(二)

「か弱い女が暴力をふるわれて、それでも最後にはあっけなく喘ぐのがいいんだ」


 楽屋に戻ったリマは、煙草をくわえてそう言った。裸足にハイヒールをつっかけて、汚れた鬘を洗面器で洗っている。


「政治家は白人クリオーリョばっかだけど、国民の大半は混血メスティソなんだ。みんな鬱憤が溜まってるんだよ。俺が混血で相手が白人だったら全然違う反応になるんだよ。天国にいる連中に地獄にいる連中の気持ちはわからないってね。今のままでもまあ、眉をひそめる奴はいるだろうけど」


 隣に座るそばかすの男は、化粧を落としながら曖昧にうなずいた。

 リマのショーは、いつも客から絶大な支持があった。その功績もあって、支配人からは大がかりな企画を任されることも多い。しかし仲間内からの評判はそこまで高くなかった――洒落にならない怪我をすることもあったし、「あんなのは娯楽じゃない」と正面切って批判されることも多かった。


「お前は人のことを馬鹿にしすぎなんだよ。いくら客からの評判がよくてもね」


 リマが振り返ると、そこには黒髪ブルネットに蜂蜜色の肌をした女が立っている。


「エスメラルダ」


 彼女は昼の部の女優で、支配人の娘だった。とっくに自分の出番は終わって、いつもなら帰宅している時間だ。


「これ、持って帰りな」


 エスメラルダから手渡された包みはずっしりと重く、バターの香りがした。焼きたてだ。一人娘を寝かしつけたあとに、わざわざこれを渡しに劇場に立ち寄ってくれたようだとリマは推測する。


「どうせ俺にくれたんじゃないだろ」


 浮かない顔をした彼に、エスメラルダは片目を瞑って微笑した。


「ちゃんとあんたのこともかわいがってるつもりだよ」


 彼女を見送ると、リマは時間をかけて丁寧に汚れた鬘と衣装を洗った。それらを楽屋の隅に干し終える頃には、同僚たちは全員帰宅するか飲みに出かけてしまっていた。

 男物の地味な服に着替え、裏口から劇場を出る。外を出る瞬間は、いつも緊張する。人の目が恐ろしかった。同性愛者であることを誰に密告されるかわからなかったし、今になってさえ――歩き方ひとつで、『それ』が露見してしまうのではないかという不安が漠然とはびこっていた。

 劇場とは中心部を挟んで反対側にある街区まで、リマは徒歩で移動した。遠目に見える山並みはくぐもっている。高い山脈に囲まれた盆地であるコンコルディアは、その地理条件から排気ガスが拡散せず、スモッグがドームのように街を覆う。曙光は灰色に褪せ、しかし目の奥に突き刺さるほど眩しかった。

 陋屋ろうおくのひしめく細々とした路地を歩いて行くと、ひとつの集合住宅に行き当たる。外壁を多う化粧タイルの剥げかけた、小さな中庭のついたその家の一室がリマの住居だった。商売道具を入れた鞄を背負いなおして住処に足を踏み入れると、雑多としたリビングのソファーで寝転がる人物が目に入る。


「ここで寝るな。自分の部屋があるだろ、カカオ」


 ブランケットの膨らみに向けて、リマはエスメラルダから渡された包みを投げた。するとうなり声とともに、ムラートの女が顔を覗かせた。この家の家主だ。


「うるせえな、どこで寝ようと私の勝手だろ」


 カカオは金の前歯を覗かせてそうごちると、のそのそと起き上がり、男物の古い革靴を履いた両足を床につけた。渡された包みをぞんざいに開く。

 中身はとうもろこし粉を使ったペイストリーだった。鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、慎重に半分に割ると、「げえっ、魚かよ」と顔をしかめた。


「あの女、私が川魚食わないの知ってるくせに。お節介なやつだな」


 ソファーを占領する彼女を横に押しのけて、無理矢理つくったスペースに腰を下ろす。周囲には作りかけの衣装や小物が散乱し、リビングの隅には大枚はたいて買った足踏みミシンもある。女装パフォーマーの多くが衣装を自作しており、リマもそのひとりだ。外に女の服を買いに行くのは憚られたから。

 ショーが終わったあとは、いつも寝付くのが難しい。スパンコールを縫い付けている最中のコルセットを手に取ったが、膝の上に置いただけで、すぐにローテーブルに置いた砂糖黍焼酎に手が伸びた。瓶に直接口をつけて飲んでいると、隣から黒い腕がそれを奪っていった。


「今日は仕事か?」


 包み焼きをかじっては酒で流し込むカカオは、「仕事帰り」とそっけなく返した。彼女は稼ぎのいいポン引きで、リマは彼女の家に間借りしている身分だった。カカオという名前も明らかに偽名だ。お互いに本名も知らない。

 そういえば、とリマは鞄を引き寄せて中身をあさった。萎れたクチナシの花と一緒に、くしゃくしゃに潰れた手紙が出てくる。


「カカオ、ハタの花って知ってるか?」

「ああ?」


 カカオは首を捻って虚空に目を向けたかと思うと、間を置いて答えた。


「……ロマンス小説だよ。密林を守る邪悪な魔女ディディと白人の男が恋に落ちるけど、最後にはその魔女が殺されて、男は彼女を殺した先住民の一族を滅亡に追いやる。ハタの花はそれに出てくるやつだよ。見つけた奴はすべての願望を達成するとかいう……」

「お前、本とか読むんだな」

「読まない。話のさわりだけエスメラルダから聞いたんだよ」


 リマはうなずいて、ペーパーナイフで手紙の封を切った。中身を取り出そうとした指先が、繊維質の何かに触れる。緑色の糸。

 天蚕糸てぐすだ。蚕の中でも特別な種類の蚕だけが、緑色の繭を作る。――今はもう遠い少年の日々、行方も知らないルームメイトが教えてくれたこと。かすかな光沢を放つ糸を前に、リマは嫌な汗をかいた。

 きちんと折り畳まれた手紙を開けば、端正なアルファベットが目に入る。

 目を通してすぐ、文法上の誤りが何ひとつない、完璧な西語だというのがわかった。というのに、リマはそれの意味するところをうまく飲み込めない。自然と呼吸が浅くなった。


 ――サンセのことを覚えているか?


 差出人の名前は、偽名だろう、Nievesとだけ書かれていた。



 ◇ ◇ ◇



 十年になる。リマが寄宿舎学校を飛び出し、着の身着のままコンコルディアに逃げてきてから。

 当時十三歳の世間知らずな少年でしかなかったリマを、ひとりの男が拾った。ファラムンドという名前の、ブラックグレイの刺青をした男だった。彼とともに過ごした数年間は、今となっては記憶の奥底へ追い込んでしまったが、ふとした瞬間、生々しい香りとともに目の前に立ちのぼってくることがある。

 ファラムンドは、それまでリマが心の暗渠に仕舞いこんでいた欲望を暴いた相手だった。寝煙草で焦げたシーツの上で少年を奪い、ゴミに溢れた床の上で奪い、浴室の冷たいタイルの上でも奪った。暴れる彼に煙草の火を押しつけでも、縄で縛りつけてでも、酒瓶でしたたかに殴ってでも、言うことを聞かせて奪った。高地の凍りつく夜に外へ放り出されることも、何週間もまともな食事を与えられないこともあった。時間はリマを摩耗させ、浪費した。

 熱狂の日々はやがて過ぎ去り、ある日突然、ファラムンドは殺された。彼は自由党系の武装農民組織の幹部で、保守党による強硬な掃討作戦によって地方を追われ、コンコルディアに逃れた人物のひとりだった。カカオはファラムンドの生前からの知り合いで、同じ組織の構成員として時折住居を訪ねてくる人物だった。顔見知り程度で、会話をしたことはなかったが。

 カカオは仲間を裏切り、治安警察に密告した。仲間の居場所と引き換えに恩赦を得て、そしてファラムンドは殺されたのだった。

 頼る相手をなくしたリマを不憫に思ったのか、カカオはリマを自分の家に招いた。知り合いであるエスメラルダを通じて職まで斡旋した。そこからリマの人生はしはじめた。


 ―――どうして俺の面倒を見るんだ?


 女の一人暮らしには何かと風当たりが強い世の中だ。カカオは二十代半ばだったが、結婚もしていなければ子どももいなかった。だから自分をていのよいカモフラージュにするのかと。

 彼女はすこし考え込むふりをしてから、意趣返し、と答えたことを憶えている。


 翌晩、リマが地下劇場に出勤すると、裏口に見慣れない男の姿があった。

 早々にその存在に気が付いて、すこし離れた場所からその様子を観察した。男の頭上にある街灯には数匹の蛾がつどい、その足もとには焼け焦げた死骸が散らばっていた。

 背の高い、東洋人の男だった。癖のない黒髪を撫でつけた、仕立てのよい背広姿の。

 煙華人だろうか。リマの頭に懐かしい響きがよぎった。コンコルディアで東洋人を見かけることはめずらしい。地域によっては出自や祖先、あるいは独自の宗教を同じくする者たちがコミュニティを形成することもあるが、この街に東洋人の共同体は存在しなかった。世間の悪評高い煙華人が巣を作ればすぐに噂が立つだろうし、地方労働者の流れ者にしては身なりがよすぎた。

 気味の悪いものを感じながら、リマは前に踏み出した。


「こんばんは、良い夜ですね」


 その横を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。

 とっさに振り払おうとしてその男の顔を視界に入れる。切れ長で、ブラウンがかった煙水晶を彷彿とさせる瞳。既視感に胸を締め付けられた。しかし一拍遅れて、それが記憶のなかの少年と似ても似つかない顔立ちであることに気付き、リマは安堵を覚えた。

 ――あの子どもではなかった。


「僕が出した手紙を読んでくれましたか?」


 男は流暢な西語で喋った。リマはわざとらしく顔をしかめ、「手紙?」と突っ慳貪に返す。その裏で、この男があの『Nieves』だと直感した。


「受け取りませんでしたか?」

「手紙なんていくらでももらうから、いちいち覚えていられない」


 そっけなく答えると、「そうでしたか」とニエベスは両目を細め、そしてうっすらと笑った。


「それは残念です。ああ……それと」


 「お悔やみを」と彼は小さな声で続けた。


「ご家族のことは気の毒でしたね。あなたのお父上は、偉大な方だったとお聞きしています。お姉様とも、仲がよろしかったので?」


 リマは今度こそ彼の腕を振り払った。「ふざけるな」と低い声で一喝する。


「何でそのことを――おい!」


 ニエベスはひらりと背広の裾をひるがえし、手を振った。「また今度」と声もなく口を動かす。

 革手袋の隙間から覗いた手首は、他の肌の部分とは異なり、凍傷のように黒く壊死していた。


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