CHAPTER3 この世の終わりへの旅

(一)


 サンセの助けを借りて、ホセは寄宿舎の自室に帰った。

 翌日は風邪を引いたと嘘をつき、授業を休んだ。一晩経っても下血が止まらなかったせいで、かと言って、この恥辱の傷を誰かに知られるわけにもいかなかった。朝方にサンセが授業のために部屋を出て行くまでシーツをかぶり、彼の足音が聞こえなくなったあとも、寝台の中でじっと息をひそめていた。この部屋いっぱいの孤独が四六時中のしかかってくるようで、息苦しかった。

 結局、数日が経過しても、ホセは教室に行けずじまいだった。

 ホセを置いて、サンセは毎日授業に出た。ふたりの間に会話はなく、「僕のつがいになって」というあの不可思議な言葉の真意が説明されることも当然なかった。ホセはずっと不安だった。サンセが教室でどんな発言をするのか、マリアノたちと一緒になって自分を馬鹿にしているのではないか、とめどなく考えては頭が破裂しそうになっていた。そんなホセを知ってか知らずか、サンセは朝昼晩の食事を、時には午後シエスタの後に気まぐれに配られる菓子まで、まめまめしく運んでくるのだった。

 

 その日の昼食もいつもと代わり映えしないメニューだった。煮崩れたレンズ豆と種なしパン、そして牛乳。ホセにアルミのトレイごと食事を渡し、サンセは向かいのベッドに腰かけている。


「……お前は食わねえのかよ」


 すりきれたカーテンから漏れる日射しが、室内を煌々と照らしている。サンセは骨張った、いかにも硬そうな尻をベッドのふちにのせて、ずっと貧乏揺すりをしている。彼の分の食事トレイはなく、何かを話しかけてくる様子もない。


「うーん……」


 珍しくホセから話しかけたところで、サンセは首を傾げるだけだった。

 ふと、彼が何かを口にするのを見たことがない、という事実に思い至る。あの嵐の夜に現れて以来の二週間、ただの一度も。


「蚕は」


 窓辺に放置された虫籠に目を向け、サンセはぽつりぽつりと喋りはじめた。


「おとなになったら、なにも食べないんだよ。交尾をして、卵を産んだら、それで終わりだから。僕も、人間に似せるために、口や歯はあるけど、見えないぶぶん、胃腸はないんだよ」


 笑い飛ばしたいような内容だったが、病的に痩せた少年を前に、ホセは押し黙った。きっと隠れて食べているのだろう、と自分に言い聞かせる。サイズの合わない制服に包まれた少年の腹は、驚くほど薄く見えた。

 ホセはうつむき、無言でレンズ豆をスプーンですくった。どろどろに溶けた豆はすっかり冷えていて、香辛料の匂いも失せている。

 シエスタと一緒になった昼休憩の時間をホセと過ごすと、サンセは空になった食器を回収し、寄宿舎を出ていく。ここ最近の日課で、その日もサンセは同じ行動を取った。しかし部屋を出る直前、彼は何気なくホセを振り返った。


「ねえ、ホセ」


 窓から射す強い光が、少年の黄色くくすんだ肌に細かな陰影を落としている。

 汗に濡れた前髪が、狭い額に貼りついていた。


「僕、ホセのことがほんとうに好きなんだよ」


 突拍子のない言葉だった。


「あのときホセがドアを開けてくれなったなら、僕、死んでいたもの。一番最初に会ったのが、ホセでよかったあ」


 サンセはシャツの裾をぎゅっと握りしめて、両肩を震わせている。

 またたきに涙が散り、その頬は紅潮さえしている。

 ホセは困惑した。彼が泣いている意味も、そんなことを言い出す意図も理解できなかった。


「だから、僕、ホセにね……」


 煙水晶のような瞳の奥底から、緑の光がこぼれ落ちる。

 くらりと眩暈の波に襲われて、ホセの意識はたちまち消失する。



 ◆ ◆ ◆



 目が覚めると、サンセの姿はすでになかった。室内には昼下がりのうだるような暑さだけが残されている。全身が重く、四肢がだるかった。

 ぼんやりと静寂に耳を澄ましていると、少年たちの嘲笑がどこからか聞こえてくる。見ろよあいつ、女みたいな歩き方……。幻聴だと理解していても、鳩尾の奥から底冷えしていく感覚はなくならない。森での出来事が脳裏をよぎり、叫びたい衝動に駆られる。そして混乱のうちに、その部分に触れずにはいられなくなる。寝間着のズボンのなかに手を入れてそこを擦る。そこは触れるだけで痛みがともなうほど、執拗にいじるせいで水疱ができていた。汗みずくなり、半泣きになりながら行為にふけっている間だけ、ホセは考えることをやめられた。『男じゃない』――『ふつうじゃない』――『変なんだよ、お前……』――自分を責め苛む人の声を遠ざけておくことができたからこそ、羞じ入りながらもその行為に没頭した。


 ――だからこそ、気付くことができなかった。


「サパタ」


 呼び声に弾かれたように顔を上げる。声の主と目が合う。

 イスマエルが部屋の入り口に立っていた。

 とっさのことに頭が真っ白になった。全身の毛穴が開き、どっと汗が噴き出す。遅れて引き上げたシーツで下半身を隠したものの、当然間に合ってはいないだろう。


「――お邪魔だったかな」


 わずかな沈黙を置いて、イスマエルがそう発した。「風邪を引いていると聞いたから、様子を見に来たんだけど」いつもと変わらぬ調子で続けられた声に、一層いたたまれなさが募った。


「う……、」


 場を取り繕うこともできず、ホセは声を詰まらせた。うるさいと怒鳴りつけて、一刻も早く彼をこの場から追い出さねばならない。羞恥で耳まで赤くして、何とか口を開こうと顔を上げたホセは、想像以上に近い場所にイスマエルの顔があることに気付いた。


「サパタ、本当に体調が悪いのなら街から医者を呼ぼうか。ああ、すこし熱があるのかな」


 温かい手が濡れた前髪をかきわけ、額に触れる。ホセは肩を揺らした。

 強い日射しに照らされて、その首筋にあるほくろが浮かび上がって見えた。

 ホセは唾を飲んだ。あわてて彼の腕を振り払い、首を左右に振る。


「そうかい。それなら、サボタージュはほどほどにしなさい。クリスマスも近いし、もうすぐ休み期間にも入るんだから。お前もお祖父さん、お祖母さんのところへ行くんだろう?」


 無言を貫くホセに対し、イスマエルは首をすくめる。

 この教師は、自分を心配してここまで来たのだ。そのことに思い至って、鼻の先がつんと痛む。思わず動揺してしまう程度には、ホセの心は瓦解寸々だった――イスマエルの行動が職務の一環であっても、そこに優しさを見出し、期待を寄せずにはいられない。

 踵を返して部屋を出て行こうとする教師を、ホセは無意識に引き留めていた。

 伸ばした右手で、そのシャツの裾を掴んでしまっていた。

 我に返った瞬間、雷鳴がとどろくかのように勢いをつけて、心臓が早鐘を打った。


「俺……俺は……」


 今にも消え入りそうな、弱々しい声がこぼれ落ちた。誰よりも自分がそのことに驚きながら、せきを切った感情をとめることはできなかった。


「俺は、頭がおかしいんだ」


 舌にその音を乗せた瞬間、全身から血の気が引くのがわかった。


「せんせいだって、そう思うだろ。俺ってやっぱ何かおかしいんだよ。俺にはみえないものが、わからないものが、他の連中にはふつうにみえてるし、誰に教えられなくてもわかってんだ。でも、俺にはどんなに考えてもわからない。何となくフリをしたって、どっかで浮いて」


 羞恥と自己嫌悪がない交ぜになって、今にも胸が潰れてしまいそうだった。なぜこんなことを言ってしまうのか。自分の抱える疎外感をいたずらに深めるだけではないのか。


「どうしたらいいのか、わかんねえんだよ。どうしてこんなふうになっちまったのか……」


 イスマエルは背を向けたまま、そうかい、と小さな声でうなずいただけだった。

 その事実を認識した瞬間、シャツを掴む手から力が抜けた。

 深くうなだれる。不思議と涙こそ出なかったが、自分という存在に対する憎しみと否定が、息もつけない勢いで全身を巡りはじめるのを感じていた。


「思うのだけれど、サパタはきっと変われないよ。俺が今ここで優しい言葉をかけて励ましてやることはできるけど、それがお前のためになるとは思わない。だって、お前はこれからもずっと、多かれ少なかれ、他人から冷笑される立場に置かれるだろうから」


 振り返って、イスマエルが囁く。その言葉に、脳天に冷や水を浴びせられた気になった。


「けれども俺は、お前がどこか遠い場所で幸せになれることを祈っているよ。お前がどれほど地獄にいると感じても――天国にいるようにみえる人を蔑まず、憎まないことを願っているよ」


 どこかで聞いた言葉だ。

 身につけたロザリオの珠をいじっていた大人の手が、肩に触れる。

 イスマエルの瞳に自分の瞳が映り込んでいた。

 淡青色の瞳の表面を、すいすいと魚が泳ぐように、緑の光が乱れ散っている。エメラルドが燃えている。


 次の瞬間、ホセの唇に温かな体温が移った。

 顔を離して、サパタ、とイスマエルが呼ぶ。蒸し暑い熱気に、かすれた声が溶ける。


 意識の波をかきわけて、どこからか茉莉花ジャスミンの匂いが漂ってきた。

 いつもよりもずっと強烈な、鼻の奥にこびりついて、呼吸もままならない、あの排泄物にも似た香りが。


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