(三)

 夢の中で、ホセは懐かしい場所にいる。ブーゲンビリアの咲き誇る中庭パティオに机と椅子を出して、家族がつかの間の談笑を楽しんでいるのだ。幼いホセは目元を真っ赤に腫らし、鼻をすすりながら母親に与えられたココナッツのお菓子をかじっている。何が原因かはもう忘れてしまったが、直前までひどい癇癪を起こして暴れ回っていた。そのせいでホセは談笑の輪にも入れず、黙りこくって、はす向かいに座る姉の胸元を眺めることしかできなかった。

 正確には、その胸元を彩るネックレスを。


「どうしたの、坊や。これが気になるの?」


 図星を突かれて、ホセは顔を真っ赤にしてうつむいた。「きらきらして、綺麗だものね」おもむろに立ち上がり、姉が隣の椅子に移動する。そして、その長いネックレスを弟の首にかけた。


「坊やにあげるわ。これをつけている間は、女の子になったつもりで、おとなしくしてちょうだいね。使用人の腕を噛んでもいけないし、私たちを引っ掻いてもいけないんだから」


 ろくな返事もせずに、ホセは自分の首にかかった、イミテーションのパールを指先でもてあそんだ。


「あら、飲み物がもうないわね。何がほしい? 桑の実のジュースが好きだったわよね。私もあれが好きよ。せっかくだからいまから実を搾りましょうか。待ってて、ホセ」


 姉が席を立つ。ホセは弾かれたようにおとがいを上げて、白いワンピースに包まれた姉の背を目で追いかけた。


 行かないで、姉さん。


 真昼のはずなのにひどく暗い家の中に吸い込まれていく背中にむかって、ホセは叫んだ。


 姉さん、そっちは怖いところだ。


 ――だから、行かないで。



 ホセが十一歳のとき、姉は誘拐された。

 父親が死に、家族はその遺族年金で暮らしていた。ある日の昼下がり、姉はひとりで市場に買い物に行った。そして二度と帰ってこなかった。



 ◇ ◇ ◇

 


 その日の夜は嵐になった。朝方には鎮まったが、窓を開けるとあれほどしつこく咲いていた茉莉花ジャスミンは根こそぎどこかに飛ばされてしまっていた。存在そのものが幻だったように、跡形もなく消え失せていた。

 昼は気温が上昇し、海岸地方コスタの気候に慣れたホセにとっても辟易とする暑さだった。その日届いた祖父母からの手紙が、彼をいっそう憂鬱にした。表面上は孫を気遣うやさしい内容だったが、ホセは自分が持て余される存在であることを自覚していた。帰省しなくていい理由を、どうにかひねり出すつもりだった。

 マリアノたちに呼び出されたのは、そんな日の放課後のことだった。


 強い光が首筋のあたりに射している。

 丸々と肥えた蠅が、昨晩の雨で落ちたのだろう――巴旦杏ハタンキョウの赤い実のまわりを飛び回っている。周囲の木々は見上げるほどに高く伸び、その濃やかに茂った樹葉の隙間から、わずかに、しかし容赦のなく光が降り注いでいた。

 木洩れ日のなか、ホセは今にも肺の破裂しそうな、耐えがたい息苦しさに悩まされていた。


「なんだよ、サパタ。女々しいやつだな、お前。急に泣き始めるなんて、笑わせてくれるなよ」


 背後から響く声が首のまわりにまとわりつき、喉を締め上げる。


「う……あ……」


 深く項垂れ、震える奥歯をなんとかかみ合わせて悲鳴をこらえる。


「突っ込むだけだろ、怯えるようなことじゃないだろ、な? それともお前、怖くなっちまったんか。女のあそこを見たの、今日がはじめてなのか?」


 腐葉土の上にはひとりの人間が横たわっている。四肢から力が抜け、ぐったりとしている。その光景に、ホセは実家にあったビスクドールのことを思い出していた。

 サンセは制服のズボンも下着も身につけておらず、つるりとした下腹部から鼠径部にかけての生白い皮膚の上を、日の光がまだらに移ろっている。


「なあ、サパタ」


 背後から肩を抱かれ、耳元に囁かれる。


「こっちは善意で貸してやってるんだよ。――お前だって男だろ、男になりたいだろ?」


 ホセは混乱していた。何故こんなことになったのか。

 放課後、マリアノに呼び出された。敷地の裏、密林の深い場所に連れて行かれると、そこにサンセと彼の取り巻きたちの姿があった。マリアノは言った。――貸してやろうか。

 降誕劇ページェントの練習の後、サンセはマリアノたちに連れ出されていた。そこで彼らはサンセの『秘密』を知ったのだ。そしてたびたび森のなかで蹂躙していたであろうことを、彼らの会話や空気からおぼろに嗅ぎ取ったのだった。

 背後から伸びた手がベルトの金具を外し、ホセのズボンをくつろげた。全身に緊張がみなぎり、ほとんど息もできなかった。ここで反応していなかったら? ――また彼らにつけいる余地を許してしまうのではないか? 目の前に横たわるサンセに胸を痛めるよりも、保身が先立った。

 目を開けているはずなのに、ほとんど前が見えない。頭のなかに別のものを呼び起こして、ホセは何とか自分を奮い立たせようとした。


「ああ、ああああああ、うわああああああ、」


 自分のものをしごくと、周囲から笑い声が漏れた。羞恥で顔が一気に火照り、耳まで赤くなる。鼻をすすり、半狂乱になって涙を浮かべ、なおもその手を止めることはできない。ここで意気地をなくしてはいけないという信念が、頭のなかにこびりついて離れない。


「うわ、こいつ、ほんとにやりやがったな」


 何とかやってのけたとき、冷笑がホセの背筋を突き刺した。こんなことをしたって、お前が認められるわけじゃないのに――お前が肯定されるわけじゃないのに――高い場所から、自分が自分を見つめてそう囁くのを、熱に浮かされた頭で聞いた。


「はは……」


 甲高い笑い声。それが目の前の少年から漏れていると、遅れて気が付く。


「はは、あははは、ははははっ……。あはははは……っ」


 風船が弾けたようにサンセが笑う。暗い密林のなかにどこまでも木霊こだましていく笑い声は底抜けに明るく、一縷の影もない。純粋に楽しそうで、陽気なことこの上ない。


「よかったねえ、これで僕たちつがいになれるね、ホセ。ぼく、ちゃんと赤ちゃん産むからね。たくさんの……」


 「頭がおかしい」と誰かが呟いた。


「つまらねえ、見てらんねえよ、こんなん」


 マリアノが言った。

 ホセの胸のなかに沸き起こったのは敗北感だった。自分がどんな価値もない、取るに足らない、世界で一番みじめな存在に感じられた。緩慢に、しかしけっして腰を動かすことをとめずに、義務感に促されるまま、その行為を続けた。

 少年たちの足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなっても、ずっと。



 晩鐘が鳴っている。空は赤々と染まり、斜陽が校舎に射している。

 ホセは息をせき切らせながら駈け、転がるようにして校舎の前庭で立ち止まり、膝をついた。そのすぐそば、花壇に腰かけて煙草を吸っている教師がいる。――イスマエルだ。


「せんせい」


 ホセは絞り出すようにイスマエルを呼んだ。

 胡乱げに顔を上げた男の目が、ホセを一瞥する。


「せんせい、助けて。たすけてくれよ……」


 かすれた声で訴える少年に、「サパタ」とイスマエルが煙草と口から離して囁く。

 「俺、もうどうしたら」そう声を震わせながら、男の両足にすがりつく。視界の正面に迫ったその唇に触れようとした瞬間、肩を掴まれ、強い力で体を引き剥がされた。


「――気持ち悪いガキだな」


 イスマエルがほんの小さな声で低く呟いたその言葉を、ホセは砂の上で聞いていた。

 困惑すると同時に、自分を形作っていたすべてのものが跡形もなく崩れ落ちていくのがわかった。

 イスマエルは地面に落とした煙草を靴の裏で踏み潰すと、無言で横を通り過ぎていった。花壇に植えられたカトレアに極彩色の蝶が群がる様子を、ホセは呆然と眺めた。

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