(四)
部屋の隅で子どもがうずくまっている。その手に握られた食事用のナイフが、電灯の明かりを反射してぎらりと光っている。もう片方の手には白い繭が握られていた。通常の繭よりも一回りか二回り大きく、底のほうが黒ずんで異臭を放っていた。
子どもはナイフの刃をあてがい、繭を半分に割った。
「死んじゃってるね」
子どもが、サンセが囁いた。彼が頭上に掲げた繭の中には、二匹の蛹がおさまっている。
翌日にまで長期休暇が迫った。数ヶ月ぶりに家に帰れるとあって、エル・ノルテ校の生徒たちは浮き足だった様子で午前の授業を受けていた。筆記の苦手なホセにとっては苦痛でしかない修辞学の授業が終わると、昼食と
「サパタ、どうしたんだよ、君のルームメイトがいないじゃないか。昨日ヤりまくったせいか?」
ぞろぞろと食堂に向かうクラスメイトの波にまぎれて、マリアノがホセの席を訪れた。唾とともにそう吐き捨てると、返事はいらないとばかりに教室を出て行く。
ホセは石像のように微動だにしないまま、誰もいなくなった教室にひとり残った。
もっとも太陽が近くなる時刻、室内に射す光はナイフのように鋭かった。手元に視線を落とし、ホセは長い間無言で短い鉛筆をもてあそんでいた。もうすこし削れば、もう握れなくなるような。替えの鉛筆がないわけではないのに、思い切って捨てることができないままずるずると使い続けている。同じように、筆箱には残りかすのようなパステルの欠片がいくらでも詰まっていた。物持ちがいいと言えば聞こえがいいが、ホセはただ、すり減ってあとは捨てられるだけの存在に、自分を重ねて都合のいい感傷にひたっているだけにすぎなかった。
学び舎は複数の教室が一本の回廊に囲まれており、その回廊は広い中庭に面している。外は黄色い太陽が降り注ぎ、鼻を通る空気すらチリチリと熱く感じられた。化粧タイルを敷いた中庭には
ホセは静まりかえった回廊を通り抜け、校舎の外に出た。裏手に回って、目についた角材を――頻繁な嵐のせいで校舎のあちこちが壊れるので、修理用の木材が常備されているのだ――手に取った。握りやすさを確かめてから、
この時間、寄宿舎の南側の外階段にマリアノたちがたむろしていることを知っていた。なるべく彼らの目につかないように生活していたがために。
汗でぬめる手で角材をぎゅっと握りしめる。赤錆びた鉄階段を見上げた。
金属のきざはしに足をかけると、軋んだ音が鳴る。その際の振動で、踊り場で煙草を回していた少年たちが地面のほうを見た。そして、にやりと笑った。
「サパタじゃないか」
煙草から口を離して、マリアノが立ち上がる。糊のきいた制服の襟を立てて、彼ははるか頭上からホセを見下ろした。「何の用だい?」そう囁きながら、揺れる階段を一歩ずつ降りてくる。
「そんな物騒なものをもって、まさか僕たちに仕返しをしようってつもりかい。お前のようなへっぴり腰にできるわけないよな。それともまさかサパタ、怒ってるのかい? 君のルームメイトを、僕たちが独り占めしてたことにさあ」
「それなら」とマリアノが呟く。
地上から吹き上げた風が、少年の亜麻色の髪をなぶる。
「くれてやるよ。具合がよかったんだろ、なあ。お前、あれ以外に女を知らないんだろ。あの頭のおかしい東洋人なら、お前のちんぽでもたいそう喜んで欲しがってくれるだろ? 昨日、お前らが猿みたいに盛り上がるもんだから、僕たちも驚いてしまって……」
知らず、呼吸が浅くなっていく。ここで――ここで、男を見せなければ。目に物を見せてやらなければ。もはやこの行為以上に、自分にとって大切なものなどないように思えた。
ホセは階段を駆け上がって、握りしめた角材を振りかぶろうとする。足場が揺れ、バランスを崩して膝をついた。両肩を掴まれ、その場から突き落とされそうになった。狭い階段の上で無我夢中で押し合い、揉み合いながら、ホセは必死になって、自分の手から角材を引き剥がそうとする少年の腕を振り払う。その拍子に、マリアノが階段を踏み外した。
自分のシャツの裾を掴もうと伸びた手を、ホセは掴むことがなかった。あっけなく階段から転げ落ち、敷石に後頭部から落ちていく。その様子を眺めていた。
草叢のなかに赤黒い血が広がっていくのを見て、ホセは潰れた巴旦杏の実を想起した。
頭上で、少年たちが囁く声がして――次いで、彼らが屋内に駆け込んでいく音が聞こえた。まだかすかに揺れているきざはしの上から、四肢から力の抜けた少年の体をじっと見つめる。
そして呼び声にふと視線を向ければ、階段の傍にサンセの姿があった。
「僕がころしたんだよ」
いつのまにそこにいたのだろう。サンセが言った。
「僕がじっと見つめるとね、みんな夢を見るんだ。良い夢も、悪い夢も見られるんだ。マリアノも、嫌な夢を見て……それで、そこから落ちちゃったんだよ」
「違う」
とっさにホセは否定した。
「俺がこいつを突き落としたんだ」
ひどく息苦しかった。もつれる足を何とか動かしながら階段を降り、角材を地面に放り投げる。
サンセはマリアノの口の上に手を当てて、「ほら、死んじゃった」と念を押しした。それからゆっくりと腰を上げた。汗ばんだその黒髪には、脂っぽい光沢が浮かんでいる。
「ねえ、ホセ。どこにいきたい?」
問いかけに、ホセは激しい痛みに耐えるかのように、くしゃりと顔をゆがめた。
「どこにも行けるわけないだろ……」
何かを掴もうとした両腕が空を切って、膝からその場にくずれ落ちる。
「行けるなら、いっそのこと、この世の終わりにたどり着いてしまいたい!」
腹の底からひり出した声は、自分の排泄物を目の前にしたときのように、おぞましく、みじめなものだった。誰からも尊敬される父親のように、将来を約束された立派な同級生たちのように、自分の不足など何もないかのようにふるまい、同じ舞台に立ち続けたかった。けれどもそのためにどう努力すればいいのか、どう自分を表現すればいいのか、永遠にわからないままだった。時間を積み重ねるほどに自己は破壊されていき、時間が導き出したのは、自分には最初からその能力も資格もなかったのだという残酷な事実と結末だけだった。
それはホセが長い間自覚しながらも、その自尊心から、認めるわけにはいかないものでもあった。
「じゃあ、行こうよ」
サンセが手を差し出した。
逆光のなか、サンセはただ笑っているように見えた。
◇ ◇ ◇
鞄のなかには筆箱とノート、着替え一式、そしてわずかな金銭が入っていた。長期休暇に帰省するため、船賃として首都に暮らす祖父母から送られてきた金がすべて。汽水湖に面した船着場で、ホセは
出発間際だった船に乗り込む。
船内には長く換気のされていない、澱んだ汚水の匂いが立ちこめていた。
汽水湖の波に揺られるばかりだった船体が息を吹き返し、突き上げるような振動とともに動きはじめる。両腕で荷物を抱え、通路で棒立ちしているだけだったホセは、何かに爪弾かれたようにその場から歩き出した。
薄暗い廊下を通り抜け、船首のほうへと出た。天候が崩れはじめており、外は霧が出ていた。霧は青緑色の湖面をミルク色にけぶらせ、硝酸塩に覆われた岸辺のむこうにあるはずの密林を覆い隠そうとしていた。霧のむこうに目を凝らし、遠ざかっていく景色を眺めるにつれて、奇妙な感慨が――ホセの胸に沸き立った。
「どんどん岸が離れていくね」
いつのまにか、隣にサンセが立っていた。彼の無邪気な声に、口ごもる。
――どこまで逃げるのか?
マリアノの取り巻きたちは、すぐにでも教師に告げるだろう。教師たちは今頃自分を探しているに違いない。そうなれば、きっとどこかで誰かに捕まるはずだ。祖父母のものへ連れ戻され、かれらは自分を矯正施設か、精神病院のどちらかに閉じ込めるだろう。このままどこかへ逃げおおせることなど、きっと不可能だ。でも。
握りしめたチケットの行き先には、マコンド、と、見知らぬ土地の名前が刻印されている。
この汽水湖の港から出る船で行くことのできる、もっとも遠い場所だった。どこにあるのかさえ知らない。
「そうなんだ」
サンセは前歯を見せて笑った。ホセの発言を疑うそぶりはなく、その無計画さを責めるわけではない。何かを語れるほど、西語が得意ではないのかもしれない。しかし彼のもたらした沈黙は、その瞬間、確かにホセのなかに息づくわだかまりに触れた。
「はは、」
乾いた声で笑って、汗ばむ手のひらで顔を覆う。甲板の上を複数の蚊が飛び交い、肌にまとわりつく。船のエンジン音によって、その翅音は瞬く間にかき消されていった。
船内には複数の船室のほか、船室をとれない客が滞在するための広間がある。埃臭い乗客の合間を縫い、ようやく見つけた木製のベンチの隅にふたり並んで腰かけると、闘鶏を入れたかごを抱えた男が「子どもがふたりかい?」と不思議そうに声をかけてきた。
心臓が跳ねた。とっさに言いつくろおうと口を開きかけたホセを遮って、サンセが声を発する。
「ホセのおじさんのところに行くんだよ。おじさんがホセと僕を招待してくれてね、エスペクタドール川の河口に住んでるんだって」
「サンギナリア・グランデのほうだね。もう長期休暇の季節か」
「そうだよ。昨日から」
自分を挟んで会話をするふたりに、ホセは目をみはった。ほどなくして男は煙草を吸いに行くと言って席を立った。彼が広間の外に出たことを確かめ、ほっと息をつく。
「……よかったあ、信じてくれたね」
悪びれもせずそう言って、サンセは行儀悪く足を上げると膝を抱えた。小型船舶
は揺れが激しく、常に胃の中身を攪拌されているような不快感がある。乗客たちは肘を突き合う狭い空間のなかで、砂糖黍焼酎の瓶を傾けたり、せっせと藁半紙で黒煙草を巻いたりして、眠ることのできない苦痛をやり過ごそうとしていた。
ホセは黙っていた。背中が汗で濡れ、制服のシャツがぴったりと貼りついていた。常に緊張を感じていたが、隣のサンセはいつも通りだった。理解できないとも思ったが、その安定した振る舞いこそが、かろうじて、ホセの夢見心地を繋いでいた。将来の不透明さに対する希望を。
汽水湖を抜け、河口にまでのぼってきたのか、マングローブの一帯に入って船はいっそう揺れるようになった。次第に胃のむかつきに耐えきれなくなって、前屈みになって自分の膝を抱えながら、ホセは隣の少年に話しかけた。
「……なあ」
「なあに?」
船内に漂う紫煙にむせかえり、せきこむ。
気が付くと、ごく近い距離にまでサンセの顔が迫っていた。
「なあに、ホセ」
大きく見開かれた黒々とした瞳に、ホセの表情が映り込んでいる。
「……何か話せよ」
「何かって?」
「お前、なんでエル・ノルテに転校してきたんだよ」
常につきまとう不安を遠ざけようと、ホセは早口になって質問した。サンセはベンチシートの上に座り直すと、細い両膝を抱え、そうだなあ、と間延びした声を発した。
「匂いをたどってきたんだよ」
形の悪い膝小僧にぴったりと頬をすり寄せ、サンセが言う。
「――匂い?」
「僕はね、きらきらと光る、とても熱い洞窟のなかで生まれたんだよ。あたりは一面緑色の光に包まれていて、僕は卵のなかからその光を眺めていたんだ」
言い間違いだろうか、卵、という不可思議な響きがホセの鼓膜を打った。
「どんどん成長して、僕は繭になった。みんな、繭になったら死ぬんだよ。僕は出来損ないの繭で、選別されて、捨てられるところだったんだけど、それを持ち出したひとがいたんだ。僕は繭から出て、最初のうちは、そのひとと密林の奥の家で暮らしていた。でも、そのひとはすぐに死んじゃって、僕を逃がしたんだ。外からやってきた人たちは僕を見つけて、
サンセの言葉には現実味がなく、まるでおとぎ話を聞かされているかのようだった。それでいて彼の口調は熱っぽく、他人に口を挟ませる余地がなかった。
「それで、必死になって逃げたんだ。僕はもうおとなだから、繁殖しなくちゃいけない。それで匂いをかいで、たどってみたら、ホセに会ったんだよ」
サンセは孤児か何かで、誰かに拾われたけれども、その相手はすぐに死んだ。それからずっと、差別を受けていたということだろうか。それで――たまたまこの学校にたどりついた?
彼の不可解な説明を何とか繋ぎ合わせ、ホセは自分なりに解釈する。
「……そうかよ」
ぶっきらぼうに答え、ホセは膝の上の拳を握りしめた。
結局、自分はこいつと同じような存在なのだ。そう思うと、強烈な劣等感が胸を塗りつぶした。
政治家の息子として育てられ、その期待に一度も応えることができなかった彼にとって――一度上がらされた勝負の舞台を降りることは、なおも困難を極めることだった。
夜明け頃、船は砂州の上で立ち往生した。しばらく動かないという説明が船員からされたので、新鮮な空気を吸おうとホセは広間を出た。
サンセは他の乗客から借りた地図を熱心に眺めていたので、声はかけなかった。
薄汚れた通路には饐えた匂いがたちこめ、明かりのついていないフィラメント電球がゆらゆらと天井で揺れているのが見えた。
船室の前を通ると、仕事を終えた商売女たちがベンチの上でくつろいでいた。その隅にはムラートの家族とおぼしき老婆と娘の姿がある。老婆は煙草を吸いながら紙幣を数え、娘を肘で小突いていた。「これしきしか稼げないなら、あんたをどっかの農村に売っちまったほうがいいかもしれんね、マリア・クララ」悪態をつく老婆の横を通り過ぎようとしたとき、隣の孫娘が顔を上げた。彼女が口を開けるとそこに前歯はなく、暗い空洞だけが広がっていた。
ホセは船首のほうに出た。
外は薄く霧がかっていた。乾期の水量の足りない河のなかで、船は立ち往生していた。
砂のきらめく水のなかを覗きこめば、すい、すい、と魚が泳いでゆく。
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