(五)

 数日かけて、マコンドと呼ばれるエスペクタドール川の港に着いた。そこは鄙びた漁村があり、物売りから西瓜すいかを買った。小型船舶ランチを降りると、いよいよどこへ行けばわからないという途方もなさだけがつのった。財布の中身を慎重に数えるホセの服の裾を掴み、サンセは万年雪をかぶる山の方角を指差す。


「あっちへ行こうよ」


 迷いのない言葉に促された。村の人間に話を聞くと、山岳を通る鉄道の駅まで乗合馬車が出ているとの話だった。ふたりはその薄汚れた幌に包まれた座席に、まるで荷物を詰めるようにぎゅうぎゅうに押し込まれることになった。河口に近い、巨大な湖水沼に沿って馬車はがたがたと揺れながらぬかるむ道を進んだ。澱んだ水のなかではイソギンチャクが絡み合い、夥しい量の死んだ魚が浮かび上がっていた。蒸し暑く、今にものぼせそうな熱気が周囲に漂っていた。



 半日かけて鉄道駅まで移動する頃には、雨が降り始めていた。

 一帯は植民地時代から続くフルーツ農園の跡地で、十数年前はそこそこ栄えたという――鉄道はその名残だ――恩恵を与えた合衆国の果物会社が撤退して以来、周囲の農村は荒廃したことを、駅前に置かれた石碑を眺めているときに通りすがりの列車客が教えてくれた。

 終着駅までのチケットと、駅舎の売店で素揚げの青バナナプランテーンを買ったところで、ついに所持金が底をついた。さびれたプラットホームのベンチに並んで座り、甘蕉バナナをかじりながら、ふたりは夜汽車を待った。バケツをひっくり返したかのように勢いよく雨が降っている。

 ホームの屋根はなかばくずれかけていて、雨風は容赦なく吹き込んでくる。地面の片隅にできた水たまりの前にしゃがみこんで、サンセがボウフラを観察していた。


「お前は食わねえのかよ」


 青バナナの包みを見せてそう問えば、サンセは首を左右に振る。


「何か食ってるところ、見たことねえ」


 ゆっくりと首を動かして、サンセがホセを見上げた。濡れた前髪が、その生白い額の上に貼りついている。「お腹がすかないんだ」と、雨音にかき消されてしまいそうな声量で答えた。

 そのとき、遠くから汽笛の音が聞こえた。音の聞こえた方角に顔を向ければ、目が焼けるほどに眩しい白い放射状の光を発しながら、列車がホームのなかにすべり込んできた。もくもくと膨らむ黒い煙のむこう、雨に濡れた車両は甲虫の硬い前翅のようにぎらぎらと輝いた。

 チケットを握りしめて乗り込んだ三等車はさびれきっていて、向かい合うように置かれた長いベンチシートに座る人の数もまばらだった。大量のバナナを入れた籠を背負う男、手紙を握りしめる若い青年――それらを横目に隅のほうへと腰を落ち着けた。話しかけてくる人間はいなかった。

 やがて列車は喧しい金属音とともに動き始めた。

 夜霧にけぶる窓のむこうをときおり信号の光が通り過ぎていく以外には、ほとんど何も見えない。正面に座る老婆がロザリオの珠に触れながら小声で何かを唱えていた。耳を澄ませばそれは祈りの言葉でなく、とめどなく溢れる他者への罵倒の言葉だった。

 列車はのろのろと線路を進んでいった。途中駅では人が降りる一方で、新たな乗客が現れる気配もない。やがて正面の老婆が降りると、車両にはホセとサンセ以外誰もいなくなってしまった。駅でない場所で列車が急停車したのはそれからほどなくのことだった。

 暗闇のなかで、ふたりは何が起きたのかとぼそぼそと議論した。

 列車は一向に動く気配なかった。

 サンセはベンチシートの上にのぼって、回転窓を開け放った。生ぬるい雨水が風とともに勢いよく吹き込むなか、彼は暗闇にむかって身を乗り出した。


「だれかを轢いたのかも」

「……動物か何かだろ」


 爪弾かれたようにサンセがベンチシートを飛び降り、走り始めた。


「おい、どこに行くんだよ!」


 ホセは驚き、一拍遅れて彼の後を追った。サンセはほとんどホセの声など聞いていないようだった。車内を走り抜け、通路に出ると外に通じるタラップを駆け下りる。その光景を目にした瞬間、肝が冷えた。痩せ細った背中にむかって無我夢中で手を伸ばし、シャツの襟首を掴む。

 ザア、と音を立てて雨が吹き付ける。かろうじて踏みとどまったサンセの目と鼻の先を、壊れた柵から飛び出した有刺鉄線が通り過ぎた。列車は再び動き出し、その硬い表面をバラ線が容赦なく引っ掻いていく金属音が鳴り響く。


「……急に走り出すなよ。お前、あのまま降りてたら首ごと吹っ飛んでたぞ」


 サンセはゆっくりと振り返った。


「明かりが見えたんだ」


 その言葉とともに、明け放れた扉のむこうの暗闇に青い光が過ぎった。線路沿いにカンテラを掲げた人の姿が――その足下には何が転がっていたのだろう? ほんの一瞬の出来事で、それが何なのか、正確にはわからなかった。赤い肉塊のようにも見えた。それが外階段の下に突き落としたマリアノに重なって見えて――

 あるいは疲労と思い込みが見せた幻覚だったのかもしれない。頭のなかで補完された光景に、ホセは強烈な吐き気をもよおした。とっさにその場にしゃがみこむ。


「どうしたの?」


 サンセは濡れた髪をかきあげ、ホセを見下ろした。


「はやくもどろうよ」


 何気なく差し出された白い手をじっと見つめる。

 制服の薄いシャツから生白い膚が透けていた。色の薄い乳首が浮かび上がっていた。その下の腹のなだらかなかたち、ウエストの合っていない半ズボンから伸びた両足、その内腿を流れる透明な水。青い光の輪郭をまとって、奇妙に現実感を失ってみえる、その細い体。

 先ほどサンセがこの列車を降りていこうとしたとき、ホセの胸を席巻したのは恐怖の感情だった。置いて行かれるかもしれない――ひとりにされるかもしれないというよるべのなさだった。


「お前さ……」


 言葉を選びかね、何度かまばたきを繰り返した末に、やっと声を発する。


「マリアノとかに馬鹿にされて、いじめられて嫌じゃなかったのかよ。あんな風にされて、ふつう、俺のことも嫌いになるんじゃないのかよ」


 サンセは首を傾げた。


「どうして?」

「どうしてって」

「僕はホセとつがいになりたかったんだよ。僕はたくさん赤ちゃんを産まなくちゃいけないし、そのために生まれてきたんだもの」


 サンセは下腹部をゆっくりと手のひらでなで回している。

 痩せぎすの体に反して、そこは水が溜まったかのように奇妙な膨らみを帯びはじめて――


「……嘘だろ」


 とっさにそう言った。サンセは首を左右に振り、「本当だよ」と笑った。


「ホセの子だといいね」

「まさか」


 数日前の出来事だ――本当に妊娠したとして、そんなにはやく腹が膨らむものか。体中からどっと汗が噴き出した。底なしの悪夢に投げ込まれたような気分だった。


「僕は人間じゃないんだ。そう見えるだけの虫なんだよ」


 いま思い出したというように、サンセが呟く。その場にしゃがみこんでホセと視線を揃えると、何か囁いた。列車の音にかき消されて、ほとんど聞こえなかったが、かろうじてこの言葉を拾った。


 ――僕は、緑の火フエゴ・ヴェルデ



◇ ◇ ◇



 乾いた風が、理科室のブラインドを揺らしている。

 その隙間からは赤い西日が滲んで、歳月を経て黒ずんだ板張りの床に、縞模様となって光芒を伸ばしていた。その赤い光が進んでいった先に、ふたり分の足があった。若木の皮を剥いだあとの白色をした皮膚は、度重なる日焼けのために乾燥し、ゴワゴワときめが粗い。ひとりの靴下は膝下まできちんと皺なく伸ばされ、ひとりは片方がくしゃくしゃになって足首に落ちていた。

 理科室のなかはいつでもどこか埃臭いようなにおいがして、所蔵されている薬品のせいなのか、ほんのりと甘い空気が漂っている。放課後、その日の授業をすべて終えた教室に他の生徒や教師の姿はない。ホセと彼だけが取り残されていた。

 彼はいつも定位置にしている席で、虫かごを前にして肩を寄せ合っていた。しなやかな枝を編んだ、小さな檻のかたちをした籠のなかには、二匹のいきものがいる。

 ――カイコガだ。

 全身を真っ白な毛で覆った、手のひらに余るほどに小さい蛾は、地を這うばかりで、いっこうに空を飛ぶ気配がない。両の翅を小刻みに震わせるだけだ。ぬるい西日のなか、それは穏やかな赤色の海に沈んで、苦しそうにもがいているようにも思われた。

 夏の終わり、エステバンがどこからか蚕を入手してきた。エステバンは教室では『昆虫博士』と呼ばれていて、これを「二巡」させるのが目標なのだと言った――蚕を育てて成虫にし、つがいを作り、雌が生んだ卵からふたたび蚕を育てるつもりなのだ。

 彼が育てた蚕は、無事に一巡目を終えるところだった。今朝がた、はじめての繭から羽化をしたのだ。オスとメスがいて、かれらはつがいになった。磁石が引き合うように、自然に、語らいもなければ、ただ黙ってその交接器をすり合わせた。


「……なあ」


 ホセは気まずいきもちで、隣の少年を一瞥した。


「どうしたの、ホセ」

「これ……いつまで続くんだよ」


 番になった二匹は、朝の早いうちから交尾をはじめ、生物学の教員に見せるために授業に連れてきたときも――それは今日の最後の授業だった――放課後の今になっても、絶えず尻を突き合わせていた。休むことなく懸命に交尾をする虫たちの姿に、ホセは居心地の悪さをおぼえていた。


「いっそ離したほうが……」

「そうかな? 可哀想だよ」


 あっけらかんと言って、行儀正しい彼には珍しく、机に両肘をついて虫籠のなかを覗きこむ。

 ホセは黙って溜め息をついて、生臭い虫かごから視線を逸らした。代わりに、隣の少年を観察する。ブラインドからこぼれ落ちた西日が、その横顔をタンポポの綿毛のようにやわらかく縁取っていた。毛先のカールした髪は光に透けて赤金色に、そばかすの散る肌の産毛は黄金色に光る。どこか少女めいていて、それ以上に痩せぎすで貧相な印象を与える少年のすがた。

 彼はホセの視線に気がつくと、ふんわりとその口もとをほころばせる。


「蚕はね、一度しか交尾をしないんだ。おとなになったら、ものも食べず、水も飲まない。死ぬしかないんだ。だからこうやって、たった一匹をみつけたら、一日中でも交尾をするんだよ。すごいことだと思わない?」

「ふうん……」


 ホセが餌にしようとぞんざいに突っ込んだ桑の葉に見向きもせず、むしろベッドのように敷いて、カイコガは深く浅く、交接器をこすりあわせている。白くやわらかい表皮がゆっくりと脈動して、ほとんど身じろぎもしない。その深く組み合わさった部分でいったいどんな情熱的な行為が繰り広げられているのであろうか、ホセには想像もつかない。

 本音を言えば、このまま二匹を引き離してしまいたかった。教師も弱ってしまう前にそうすべきだと言っていたが、ホセが強引にでもそれを決行しないのは、きっとエステバンが気を悪くするだろうことがわかっていたからだ。

 いい加減帰ろう、と声をかけようとしたが、喉のあたりに引っかかって言葉が出なかった。沈黙がふたりの間に満ちていた。黙ってカイコガの交尾を観察する。

 ホセはそっと右腕を横に伸ばした。そして、隣の少年のズボンを探った。


 何か許されるような、そんな予感がしたから。


「…………っ」


 下着越しに、それをさわろうとする。エステバンが顔を上げた。


「ホセ」


 緑潭色の瞳のなかに、ホセの顔が映り込んでいた。


「気持ち悪い」


 腕を引っ込めた。奥歯をそっと噛み、虫かごに視線を注いだ。なにげなさを装った。目頭が熱くなった。

 白くかすんだ視界に、尻と尻を密着させ、時折翅を羽ばたかせてはしずかに熱を分け合う二匹の虫が、とろけたようなかたちで映った。


「……悪い」


 エステバンは間を置いて、こう呟いた。


「生殖の建前すらない性行為に、意味なんてないだろ」

 


 つがいになったカイコガの間には無事に卵が産まれた。

 新しい蚕が産まれ、二巡目がはじまる頃、エステバンはエル・ノルテ校を去った。



 ベンチシートの上でまどろむうちに、過去のことを夢見ていた。終着駅に着き、サンセに揺り起こされたとき、ホセははっきりとあのときの感情を、胸を押し潰すような絶望感を、まざまざと思い描くことができた。


「行こうよ」


 促されるまま、外に出る。列車はふたりを下ろすとふたたび動き出した。

 見渡すかぎり明かりもなければ、人家とおぼしきものもない。

 鞄の中身をあさってマッチを取り出すと、か細い火をつけた。古びた農園の跡地があるばかりだった。

 その入り口に掲げられた錆びた看板を、サンセが指差す。


「ホセが行きたいって言ったの、ここでしょ? 地図で見つけたんだ」


 《この世の終わりフィン・デル・ムンド》――そう書かれている。

 船のなかで熱心に地図を眺めていたのは、ホセの言葉を信じて、本気でその場所を探していたのだ。そしてたまたま、この滑稽な名前の農園を見つけてしまった。

 ホセは虚脱感に襲われた。腹の底から乾いた笑いがこみ上げるのを耐えて、顔が不自然に引きつった。彼の滑稽さは自分そのものだ、と思った。


「なにもこわくないよ」


 ホセがこの場所を恐れているかと思ったのか、サンセは安心させるように言った。ホセの腕を掴み、ぐいぐいと引っ張りながら、壊れた柵の下をくぐる。

 うち捨てられ、枯れたバナナの木が密集するなかを連れたって歩いた。雨は上がり、あたり一面、むせるように濃い花の匂いが漂っていた。

 マッチの火が尽き、視界が闇に閉ざされる。枯葉や土を踏む足音だけが響いた。

 ホセは自分を先導するサンセの腕が震えていることに気が付いていた。だんだんとその呼吸が荒くなり、足取りがおぼつかなくなっていくのを。

 汗ばむ指先が、それでも力強く自分の手首を掴んでいる。


「サンセ」


 気が付けば声をかけていた。足がもつれ、手が離れ、サンセがその場にくずれ落ちる。

 目の前にあった木に寄りかかりながら、か細い呼吸を繰り返す。


「ホセ……痛い、痛いんだ」


 上ずった声が漏れる。サンセの骨ばった手が伸び、あらためてホセの手を掴もうとした。彼の手はしきりにホセに触れ、髪を掴もうとする。よるべとなるものを探すように。あるいは赤子が目も見えないなか、必死になって母の乳をさぐりあてるように。


「どこが……どこが痛いんだ?」

「お腹の奥が……」


 耳もとに吐息が吹きかかり、ぞわりと産毛が立つ。

 髪を掴んだ手が、ゆるりと垂れ下がって、乾いた首筋を撫でる。そして背中に手が回ったとき、サンセがひしと抱きついてくる。これ以上ないほどに互いの体が密着し、すんなりと細い両脚ががっしりとホセの腰を掴んだ。


「お、い……サンセ、」


 その接触に、全身が硬直するのが分かった。

 サンセを突き放そうとはするものの、その力は尋常でなく、容易ではなかった。


「あ……」


 サンセが鼻にかかった声を漏らして、下半身をすりつけてきた。

 一気に頭が酩酊した。汗に湿った髪が、指の合間でばらばらと揺れ動く。

 ふたり分の吐息と、衣擦れの音が暗闇に響く。下着の中がぬるぬると滑り気を帯びはじめ、無造作にこすれ合う皮膚の滑りが汗によってなめらかになってゆく。

 気が付けば無我夢中になって下半身をすりつけていた。

 目の前の人物ではなく、あのまぼろしのような一夜のことを頭に思い浮かべながら……。


「…………っ」


 ――ホセは息を押し殺しながら、自分の欲望を発露させた。

 肩で息をしながら、ゆっくりと身を離そうとする。その瞬間、アンモニア臭が鼻をついた――サンセが粗相をしたのだ、と遅れて気がついた。

 サンセは服を着たまま小便をほとばしらせた。ホセには、女がどのように快感を表現するのか知らなかったから、それが射精のように思えた。そしてはたと気が付いた。

 その瞳が緑色に輝いていることを。

 澄んだ緑を帯び、サンセの瞳は奇妙にきらめいていた。

 ひとつ、ふたつと瞬きをしても、その光は消えない。

 ふいにその眸が苦悶のためにゆがめられたかと思うと、サンセは小便に濡れた土の上でのたうちまわり始めた。そしてしきりに腹が痛いと訴えた。


「サンセ」


 ホセは動揺した。

 サンセは緑にきらめく眸から、ほろほろと涙を落とした。

 緑色の光を乱反射しながら落ちる水滴に、ホセは胸を打たれた。―どんな邪心もなかった。ただ目の前のこどもが、自分に助けを求めている。

 それに対して応えてやらなければいけない、そう思うことができた。

 自分のなかに『良心』を発見して、ホセは胸がすいたように爽やかな気分にさえなった。


「ホセ……お願い、僕のなかから。ひっぱりだして」


 こいねがわれるがまま、ホセは腕を伸ばした。

 サンセの上に覆いかぶさる。その痩せた腿に触れ、その上、秘された部分へと指先を伸ばした。不思議と嫌悪感も抵抗感もない。

 そのひどく熱い部分に指先をもぐらせる。もぐった先に―何かがあった。ホセが指先でかくと、それはころりと細い足の間に落ちた。

 小さく、丸い物体だった。

 サンセが深く息を衝き、か細いうめき声を漏らす。暴れる四肢を押さえつけながら、ホセはその腹のなかを掻き、それを次々と枯葉の上に落とした。その間、互いに顔を近づけ、熱っぽい吐息を吹きかけあう。サンセの目はまだ潤んでいて、ふたりの唇は今にも接しそうだった。まるで交合するかのように、ふたつの呼吸の速度が重なり合ってゆく。

 しばらくするとサンセは落ち着き、あとは黙って、自分の腹を押さえながら、それらをぽろぽろとひり出していった。

 うめき、声を殺しながら、無数に少年のからだからひり出されてゆくものを、ホセは呆然と眺めた。それはサンセの瞳と同じく、緑の光を帯びた球体だった。

 いったい、これは何なのか?

 カイコガの雌が、卵を産んだときの様子とよく似ていた。


「僕ね……」


 しばらくして――ホセにはそれが永遠に思われた――異様な時間を終えたサンセが、深く息をついた。そしてぐったりと木の下に倒れ込んだ。


「おい、どうしたんだよ。お前……」


 起き上がる気力もないらしく、サンセはぼんやりとホセを見あげた。あの眸の輝きは、いつのまにか失われていた。


「……ほんとうはホセが嫌がってるって知ってたんだよ。でも、僕もつがいになる相手は選びたかったんだもの。僕はすぐに死んじゃうから……はやくつがわなくちゃで……どうしたらよかったのかなあ……どうしたら……」


 吐息だけで喋り、口もとをほころばせる。その眦を伝って、透明な滴がこぼれた―それをみつけた瞬間、ホセはひどい焦燥を覚えた。何か答えなければいけないと思った。


「俺、お前のこと……」


 好きだと言ってやればよかったのか? ホセはあとになってそう自問した。


「嫌いじゃないよ……」


 舌にそう音を乗せた瞬間、無力感がホセの頭から足を爪先まで満たした。そして身じろぎした瞬間、靴の底で、その小さな「卵」を擦ってしまった。

 薄い皮膜に覆われたそれらはとてもやわらかく、ホセの足で簡単に押し潰せてしまった。桑の実がはじけるように、皮が裂け、どろりとした中身が噴出する。黄色い液体。生々しい悪臭。

 その液体が飛んだ脛や膝が、ひどく痒くなった。次の瞬間、ホセは無心になって、一つ残らずそれらを潰しはじめたのだった。最後には破れた皮だけが残った。

 サンセはそれを見て、力なく笑った。


「ホセ……」


 手を伸ばす。呆然と佇むホセの手を取ろうとする。

 ホセは予感を覚えた。

 その指と触れ合ったとき、自分はいままで通りではなくなるだろう。何かが、決定的に。

 しかしサンセの腕が届くことは、ついぞなかった。

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