(四)
――ホセ・ナレン・サパタ・デ・ル・マルサケス。
懐かしい音の連なりを耳にした瞬間、リマの胸に去来したのはたしかに郷愁だった。
学習障害があって、リマは自分の名前さえ上手に書くことができなかった。幼い頃は、長姉の長い腕に抱きかかえられて何度も名前を書く練習をした。万年筆をうまく扱うことができずに、インク瓶をひっくり返しては癇癪を起こした。顔を真っ赤にして泣きじゃくる自分を見て、そんなに怒ることでもないでしょう、と姉は困った顔をしたものだ。すぐ慣れるから、大丈夫よ――そう諭した姉の美しかったこと。巻き毛の
窓辺からは
リマが連れて行かれたのは地下劇場のある街区の反対側、山側を通る幹線道路の近くだった。あたりには粗末な
リマとて裕福な暮らしではなかったが、それでも職はあったし、数年間貯金をすればミシンも買えた。しかしここは貧しさのはきだめだ。ファラムンドに出会うまでの短い期間、リマは皮膚病の犬のようにこのあたりをうろついていたのでよく知っている。あばら屋の一角に誘導されたときには、不可思議な感慨さえわいていた。ファラムンドに拾われたのは幸運だったか? わからない、とリマは回想する。尻の穴に生殖器をねじ込まれたら、たまたま物事が進んだだけ。
「あなたが十三歳か十四歳かそこらのころ、
屋内には複数の人影があった。東洋人とはっきりわかる風貌をした者もいれば、見た目だけでは出自の明らかでない者もいる。武装している者が多かった。彼らの関係性はわからない。ニエベスが――明らかな偽名だったが――それなりの地位をもった人間として、彼らの間に立っている程度のことしか推測できない。
「当時、あの学校では不可思議な事件がいくつか起きたとか……たとえば、人が死んだり?」
「階段を踏み外して、打ち所が悪かったせいで死んだやつなら」
後ろ手に縛られて奥の柱にくくりつけられたリマは、正面に立ったニエベスの問いに対してそう答えた。
「誰かがいなくなったことは?」
ニエベスは淡々と続けた。革の手袋をした彼は、硬いゴムでできた棍棒を握っていた。
「生徒が週末の夜に抜け出すのは日常茶飯事だし、夜逃げ同然でいなくなることだって何回もあった。心当たりといえばそれくらい……」
ニエベスは彼の正面でしゃがみこむと、棍棒の先でリマの顎を持ち上げた。首筋を汗が伝う。自分を覗きこむ彼の瞳は黒く、煙水晶のようにまだらな毛様が見て取れた。
「それじゃあ、どうしてあなたはあの学校から逃げ出した? 逃げ出した先は?」
コンコルディアに、と言いかけて、口をつぐむ。
「
ニエベスの言葉が終わっていなかった。
「あの子をどこへ捨ててきたんですか?」
リマはついに言葉を失った。全身からどっと汗が噴き出すのがわかった。
口の中が乾上がり、ひどく動悸がする。
ニエベスが腰を上げる。くわえていた煙草を床に捨てると、
――どこへ棄ててきたか?
リマは自問する。わからない、と心の声が返る。忘れてしまった。思い出したくない。記憶の断片は常に現実のそこかしこに存在していて、それに触れるたび、リマの心は強烈な無力感に襲われ、抗いがたい虚脱に全身を支配される。
過去を振り返ると、リマはいつも怒りに打ち震えていた十三歳の自分を、癇癪を起こしていた六歳の自分を苦々しく、けれども離れがたい思いで見つけることができた。
湿った薄暗い路地を覗き込むように、あの頃の自分を凝視せざるを得なくなる。
そして思うのだ――自分の人生とは、破壊の連続だった。
時間とは破壊そのものだった。ホセを粉々に砕き、跡形もなくしてしまった。
ありのままの自分を愛されることを願っていた、あの少年を。
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