だった。

 IDを交換して初めてのチャットだ。

 あまり放置できる間柄でもないので、俺は素早く返信を打ち込む。


〈校庭で写真撮ってるけど〉

〈あ、そっか。写真部か〉

〈知ってたのか〉

〈そりゃ知ってるよ。行事のたびに駆り出されてるでしょ?〉


 放課後、俺は夕暮れの校庭をスマホで写真に収めていた。

 一眼レフとかを使うほど本腰を入れた撮影じゃない。これはまあ、ちょっとした日課みたいなものだ。


〈そっちはバイトなんじゃないのか?〉

〈え? なんで知ってんの?〉

〈あんなでかい声で話してたら嫌でも聞こえる〉

〈いやー、お恥ずかしい〉


 会話が一区切りついたと見て、LINEを閉じて撮影を再開する。

 夕暮れってやつは、問答無用である種の価値を生む。何気ない部活中の一幕でも、夕暮れってだけでなんとなく儚さを帯びる。何であってもカレー粉をぶっかければカレー味になるのと同じ。どんな風景も、夕暮れになれば夕暮れ味になる。

 そういう意味では、被写体として大して面白くはない。だが、高校2年の今日この日の夕暮れは今しかない――そう思うと、写真に収めずにはいられなくなる。


 ちょうど、陸上部が片付けを始めているところだった。

 それを風景の一部として、赤く染まった校庭全体を――


「――どもっ」


 撮ろうとした瞬間、画角に女が割り込んできた。

 肩にスクールバッグを提げた呉宮綸が、両手でピースをして、チョキチョキと動かしていた。


「……何してんの?」

「撮影していると聞いて。美少女JKはお呼びではあるまいか、と」

「美少女JKて」

「バイトまでちょっと時間あってさー。付き合ってよ、10年同クラのよしみで」


 美少女を自称しながら恥じる様子もない。確かに、今は逆光で影になっているものの、呉宮の顔立ちは整っているほうだとは思うが――

 というところで、そういえば、と思い出したことがあった。


「呉宮って、昔はメインヒロインやってたよな」

「はあぁー? 今でもあたしは、あたしの人生のメインヒロインですけど?」

「いや、中学の頃さ、主演やってなかったっけ。演劇部で」


 呉宮は今でこそ帰宅部で、あくせくと勤労に励んでいるみたいだが、中学では演劇部のエースだった……らしい。

 そのスター性が日常でも漏れ出ていたのか、クラスでも中心的な存在だった――そう、今のクラスで言う、凪神さんみたいな存在だ。


高校ウチにも演劇部ってあったよな? なんで入らなかったんだ?」


 何気ない質問だった。

 だが、呉宮は急にスンっと仏頂面をして、


「さては君、モテないな?」

「……デリカシーなかったか?」

「少々ね。ま、でもいいよ。下着見られたのに比べれば」

「いや、それは本当に悪かった」

「一生悔やめ! いや、やっぱ忘れて」


 冗談めかして言いながら、呉宮は俺の隣にしゃがみ込んで、夕暮れに染まる校庭を眺めた。


「まあ、一言で言えば、上には上がいるってわかったんだよ」


 軽い調子で、呉宮は言った。


「中学まではさあ、そりゃあ調子こいてたよ。何せあたし、そこそこ可愛いもんでね。基本ちやほやされてたし、自意識がむくむくと膨らみ通しだったわけ。それでまあ、いっちょ女優でも目指しちゃおっかな? とりあえず演劇部に入っちゃおっかな? そんな感じでイキってた人生でした」


 けど、と呉宮は夕空に溜め息をつく。


「凪神さんを見ちゃうとなあ……」

「本物の美少女JKか」

「そういうこと。普通に無理だわって思った。アレとは戦えん! なんなん!? あのクソ整った顔! ぽよんぽよんのおっぱい! チートすぎだろ!」

「胸は――」


 ――お前も似たようなもんだろ、と言いかけて、俺は口を噤む。

 けど、時すでに遅し。

 ジト~っとした目が、斜め下から俺を突き上げてくる。


「胸は?」

「……すまん」

「へん。寄せブラに騙されんなよ、少年。アレはほとんど腋の肉だ」

「マジで?」

「ごめんね、夢壊しちゃった? そういえば歩村って、浮いた話一個も聞こえてこないよね」

「うるさいな。今時こんなもんだよ。そっちこそモテてた割に付き合ったって話は聞こえてこねえけど?」

「…………あ゛~~~~~っ!!」

「どうした!?」


 呉宮が急に頭を抱えて悶え始めた。


「黒歴史を思い出させるなあ~~~!! モテすぎて勘違いして、大真面目な顔して『わたし、みんなに平等でいたいの……』とか言ってフりまくってた女はなかったことにしろ~~~~~っ!!」

「……………………」


 そんなしょうもない理由でモテ期をふいに……?

 今まで遠く思えていた呉宮が、急に哀れに思えてきた。

 それはそれとして、身を捩って悶える呉宮が面白かったので、俺はスマホのレンズを向けた。


「いやっ、ちょっおい! なに撮ろうとしてんの!?」

「撮られに来てくれたんだろ?」

「やめろ~っ! 美少女JKはこんな黒歴史で苦しんだりしない~っ!!」


 問答無用で撮った。

 スマホに記録された画像を確認して、俺は口角を上げる。


「いいじゃん」

「は? んなわけないじゃん!」

「マジだって。見てみろ」


 俺は呉宮の隣にしゃがみ込んで、スマホの画面を見せる。

 そこには嫌そうな顔をしてカメラを押しのけようとする呉宮がいた。

 もちろん可愛くはないし、綺麗なわけでもない。

 けど――


「……なんか、妙な青春感があんね」

「JK同士がふざけて撮った感じ出てるだろ?」

「えー? なんかエモい……。なんで? これが写真部の実力ってやつ?」

「まあな。何事も研鑽を積めばそれなりにはなる」

「へー……」


 呉宮は興味深そうに写真を眺めつつ、


「ね。歩村って、なんで写真やってんの?」

「ん? いや、大した切っ掛けはないよ」

「そう? 写真ってさあ、スマホで日常的に撮ってるけど、当たり前すぎるっていうか……何か切っ掛けでもないと、ちゃんとやろう! って気にならんくない?」


 そうかな。

 そうかもしれない。

 呉宮の事情に踏み込み過ぎてしまった手前、答えないのはフェアじゃない気がした。俺は意味もなく空を見上げて誤魔化しながら、懐かしい思い出を語る。


「小学校の……修学旅行でさ」

「うん。広島だよね」

「そう。女子に、写真撮ってって頼まれたんだよ。で、撮ったら、上手いねって褒められて……そこから」

「うわっ、たんじゅーん」


 ぷくく、と呉宮は笑う。

 俺は唇を尖らせて、


「小学生のガキなんてそんなもんだっつの! 切っ掛けなんて何でもいいだろ?」

「小6の修学旅行かー。あたしもその頃なんだよね、スマホ持ち始めたの――写真まだ残ってるかな?」


 そう言って、呉宮は自分のスマホの中を漁り始める。

 あのとき頼まれて渡されたのも、デジタルカメラじゃなくてスマホだったな。親が旅行に行く子供を心配してスマホを与え始める、そういう時期だったんだろう。


「……あ」


 スマホを見ていた呉宮が、不意に口を丸く開けた。

 それから、ちらりと俺のほうを見ると、


「……ねえ。もしかして……」

「ん?」

「これだったり、する?」


 おずおずと、スマホの画面を見せてきた。

 そこには、厳島神社の鳥居を背景に、5人の女子小学生が映っている。

 見覚えがあった。

 これは、あのとき頼まれて撮った――


「なんでお前が、この写真を……」

「そりゃあ……あたしが写ってるから」

「え?」

「右から二番目、あたし」


 俺は目を細めて、右から二番目に立っている小学生を見る。

 髪をロングに伸ばした、いかにも育ちの良さそうな少女。


「は? ……呉宮って、こんなんだったっけ?」

「こんときはね! あー恥ず!」


 言われてみれば、そうだった気がする。今のイメージに、昔のことはだいぶ上書きされているようだった。


「あとさあ……いま思い出したんだけど……」


 呉宮は言いにくそうに、ショートボブの髪先をいじる。


「キミに撮るの頼んだのも、上手いねって褒めたのも、たぶん、あたし」


 ――うわあ! すごい! 上手いね! 綺麗に撮れてる!

 はしゃぐような声が、耳の奥に蘇る。

 その声色には、確かに、今の呉宮の面影があり――


「いやー……なんか、むず痒いっていうか……」


 へへ、と呉宮は誤魔化すように笑い、


「まさか、あのとき適当に言ったことが、人の人生を変えてたとは……」

「適当に言った!?」

「本当にごめん! 男の子は適当に褒めとけばいいって覚えたばっかで!」


 ぱちん! と勢いよく手を合わせ、頭を下げる呉宮。

 いや……まあ……冷静に考えれば、わかることなんだ。

 小学生に写真の上手い下手なんて、わかるわけねえし……。


「はあぁ……」

「ああああ、マジごめん! いらんこと言ったよね!? あたし!」

「……いや、いいよ……。切っ掛けなんてどうでもいいんだ……。いま楽しいのはホントだし……」

「うわうわ、ちょっとガチで効いてるじゃん……。うーん……じゃあ、わかった! こうしよう!」


 呉宮はすっくと立ち上がると、寄せて上げているらしい胸をむんと張って、男らしく宣言する。


「撮って良し! 好きにするがいい!」

「自分に自信ありすぎだろ……」

「うるせぇい! あたしに人生変えられといて何言ってんだ!」


 まったくもって仰る通りで。

 開き直ったように胸を張る呉宮は、どうしてかエネルギーに満ちている気がした。

 見た目がどうこうじゃない。

 仕草がどうこうじゃない。

 夕映えに照らされているからでも……きっとない。

 俺には、目の前に立つ女の子が、今まで見た誰よりも輝いているように見えた。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 撮らないわけにはいかない。

 ぼんやりとしか覚えてないが、たぶん、俺が人生を変えられたあのときよりも、彼女は綺麗になったんだろうから。


「うむ。撮れ撮れぃ。くるしゅうない」

「ちなみに、ポーズのリクエストはしても?」

「……エッチくなければ許す」

「日和ったな」

「うるさい! 昨日の下着で充分だろが!」

「確かにな。撮影しなくても目に焼きついたくらいだし」

「はあぁーっ!?」


 パシャリ。


「え? ……今、撮った?」

「撮った」


 俺はにやりと笑って、撮った写真を見せる。

 そこにいるのは、羞恥に顔を染め、驚愕に目が揺らぐ一人の少女。

 溌溂な印象を残しながらも、女の子らしい恥じらいを併せ持った一枚だった。


「……かわいい……」

「だろ?」


 渾身の一枚だ。

 呉宮は写真を見つめながら、ぽつりと呟くように言う。


「歩村……写真、上手いね」

「……また適当か?」

「ううん。本当に上手いと思う……」


 ……そうか。

 じゃあ、まあ……成長は、できてるってことか。


「……あたしたちさあ。10年、一緒のクラスなんだよね」

「そうだな」

「そんなに長く同じ部屋にいたのに……知らないこと、あるもんなんだね」


 呉宮が高校で演劇部に入らなかった理由を、俺は知らなかった。

 俺が写真を撮るようになった理由を、呉宮は知らなかった。


「もし。もしだよ? この10年で、一度でも、こんな風に話すことがあったらさ――」


 夕焼けに照らされた呉宮は、ありえたかもしれない可能性を面白がるように、悪戯っぽく笑いながら、言う。


「――あたしたち、幼馴染みだったのかもね?」


 俺にとって呉宮綸は、決して幼馴染みではない。

 結婚の約束も、朝起こしてもらったことも、喋ったことすらほとんどない。

 けれど、彼女は常に視界にいた。

 俺の人生の端っこに、けれど確かに、存在していて。

 今は、俺の視界の真ん中で、からかうように笑っている――


 ――小学校から、クラスが一緒だっただけの女だ。


「……その顔撮ればよかった」

「えっ? なんて?」

「いや、なんでも」

「そう?」


 この日、交わらないはずの平行線が、少しだけ交わった。

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小学校からクラスが一緒だっただけの女 紙城境介 @kamishiro

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