(二)

 フィラメントが明滅を繰り返している。オレンジ色の光に照らされた小さな蛾が、電球の周囲を危なっかしく飛び回っていた。 

 うつろう光を、机上に置かれた古い砂糖黍焼酎アグアルディエンテの瓶が鈍く反射している。

 狭い宿直室には明かりがひとつしかない。男が紐を引くと、あたりは暗くなる。

 早鐘を打つ心臓を押さえ、ホセは無言で苦い唾を飲み込んだ。


「せんせい、俺……」


 熱い手のひら、硬い指が少年の腕を掴み、立たせる。「心配することはないよ」と囁いて。


「成長途中のお前に無理をさせるわけにはいかないからね。ちゃんと準備をしておいたんだ」


 奥にある寝台のほうへ誘導されながら、熱に浮かされた頭でその声を聞く。


「俺が下だよ、サパタ。安心していい」


 暗闇のなか、自分よりはるかに大きな男の影が浮かび上がっている。



 皮膚の上を流れてゆく体毛の感触。汗ばんだ肌、皮脂の匂い。息を切らしながら必死に伸ばした手で他人の肌をまさぐる。そうして、やっと見つけた。

 普段は清潔なシャツの下、かたくなに隠された傷痕。

 醜く引き攣れた、たったひとつの銃創。

 体の中心で熱が膨れあがる。その感覚に、胸が張り裂けそうなくらい、あるいは今にも叫びたいような、そんな強烈な喜びを覚えた。

 終始、窓辺からはむせるほどに濃い茉莉花ジャスミンの匂いが漂ってきていた。後年――それこそ死ぬまで――ホセは茉莉花の匂いを嗅ぐたびに、この瞬間ときのことを想起せずにはいられなかった。記憶は想起されるたびに鮮やかに生まれ変わって、涙を流すほどの歓喜でこの身を震わせた。それと同時に、過ぎ去りし時はどこまでも自分を粉々に砕いていったのだという苦い感情を蘇らせた。

 ――あの可憐な白い花の匂い。



 ◆ ◆ ◆


 

 黄ばんだ窓硝子から、くすんだ光が射していた。斜めに落ちた光は、埃を乱反射させながら、会堂の椅子に腰かけた少年たちの頭にぼんやりと降りかかる。締め切られた屋内は、熱気が満ちて、木材に染みついた埃とカビの甘い匂いが充満していた。

 少年たちはみな日曜日用の制服を身につけて、ホセも例には漏れず同じ格好をしている。彼はぼんやりとはるか前方にある舞台を眺めていた。

 そこでは、同級生の少年たちが伸びやかな歌声を響かせている。

 校長や修道士の長い説教に次いで、三年生の出演する合唱や朗読、そして降誕劇などの生徒の出し物を経てエル・ノルテ校のクリスマスは終わる。かならず学期末の最終週に行われるので、生徒たちも長期休暇を前に浮き足立ち、はめを外しては教員から叱られることが増える時期だ。

 ホセは授業を数日休み、その後は嫌々ながらも教室に通っていた。影でマリアノたちが笑っている姿は見かけるが、試験期間に入り、高校リセオ受験を控えた彼らはホセにちょっかいをかける暇がなくなっていた。裏で何かを企んでいるのかもしれないという不安が尽きることはなかったが、彼を取り巻く息苦しさは確実に和らいでいた。

 いちどきりだよ、とイスマエルは言った。これは『秘密』だから……誰に言ってもいけない。


 ――お前がきちんとしていられたなら、また機会があるかもね。


 あの逢瀬を思うと、強烈な喜び、そしてぬぐいきれない後ろめたさが胸を支配した。

 舞台の上に、長く青い衣をまとった生徒が立っている。聖母役は誰だったろう、と頭の片隅で考えた。聖母役は毎回、声変わり前の美しい少年が選ばれる。のびやかな四肢、ほんのりと焼けた蜂蜜色の肌。高い声で台詞を棒読みするのを聞き流した。自分ならもっとうまくやれただろうに。

 劇が終わると、最後に今学期の成績優秀者の表彰がある。校長がリストを手に講壇を立ち、威厳のある声で少年たちの名前を呼んでいく。

 呼ばれた少年たちは礼儀正しく立ち上がり、次々と登壇していく。


「マリアノ・リバデネィラ・ガイタン」


 列の前方に立っていた少年が歩き出す。糊のきいた清潔なシャツ、成長のさなかにある、まだ伸びきっていない手足が視界で揺れ動いた。

 彼を視界から逃すように、ホセは深くうなだれた。




 集会が終わると、ホセは制服から着替えることもせず、ズボンの両ポケットに手を突っ込んだまま、エル・ノルテ校の裏手に広がる密林、道なき道の急こう配を下っていた。


(くそ、何でついてくるんだよ)


 早足で歩くホセのあとを、サンセが危なっかしく、よろめきながら追いかけてくる。

 会堂から出ていく自分を見ていたのだろう。彼のことは無視して歩きつづける。あたりは湿った熱気が満ちていた。ときおり何かの腐った実を踏み潰しては、甘酸っぱい匂いが周囲を漂った。行く手を阻む枝や葉をからだぜんたいで押しのけながら、ホセは道を進んだ。

 延々木をかきわけていった先――早足が駆け足になり、最後には転がり落ちるようにして飛び出した先では、巨大な汽水湖の『入り江』が見えた。昔は生徒も泳ぎ場として利用していたが、最近は水質が変わってしまい、体に有毒だからとほとんど使われなくなってしまった場所だ。

 もうすこし進むと小型船舶ランチの停泊所もある。あれは川へ――内陸へ進むやつだ、と遠目に船の色を見て判断する。途中で靴下ごと靴を脱ぎ、素足で岩場を踏むと、白く凝り固まった硝酸塩が足裏に刺さった。地面は灼けるように熱い。視界に広がる湖は光を反射して目に痛いほどだ。

 ホセは背後を振り返って、サンセがまだ離れた場所にいることを確認すると、ひと思いに岩場から湖に飛び降りた。水飛沫が立ち、冷えた水に肩まで浸かって、とたん、顔をしかめた。

 体の奥で膿んだ傷が痛む。しかし地上に戻ることはせず、ホセは水中を移動した。教師との約束事を破るのが大好きな生徒たちでさえ近寄らない場所だ、けっしてきれいな水ではない。

 水底を覆う藻はホセの足や膝を擦り、時に絡めとろうとする。頭上をみれば、拡散する光が世界を目映く輝かせていた。光は水面を覆う、ぞっとするほどの量の魚の死骸を、まるで宝石のようにきらめかせているのだった。


「…………っ」


 しばらく潜水を続け、飛び込んだ場所とは異なる岩場の前で顔を出した。

 いいかげん、サンセもどこかに行っただろう。そう思った瞬間、ホセは頭を掴まれた。


「――へへ、カニだよ、ホセ。カニばさみ!」


 まさにホセが上がろうとした岩場に、サンセが腰かけていたのだった。彼は水面に突き出した素足を交差させ、ホセの首をぎゅうっと挟んでいた。


「わっ………」


 とっさに、ホセはその足から逃れようと、少年を海のほうへと引っ張った。小柄なサンセはホセの力に抗うことはできず、あっけなく湖のなかに転がり落ちた。

 そう深い場所ではないが、浅瀬でもなかった。驚いたサンセは海から顔を出すことも忘れてもがき、助けを求めてホセの手足を掴もうとする。ふたりは水中で取っ組み合った。

 頭上から降り注ぐ無数の光芒が、海中を緑潭色エメラルドに透き通らせていた。サンセの着ているシャツがふくらみ、黒い毛髪がゆらゆらと揺れる。

 そのやせ細った手足は、光を弾いて、生白く輝いた。

 ホセはふと、自分の身にしがみつこうとする少年を引きはがす手を止めた。

 その瞬間――視界を、きらめく何かが横切ったからだ。


 緑色のガラス片だ。


 無数のそれが雨のように降り注ぎ、波にさらわれ、揉まれては散ってゆく。ホセの目の前でサンセはそれを掴み取ろうと手を伸ばした。ついで何かを言おうとしたのか、大きく口を開く。

 彼の声は、ホセの耳に届くことはなかった。

 その瞬間、苦しそうに少年が喉もとを押さえ、身をよじらせたからだった。しかし水面に顔を出す気配はなく、彼はなおも、水の流れに自由自在に揺さぶられながら、緑の硝子片を掴もうと手を伸ばす。どこまでも、それを追って。

 自分の横を通り過ぎ、その薄い背を呆然と見送ってはじめて、あぶない、とホセは感じた。そのときサンセはすでに溺れかけていた。力のみなぎっていた両手足がだらりと落ちるのを目にした瞬間、ホセはとっさに彼の服を掴んだ。

 水面から顔を出し、岸壁の岩を掴む。無我夢中になって、ホセは少年の体を岩場に引きずりあげた。岩を背にして横たわらせても、意識が戻る気配はない。

 ホセは彼の上に跨がると、その両頬を叩いた。

 反応がない。

 口の上に手をかざしてみても呼吸をしている気配がなかった。


「バカかよ……」


 このまま見捨てちまうか、そんな考えがホセの頭を過ぎった。


(だって、こいつは俺の弱みを握ってる)


 海底の海藻のように、黒い毛髪が生白い額に貼りついていた。

 薄い瞼には青い血管が透けてみえ、唇は色を失っている。

 その隙間から覗く歯は白く、肉はぞっとするほどに赤い。

 ひんやりと冷えた頬を再度叩いた。――このまま死んでしまうのかもしれない、と思うと、身を凍らせるような冷たさが喉もとにまでこみ上げた。

 硬い岩場に打ち寄せる波音が、間断なく響いていた。

 遠くで船のモーターを動かす音が聞こえる。ホセは息苦しさをおぼえ、浅い呼吸をくり返した。

 青くなった爪の先が震える。

 あの傷が開いてしまったのだろうか? 体の奥の痛みが、どんどんひどくなっていく。

 ホセは一度硬く目を瞑った。そして、サンセの両頬を手で掴んだ。

 意を決し、自分の唇と彼の唇を近づけようとする。その瞬間、ホセの下敷きとなった少年が、苦しそうに咳き込んだ。

 とっさに身を離して、ホセは眼下の少年を睨みつけた。「クソ!」と大声で悪態をついた。


「あ…………」


 サンセは海水を吐き出し、ぼんやりとしたまなざしを虚空に漂わせた。

 そしてふいに、片腕を掲げたのだった。固く握りしめた拳を開くと、ぼたぼたと、海水の入り混じったピンク色の血液が滴った。

 ざっくりと裂けた掌の皮膚から、サンセの胸の上に何かが落ちる。

 あの硝子片だった。明るい緑色をして、透き通ったこぶりな破片。


「なあんだ」


 サンセはけらけらと笑った。


「水のなかで火が燃えていると思ったら、ぜんぜん違った」


 ホセは無言で立ち上がった。急激に怒りがこみ上げるのを感じる。


「……何考えてんだよ、お前。気持ち悪いやつだな」


 濡れたシャツを脱ぎながら、そう吐き捨てる。サンセは気にした風もなく、手のひらに載せた硝子片を指先でなぞっていた。


「ねえ、ホセ」


 サンセが小さな声で囁いた。


「気に入った?」


 突拍子のない問いかけに、ホセは「はあ?」と聞き返した。

 サンセは膝を抱えて、そうかあ、とうなずいた。


「白昼夢のことだよ、ホセ」


 青緑に澱む水面が風にさざなみ立つ。遠く舟影が滲む水平線のむこう、空には暗い暗雲が広がろうとしていた。

 もうまもなく、驟雨がやってくる。

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