(三)

 仕事に入って一度は頭から離れたように思えた猜疑心も、舞台を下りるとすぐに舞い戻ってきた。ニエベスと名乗るあの男が何者なのか、自分のをどれほど知っているのか。この十年間、わずかにも嗅ぎ取ることのなかった過去の匂いをまとって、彼はリマの前に出現したのだった。

 出演のあと、観客席を回りながら酒をついだり話し相手をしている間も、山刀マチェーテを刺されたような鋭い疑念がリマの胸の裡に居座った。


 あの男は、お前のしでかしたことを知っているのではないか?

 ――断罪をしに来たのではないか?


「リマ、君ときたらまるで白い塵くずのようで愛らしい」


 背後から伸びた生温かい手が、服の上からリマの胸を撫でる。紙幣を握らされたリマは、黙って振り返り、メスティソの男にキスをした。服の隙間という隙間にねじこまれた紙幣は、前段の舞台で破れかぶれになった衣装をフリルのように彩っている。



 カカオの家に戻ったのは明け方近くのことだ。海岸地方コスタとは違って、高原地方に位置するコンコルディアは春になっても朝方の冷え込みが厳しい。その日はいっとう寒く、リマは寝床にしているソファに寝転がると薄い毛布をぴったりと体に巻き付けた。カカオは仕事中のようで、不在だった。


(怖がることなんて何もないはずだ……何かの勘違いに決まっている。今更あのことを、いったい誰が知り得るっていうんだ)


 ガラスパールのネックレスを、ロザリオの珠をたどるように指先で撫でながら、リマは不安を押し出すように深呼吸した。


(でも、殺されるかもしれない。逃げなくていいのか? あのときみたいに……)


 眠れるはずもなく、リマはすぐに体を起こして足踏みミシンに備え付けた椅子に座った。細く、長く、肺が平らになるまでゆっくりと息を吐く。

 ミルクガラスの窓は朝まだきの群青に染まり、どこか別の部屋から、ぼそぼそとした人の話し声がかすかに響いてくる。マッチで蝋燭に火をつけ、かじかむ手で作業台に置いたベルベットの青い布を撫でる。仕事場の同僚から依頼された、舞台用のドレスとなるはずの布だ。きんと冷えた金属のペダルを素足で踏む。小気味よい震動が、両手足に伝わった。

 不安を誤魔化すように無心で衣装を縫い続け、空が白みはじまる頃、カカオが帰宅した。


「ああくそ、鬱陶しいったらありゃしねえ」


 眠気覚ましのコカの葉をしがみながら、苛々としたカカオが鞄を床に投げる。


「荷物は自分の部屋に置いてくれ」


 「いちいちうるせえやつだな、ここは私の家だろ」そう舌打ちしながら、カカオが勢いよくソファに腰を落とした。リマは作業の手を止めると、溜息をついてキッチンに立った。


「最近、煙華人がドブネズミみたいにうちの街区うろちょろしていて、それで苛ついた連中にうちの娘も乱暴されるんだからたまったもんじゃねえ。ありゃあすぐに喧嘩が始まるな、先が思いやられる」


 煙華人、という単語にリマは肩を揺らしたが、「ああ、移民か」と無関心を装った。戸棚からガラス瓶を取り出し、乾燥した茶葉と砕いた黒砂糖をカップの底で混ぜる。沸かした湯を注ぐと、柑橘の爽やかな匂いが鼻をくすぐった。ハーブティーアグアアロマティカだ。ふたつあるマグカップのうちひとつをカカオに差し出す。

 コンコルディアは植民地時代に建設された古い都市で、共和国の人口比率と同様に、住民の大半が混血だ。次に白人、先住民、黒人の末裔……というように続いていくが、世代を重ねるにつれそうした区分けも曖昧になりつつある。とはいえ、目に見えない線引きが存在するのも事実だ。公的な統計資料を閲覧したことはないが、体感では移民がもっとも少ない。

 十数年前、この国では甘蕉戦争と呼ばれる内戦が数年間にわたって続いた。中央政府の統制が欠落したその混乱期において、各政党に紐付いた地方や農村でも非合法な暴力行為が横行した。地方領主や農民がみずから武装し、準軍事組織に分類される集団が各地に勃興しては消滅し、権力闘争を繰り広げたのだ。現在は保守党の主導でそれらの掃討作戦が進められているが、ゲリラ化した自由党急進派を前身とする革命軍との対立もあり、国内情勢が整っているとは言いがたい。

 そうした経緯もあって、内戦下で土地を追われた小作農が多かった。あるいは、解体された準軍事組織も次の糊口を必要とした。コンコルディアのような都市は、そうしたあぶれ者を吸収して膨らんできた。元準軍事組織の構成員は、内戦時代、資金繰りのため得た武器製造や麻薬ビジネスのノウハウを活かし、都市の貧困層を吸収した。治安警察の目をくぐるために組織は細分化され続け、その実態は街に暮らすリマにさえ把握できないものだった。


「昔から山岳地帯の鉱山は資源を巡って抗争が活発なんだ。そこに昔っからいるのが煙華人……まっ、こんなこと高校リセオでも習わねえだろうけどな」

「高校は行ってない。鉱山といえば……エメラルドとか?」

「エメラルドの鉱脈を握ってるのは急進派の連中とかって言うけどな。……連中が持ち込んだのは、なんだっけな、緑の火フエゴ・ヴェルデとかいう……」


 カカオはマグカップのお茶に息を吹きかけながら、「もともと、ジャア=ツァンで栽培されてたものを、世界のあっちこっちに持ち込んだって聞いた」と続けた。


「コカとか、そういう麻薬の類じゃねえの。その割には栽培地を確保するためにどっかの農村と繋がってるとも聞かねえし、よくわからねえけどな。そんで銭を稼いでるってだけの話だよ」


 緑の火、とリマは口の中でその単語を復唱する。すると、チカリとまなうらで何かが光った気がした。疲労のせいかと思い、気にも留めない。

 マグカップの底に残った茶を飲み干して、リマはカカオの横に腰を下ろした。無言で彼女の肩に寄りかかると、煙の匂いが鼻をついた。カカオが着るシャツはいつもすこしだけ大きめで、毛羽立った生地越しに人の体温を感じる。


「どうした? 嫌な客にでも当たったのか?」


 たぶん仕事で、彼女は相棒となる娼婦をそんなふうに気遣うのだろう。「似たようなものかな」とリマはささやいた。

 するとカカオは無言でリマの背中に腕を回し、反対側の肩に触れた。たださすろうとするだけの手だ。リマは何か言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。昔からずっとそうだった。自分を表現することができない。勇気を振り絞って表現してみたところで、滑稽だったり、意図せず他人を侮辱してしまったりと、なにかを決定的にかけ違えてしまうことが多かった。


「……姉さんみたいだ」

「馬鹿かよ、お前」


  窓から射す朝日の細い筋を反射して、埃がちらちらと輝く。

 ラジオの電波が入ったのか、ふいに部屋の隅からノイズ音が聞こえる。朝の番組が始まり、代わり映えのしない政治ニュースを流し始めた。カカオに体重を預けたまま、リマは目を閉じた。



 ◇ ◇ ◇



 アルコールと白粉の匂いをかきわけて、一瞬、強烈に硝煙が香った。

 リマは凍りついた。全身の毛穴が開き、血潮が熱く沸騰しながら体中を駆けずり回る。彼は舞台の上で一歩も動けないまま、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく客を眺めていた。

 観客席の片隅、倒れたテーブルの下に、のっぺりとした血溜まりが広がりつつあった。眉間を撃ち抜かれた男が、床上に仰臥して事切れている。

 地下劇場の観客席は複数の丸テーブルと椅子を配置していて、客は酒や簡単なつまみを楽しみながや昼夜の舞台に興じることができる。いつもは人で賑わい、舞台をはけて客席まで降りていけば、服の隙間という隙間にチップをねじこんでもらえる週末の夜。その日の公演の最後、リマが舞台に立っているときに、事件は起きた。予期せず客が撃たれたのだ。非日常の空間に突如として割り込んだ銃撃に、劇場は悲鳴と混乱に染め上げられた。

 どこかで人が怒鳴っている。騒動を聞きつけて、劇場の従業員がやってくる。喧噪のなか、リマは正体をなくしたまま、ふらりとその場を去った。


 舞台裏であわてて化粧を落として服を着替え、リマはそれこそ逃げるように劇場を出た。他の仲間も同様だった。後始末は女主人がやるだろう――撃たれたのが誰であっても、『女装』する男があの場に居続けることのほうが問題だった。違法営業を続ける劇場の存続に関わるからだ。

 早足で暗い夜道を進みながら、リマは先ほどの光景を反芻した。昔から銃声が嫌いだった。幼い頃、父親が目の前で撃たれるのを目撃して以来、警官が空砲を打ち鳴らすのにさえ動悸がした。それだけではなかった。リマは舞台の上からはっきりと目にしていた。顔も知らぬメスティソの男が向けた銃口。照明を浴びて黒光りした自動小銃の照準が、自分に定められたのを。

 その瞬間、リマは理解した。これは断罪だと。

 ――ではなぜ、銃は別の男を撃ったのか?


「撃たれるかと思いましたか?」


 背後から響いた声に、リマは爪弾かれたように振り返る。

 道脇に東洋人の男が立っていた。ゆっくりと歩み寄ってきて、リマの顔を覗き込む。「あなたのショーを拝見しましたが――」ニエベスは抑揚のない声で続けた。


「悪趣味ですね。あなたは特別美しいわけではないし、むしろ醜くあることを選んでいるようだ。奇怪なサーカス集団にいるほうがお似合いのような」


 リマはあいまいにうなずいた。女の乳房をもった、化粧のはがれかけた汚い肌の男がもだえ苦しむ様を美しいと思う人間は少ないだろう。けれどもときに剥き出しの、膿み爛れた傷こそ眺めたいと思う瞬間があって――その饐えた匂いも余さず――リマは自分がそうした衝動を引き起こす装置なのだと考えていた。

 すくなくとも、他者ひとにとっては。


「いつも、何を考えているのですか? あの舞台の上で」

「何も考えてなんか……」


 ニエベスの生白い首筋から、ほんの一瞬、強烈に茉莉花ジャスミンが匂った。


「ただ……あそこにいるのが好きなだけだ。あの場所にいるときだけ、俺は自分を安全に表現することができる。誰からの嘲笑を買っても胸を張っていられる。だから……」


 ふいに脇腹に硬い感触を得た。確認せずとも銃の類いを突きつけられているとわかった。

 冷たい風が吹きつけ、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。

 煙華人が街に出入りしているのだったな、とカカオから聞かされた話をリマは今更のように思い返すはめになった。

 至近距離で銃を突きつけられたリマに抗う手段はない。


 「あなたの話が聞きたいと思って」ニエベスという男は無表情のまま続ける。


「十年前、あなたは僕たちの財産を持ち出し、隠しましたね」


 人気のない通りには、寒々しい風が吹きすさんでいる。


「覚えがあるでしょう――ホセ・ナレン・サパタ・デ・ル・マルサケス」

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