CHAPTER0

過去Ⅲ


 ファラムンドは寡黙な男だった。

 彼と出会ったのは、アンデスの厳しい寒さが取り巻く、冬の夜のことだった――はずだ。当時のことは曖昧で、記憶の密林をかき分けてようやく思い出せる程度のものだ。ホセは着の身着のまま、何も持たずコンコルディアに流れ着いた。頼るべき相手もいなければ、これから生活していくあてもなかった。打ちのめされ、憔悴しきっていた。幹線道路沿いにできたバラック街で、浮浪者同然の暮らしをしていた。


 寝台の下に転がり落ちて、ホセは嘔吐した。逆流した胃酸が喉の粘膜を焼き、ひりつくような痛みを覚える。何回もえずきながら、胃のなかにわだかまる熱と不快感が消えないことに軽く絶望する。化粧タイルを敷いた床に、鼻をつく刺激臭とともに温かな液体が広がっていく様をただ眺めた。クラック・コカインはホセの体質に合わず、夢見心地は永久に訪れなかった。

 ファラムンドは寝台に寝そべりながら笑っていた。嘔吐するホセを観察して面白がっていた。ホセは濡れた唇を手のひらでぬぐって、暗闇を振り返った。

 吐き気をこらえながらシーツの上に横たわれば、男の腕がホセの肌を撫でた。掌の乾いた皮膚が自分の熱い肌に触れ、その腕を根が這うように覆う硬い毛が肌の上を流れてゆく。心腑の鼓動は早く、息は浅い。目の奥がずきずきと痛んで、四肢はたえず震えていた。手が離れる。男が煙草を吸う。安堵した。今日はもう何もないかもしれない。そう思ったが、ファラムンドはホセの両足を掴んだ。幼い子どものように泣いて嫌がると、容赦なく叩かれ、ヘッドボードに頭を打ち付けられた。吐き気が増し、ホセは嘔吐した。口の端からこぼれ落ちる胃液が、煙草のにおいの染みついた――そして焼け焦げた――シーツを濡らした。背後から奪われ、がらんどうの臓器を揺さぶられる感覚に何度となく吐いた。吐き続けた。その間も少年の中心は力を失うことがなかった。男は笑いながら、ホセの背中に煙草の火を押しつける。

 ファラムンドが飽きて解放されるまで、ずっとそんな時間が続く。自分より圧倒的に強い男に乱暴されている間は、そうでない時とくらべて心の苦しみがやわらぐ。気を抜くとすぐに天国にいる人間ひとを羨んだり、呪ったりしてしまう自分を封じ込めておける。自分を傷つけることは、誰かを傷つけることよりずっと心地よかった。

 ほとんど昏倒するように眠りについて、目を覚ましたときにはすでにファラムンドの姿はない。日射しに明るく照らされた寝台の上で、ホセはぼんやりと虚空を眺めた。

 蜂の翅音に誘われて目線を横に向ければ、そこには紫の花がある。

 彼と暮らす家には狭い中庭パティオがあって、その僅かな面積さえも削るように、年季の入ったジャカランダの木が何本も植えられていた。季節になると淡い色の花がこんもりと咲いて、まるで複数の大きな紫色の雲が宙に浮いているように見えた。その育ちきった梢が、寝室の窓を通り越して家のなかにまで侵入しているのだった。

 木は昼間のきつい日射しを遮り、爽やかな風が室内を通り抜ける。

 枝先が揺れ、ジャカランダの花びらが今にもこぼれ落ちそうに震える。黒く太った綿毛のような熊蜂は蜜を求めて花から花へ飛び回る。それらの影が薄汚れたタイルの床を移ろいゆく様を、ホセは長い間見つめていたが、ふいに立ち上がると、枝のそばまで歩いていった。

 植物は太陽の光を浴びて熱を帯びている。鈴なりに咲く、釣り鐘の形をした花のこんもりとした塊を手のひらですくいあげて、その青い香りのなかに顔を埋めた。黄色い日射しが少年の骨張った肩から浮き出た背骨のおうとつの上を流れ、まだ新しい火傷の、その赤い表面を油っぽく光らせた。










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