CHAPTER2 クラッカー

(一)

 大通りの人混みをかきわけて、治安警察がこちらに向かってくる。

 アンデスの強い日射しが視界を白く染めていた。人の流れに逆らって、リマは必死になって大通りを横断しようと試みる。その矢先、野太い怒声が背後から響いた――「あそこにいるぞ!」

 背中に万年雪を落とされたように、全身が総毛立った。両腕を前へ前へと突き出しながら、人波を必死にもがく。と、乾いた発砲音が鳴った。

 風船が弾けたように人々がどよめく。振り返れば、治安警察が掲げた自動小銃の先端から細い煙が伸びていた。往来のなかばではひとりの男が拘束されている。

 リマは脱力した。――自分ではなかった。

 幸運なことに。

 心臓はいまだに早鐘を打ち、全身汗みずくだった。



 共和国第二の都市、コンコルディア。

 高原地方に位置するコンコルディアは保守党の支配下に置かれ、傘下の治安警察による監視の目が常日頃から光っている。ゆえに、各地に潜伏する自由党急進派に対する弾圧行為は日常茶飯事だ。一方でコンコルディアは甘蕉かんしょう戦争期に農村部からあぶれた貧しい労働者の受け皿となった街でもあり、白人や混血、先住民や黒人、そしてさまざまな出自を持つ移民が、高原盆地の限られた土地に渾然一体となって暮らしていた。

 大通りの発砲事件のあと、リマはいつも通り仕事場に向かった。ダウンタウンの一角にある質素な地下劇場に、人目を忍ぶように裏口から足を踏み入れる。


「リマ」


 ちょうど昼の部と夜の部の入れ替わりにあたり、客の姿もなく、出入りする従業員もまばらな時間帯だ。楽屋を目指して狭い通路を歩いていると、見知った女性に声をかけられた。黒いドレスに孔雀色のガウンを羽織り、総白髪をきっちりと編んだ老女は、この劇場の支配人だった。


「ようやく出勤かい。お前宛に手紙が届いていたよ」


 支配人の胸元では大粒のエメラルドが輝いていて、リマは思わず目を奪われたが、すぐにつれない顔をしてかぶりを振った。


「そういうのは貰わない主義だって、いつも言っているじゃないか」


 「優しい老人を探して隠居する趣味もない」つい先日劇場を辞めていった同僚を思い出しながら、リマは付け加える。

 高価な指輪がいくつもはまった女主人の手には、封筒のほかに一輪の花が添えられていた。


「ハタの花だよ」

「ハタ?」

「知らんかい、密林に咲く幻の花だよ。――まあこれはただのクチナシだけどね」


 女主人みずから手渡してきたということは、彼女の気まぐれでないかぎりは、彼女の知己か、相当な乗客から渡されたものなのだろう。釈然としない顔のまま、リマは手紙とその花を受け取った。


「もうみんな集まってるよ」

「わかってる」


 リマはうなずく。朝まで針子仕事をしていたせいで寝坊してしまったのだ。早足で楽屋にたどりついたリマは、自分用の鏡台に手紙と花を置いた。


「遅いんだよ、お前。次の企画の話をするから早めに集まるって話だったろ」


 楽屋の中心に置かれた作業机の周囲には、見慣れた顔が集まっている。この劇場が抱える夜の部の出演者だ――リマにとっての同僚でもある。老いも若きも、体型も様々な人間が集まっているが、そこにいるのは全員男だけだ。

 目張りをした窓を締め切った室内には汗や香水、化粧品や噛み煙草の匂いが充満して、どこか饐えた匂いになっている。リマは近くにあった椅子に腰かけると「悪かったよ」と小さな声で囁いた。


「途中で治安警察に遭遇して。保守党の捕り物があったんだ――捕まったのはたぶん急進派の連中だけど。交通規制のせいで道が混んでて、それで遅れたんだよ」


 本当は寝坊したせいもあるが、嘘はついていない。リマの言葉に、周囲は押し黙った。「殺されなくてよかった」隣に座る、そばかすの目立つ赤毛の男が、やっとのことでそう絞り出す。男たちの間には静かな緊張感が満ちていた。それぞれが想像をめぐらせているに違いなかった。――


「まあ、落ち着けよ。ここは大丈夫だ。何度もガサ入れされているけど、最近はおとなしいもんだ。今日も生き延びたことにまずは乾杯しよう」


 砂糖黍焼酎アグアルディエンテを注いだショットグラスが回され、リマもそのひとつを受け取った。全員と乾杯して、一息に蒸留酒を呷る。アニスの匂いが鼻腔を突き抜け、灼けるような熱が喉を下っていく。きつい酒を入れたおかげで、恐怖で凍り付いた心臓にも火が回りはじめた。そのことを自覚し、リマはようやく表情を緩めた。


「次のショーの話だけど……」


 作業机におざなりに広げられた舞台の見取り図を引っ張ると、リマは鉛筆を握ってその上に線を走らせた。


「外国の客から聞いたんだけど、他の国の劇場だとヌードショーが流行ってるらしい。体格のいい、鍛えた男を何人も集めて展示するんだ。大きな水槽を中央に用意して……」


 身振り手振りをまじえて、リマは喋り出した。「そんなに男を集められるのか?」「この国だと非現実的だろ」「金さえ積めば」それまで心に留めておくだけだった計画について、同僚との議論に没頭するうちに、大通りで抱いた不安も遠ざかっていく。時間もあっというまに過ぎて、気が付けば舞台の刻限も迫っていた。

 ちびちびと酒をやりながら議論に興じていた男たちが、ひとり、ふたりと席を立つ。あわててかつらを梳かすもの、鏡にむかって髭の処理をするものなど、楽屋はにわかに慌ただしい空気に包まれる。


 ――『女装』の準備だ。


 リマは壁に貼りつけられた今夜のプログラムを一瞥して、自分の順番を確認した。リマはだいたいいつも最後で、今夜もそうだった。

 この劇場は、昼の部こそ一般的な劇場だが、夜の部は同性愛者の男性を顧客に迎えた違法なショーを上映する。歌謡ショーからコミカルな寸劇まで、客を楽しませるために舞台に立つのはすべて女装パフォーマーだ。毎日数人が持ち回りで舞台に立つ。いくつかのやはり違法な酒場カンティーナをかけもちする者もいれば、リマのようにこの劇場でしか働かない者もいたが、その全員が、日中は屋外労働や材木屋などの仕事をかけもちしながら、ふつうの男として生活していた――共和国の法律では、異性装も同性愛もすべて禁じられているからだ。密告されようものならよくて精神病院や矯正施設、そうでなければ監獄行きになる。最悪なのが治安警察や民衆による私刑だ。知り合いの同性愛者が射殺されたという話には事欠かない。

 リマは吸いはじめた煙草が終わるのを待って、椅子から立ち上がった。鏡台の前に座り、吸い殻を灰皿に押しつける。手紙が目に入った。しかし中身は確認せず、脱いだ服をその上に置いただけだった。

 ティアドロップの鏡に映る自分と見つめ合う。そこにいるのは二十三歳の男だ。どこかあどけなさの残る、しかし逃れようもなく男らしい骨付き。短く切った金髪に、緑の混じる青色の目。アンデスの日射しで焼けてなお白い肌には、無数の小さな火傷痕が残っている。

 しかし首から下には明らかな丸みがふたつついている。心得た薬局で定期的に購入するホルモン剤を注射しているからで、わずかだが女のような乳房がある。とは言え、わざわざ手術をしてシリコンを詰めるほど本格的なものではなく、薬を断てばすぐに消失する類のものだ。

 化粧箱を開き、ブラシの先端に残った古い粉を落とす。肌色よりすこし濃いパウダーで火傷痕を隠していると、鏡の前に置いたラジオからニュースが流れはじめた。地方都市コンコルディア……治安警察による急進派の射殺……おもむろに番組を切り替え、音量を上げる。

 情熱的なボレロが流れはじめた。


 ◇ ◇ ◇


 まばゆい照明が舞台を照らすなか、リマの全身は今にも燃え上がりつつある。素朴だが力強い弦楽器ティプレがかき鳴らされるなか、彼はドレスの裾を持ち上げ、目線の先に屈強なムラートの男を据える。

 口紅を塗った唇が笑みをかたちづくる。

 彼らを取り囲むのは陽気なサルサ、そして人の歓声、割れんばかりの拍手と野次。その勢いを受けて、リマは向かい合った男と踊り始める。細く危うげなヒールで板張りの床を動き回りながら、リネンの膝丈ドレスの裾を揺らす。かつらは地毛と同じ金色で、踊りに身を任すほどに激しくうねりもつれあう。厚く粉を重ねた肌はつくりものじみている。手足に身につけたエメラルドのネックレスやブレスレットが、照明を浴びてぎらついた光を放った。

 距離をとって拍子をとり、かと思えば密着して手足を絡める。ハイヒールの踵で軽妙に床を打ち鳴らしながら、くるくる、くるくると、一瞬たりとも停止する瞬間はない。ときおり男の体に手のひらで触れてみては、大げさにキスしてみせることもあった。

 ――舞台の上で、リマは男ではなくなる。指先まで女になってふるまう。 

 突然、音楽がやんだ。男役がはけ、リマだけが舞台の上に取り残された。リマは支えをなくしたかのようにその場にくずれおちた。情熱的なサルサが第一幕だとしたら、これ以降は第二幕だった。

 リマは全身汗みずくで、息もひどく切れている。ドレスはぐっしょりと濡れ、少女がかぶるような白いヴェールの下では長い鬘がみっともなく乱れていた。肩で息をしながら、ゆっくりと天井に向けて頤を上げると、化粧のはげかけた顔が白い光に照らされた。

 リマの目のまわりは、絵の具で真っ黒に塗り潰されている。暴力の表象。

 舞台の奥から先ほどの男が現れた。リマの頭上で、手に持っていた革袋を裂く。溢れ出した赤黒い液体が、容赦なくその全身に降り注いだ。生臭い豚の血だった。仰臥して浴びる血が、彼のまとう衣服を瞬く間に染めてゆく。

 舞台の後方から、ふたたび音楽が鳴り始めた。サルサからは一転して、ラテンハープを爪弾く静かな旋律。リマが二度、三度とまばたきをする。とたん、暴れ出した彼にまたがって、男がその衣装を剥いだ。ハープにティプレや他の弦楽器が加わり、徐々に激しさを増す。先ほどの陽気さとはまったく異なる―腹の底から臓物をかき回すような暗い曲調で。

 苦しみもがく彼の四肢を押さえつけ、男がその頬を馬上鞭ではたく。力は加減されていたが、鞭をはたく音は甲高く劇場のなかに響いた。何度も何度も。リマは涙を流して嗚咽をこぼし、必死になってやめてくれと高い声で嘆願する。観客が盛り上がり、これまでの比にならない歓声が響く。照明の下にさらされた彼の裸体はむざんなものだ。首や脇腹、背中のあちこちで、ファンデーションが流れ落ちその下でまだら模様を描く煙草の火傷痕があらわになる。苦悶の表情を浮かべながら男に叩かれ、髪を掴まれて引きずり回される彼の顔は、徐々に赤く上気していく。ついには背後から羽交い締めにされ突き上げられるまねごとに、リマは甲高い嬌声を上げるようになった。細い体が反り上がり、薄い腹の上を薄くピンク色になった豚の血が滴り落ちる。

 地下劇場の入り口に掲げられるプログラム、その最後の演目はクラッカーと名付けられている。白人クリオーリョを揶揄する隠語のひとつだ。

 体のあちこちを叩かれ、リマは汗でぬめる床を逃げ回るように這いずった。

 痛みにもだえ苦しむ瞬間、リマは安息を得ることができる。世界に自分が楽になって呼吸することのできる空間を得るのだ。


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