(四)
姿見の前に、ひとりの子どもが立っている。
真昼間の子ども部屋にその子以外はおらず、使用人が掃除に回ってくる時間でもない。誰にも見られないよう重い扉をきっちりと閉じて、彼は白いドレスを着る。姉の聖体拝領のために準備された特別な衣装を。どうやっても背中側のボタンを留めることができず、生温い空気がうなじを撫でた。
その子どもは、鏡の前でくるくると回ってみせた。長い裾が揺れ、空気を含んでスカートが膨らむ。窓から射す光が、彼の金色の髪を、養父のまったく先住民のような黒い肌とは異なる、白くなめらかな肌を照らし、輝かせた。
あの時代――世界に自分ひとりという孤独を抱えながら、それでも家族の愛情に抱かれていた頃。
幸福な子どもを前に、これは夢にすぎないのだ、とホセは思った。この子の夢がいずれ破滅することを知っている。女装癖が露見し、母親はさめざめと泣くだろう。父親に隠れて医者のもとに連れて行き、どうにか治療してくれと嘆願するだろう。〝この子を立派に育てなくてはいけないのです〟――子どもは父母のことを思い、夢を胸に封じるだろう。パステルでひっそりと夢を描いては誰にも見られぬよう破り捨てるだけになる。そうすればもと通りになる。まだ絶望の時は訪れない。みんなと繋がっていることができる。
尊敬する父、優しい母、賢い兄と美しい姉たち。
まだ、誰も欠けていない。
◇ ◇ ◇
誰かの手が、背中に触れた。
次の瞬間、ホセの体は宙に浮いていた。地上まで残り数段を飛び越えて、踊り場に転倒する。
一限の授業が終わり、次の授業を受けるために教室を移動している最中のことだった。
“ホセは強くていいなあ”――顔面から床に倒れた瞬間、ホセの頭によぎったのは、サンセのそんな媚びた声だった。
今朝のサンセはけろりとした顔で授業に出ていたが、すぐに教師に怪我を指摘された。一方的に暴力をふるわれたのは誰の目にも明らかなのに、原因を聞かれても要領を得ない返事をするだけだった。サンセは最終的に医務室に連れて行かれた。
踊り場にうずくまったホセの横を、笑いながら他の生徒たちが通り過ぎていく。
(どうして――)
(どうして、俺ばっかり)
獲物はサンセに移ったのではないか。ホセの心臓はみじめさと悔しさで握りつぶされそうだ。こういうとき、ホセは強く意識する。自分の不治の病を。自分はボタンをかけ違えていて、それを直す術を知らないでいる。誰でも生まれた時にはボタンを正しい位置に留めることを知っているのに、自分だけが知らない。気づけない。
両腕を突いて身を起こす。目の前に、見慣れた少年の首筋が見えた。
「……何か用かい?」
ほとんど衝動的にその肩を掴むと、マリアノは鬱陶しそうにふり向いた。
「どうして、」
「何が?」
ホセは声を詰まらせた。熔岩が喉に詰まったように、思いが形にならなかった。
「文句があるな言えよ。女みたいに口を噛んでさ。みっともねえんだよ。ああ、サバスティアン・サパタは、お前に女のための教育をしたんだな。だから――」
とっさに拳を振りかざしそうになると、「お前、分が悪くなるといつも手が出るよな」とせせら笑いが飛んで出鼻をくじかれた。
ホセは震える唇を開いて、喉の奥から声をひり出した。
「女、じ、ゃ、な、い」
一言一言を噛みしめて言い放てば、少年たちは笑い声を上げた。
「馬鹿じゃねえの。本気にしちゃってさ」
半笑いを浮かべて、ずいと顔を寄せてきたマリアノが囁きかける。
「なあ、放課後、裏の森に来いよ。お前がほんとうに男かどうか、俺たちが試してやるからさ」
「それなら文句ないだろ?」そう詰め寄られる。ホセはうなずくほかなかった。腹の底からせり上がるむかむかとした気持ち悪さをこらえながら。
◇ ◇ ◇
放課後、ホセは約束どおり校舎裏に広がる森までやってきた。
植民地時代に丘上に立てられた邸宅の防風林を起源とする森だ。管理の手が届かない木々は隙間なく密集して、丘の斜面からその下の平までも覆い、ふもとに広がる汽水湖を出口としていた。
鬱蒼と茂る木々の間には、太陽の光もわずかにしか届かない。湿り気を帯びた風は花や樹液、土の匂いだけでなく、どこか生臭い汽水の匂いも混ざっている。ホセは森に入ってすぐ、目についたカシューの木に寄りかかった。そっと指先を握り込む。
ものを盗めと命令されるかもしれないし、誰かを殴れと指示されるかもしれない。きっとひどい目に遭うだろうと予感しているのに、ホセは逃げ出すことができなかった。逃げたら最後、卒業するまで馬鹿にされるはずだ。自分はあのサバスティアン・サパタの息子なのだ――保守党の利己的な政治家を父親に持つマリアノとは対峙する運命なのだと、自分に言い聞かせて何とか心を奮い立たせる。
長時間待ちつづけ、もしかして揶揄われただけなのか、と不安を感じ始めた矢先、マリアノたちが現れた。日没を前に、森の風景は青ざめた色に染まっていた。
彼らからはほんのりと甘い煙の匂いがする。どこかで『一服』していたようだ。
「ほんとうにいたぜ、こいつ」
笑いを噛み殺す彼らの呂律は回っていない。嫌な予感に、ホセの体は硬直した。
「サパタ、お前がほんとうに男なのか、ためしてやるからさ」
マリアノの蜂蜜色の手が何かを握っている。目を凝らせば、それは赤錆びた鉄の棒だった。
遠くで晩鐘が鳴る。埃っぽい風が木々の上を吹きさらしてゆき、カシューの実をついばんでいた鳥たちが一斉に飛び立った。その錦糸を織ったような色鮮やかな翼を目で追う。
一羽、二羽、三羽……。
「地獄にいるからといって、天国にいる人間を蔑んではいけない」
そのひとの、節くれ立った硬い手が髪の毛をかきまぜる感触を憶えている。
「そのひとたちがお前から奪ったわけではない。破壊したわけでもない。お前に他者を憎ませるものが何なのか、その正体を問いなさい。目の前のものだけをみて、暴力をふるってはいけないんだ」
父の顔の印象はぼやけてはっきりとしない。写真で見てはじめて、こんな顔だった、と思い出す程度のもの。それ以上に、ジャガード織の背広や、黒い肌に乾いた指先、好んだ煙草の匂いといった断片的な記憶にこそ、ホセは懐かしさを感じてやまない。
幼い頃からホセは癇癪持ちだった。一度機嫌が悪くなると、火がついたように泣き出して暴れ、なだめようとするきょうだいや母を叩いたり引っ掻いたり、使用人の腕が紫色になるまで噛んだこともあった。何が自分をそこまで苛立たせるのか、幼い子どもには言葉にする力がなかった。そんな自分を、父親はしばしば諭したものだ。――もしかしたら、彼が演説か何かでした発言を、自分に向けた言葉だと思い込んでしまっただけかもしれないが。
ホセは
それを拾ったのが、当時演説のために各地を回っていたサバスティアン・サパタだった。
サバスティアンはもともと弁護士だったが、後に使命感を得て政治家となった。多忙でほとんど家に帰らぬ人で、首都の家には、父方の祖父母、母、ホセとだけ血の繋がらないきょうだい、先住民の使用人の女たちがいた。
思い返せば、あの恵まれた――穏やかで、朝には焼きたてのパンの香る世界は、まぼろしか何かだったのではないかと感じる。家族仲は良好だった。ホセは愛されていた。一方で、彼らと肌色の違う自分は、いずれ家族と敵対する存在なのではないかという漠然とした不安があった。ときおり疎外感が深まることがあると、遠い異国のどこかの農村から流出し、長い航海を経てこの国にやってきた金髪に青い目の祖先のことを思った。彼らのいる場所なら、自分を受け入れてくれるかもしれないことを夢見る夜があった。
――意識が覚醒したとき、ホセの胸に去来したのは、そんな熱っぽい湿り気を帯びた、存在すらしない場所に対する郷愁だった。
ものまね鳥がさえずっている。
生暖かい風が体をなぶった。肌がひりひりする。頭上にある木々が重たげに梢を揺らし、ホセの体にはらはらと滴を落とした。ぼんやりとした頭で暗闇を眺め、ここが校舎の裏に広がる密林であることに思い至った。
枯葉の降り積もるやわらかな土の上に横たわっていた。身を起こそうとして、下半身の猛烈な痛みに気付く。ズボンも下着もなく、剥き出しになった尻が泥まみれになっていた。記憶をたぐり寄せようとしたが、意識が朦朧としてろくにものを考えられない。すべてが曖昧ななかではっきりしているのは痛みと、それに対して燃え上がる欲望のみだった。
――ほんとうは乱暴されるのが好き。
サンセの声が脳裏によみがえった。
体の中心に触れると、その部分が芯を持っていた。
肺腑が縮みあがり、息が苦しくなる。肋骨の奥で炎が逆巻き、内側から組織が焼けただれてゆく。ホセは肩をこわばらせ、普段隠れてそうするように、自分のものを擦った。あまりにみじめで涙がとまらなかった。神経をかけのぼって脳までたどり着いた欲望と焦燥が、彼に手を止めることを許さなかった。
ほとんど呼吸もせずにふけり、ようやく我に返るころ、彼は桑の木々のあいまで、風にしなる柳のように立つ少年を見つけた。
暗闇のなかだったが、なぜかはっきりとわかった。サンセだと。
冷や水を浴びせられたように興奮が引いてゆく。
「――どうして」
小さな声で問う。
無言で歩み寄ってくるサンセから、ホセは後ずさることさえできない。あどけなさを残した少年は正面で立ち止まる。ホセは彼の足下ばかり見つめていて、突き出されたそれに気付くのに遅れた。
「部屋にあったんだ」
たどたどしい西語でサンセは言った。
ホセは目を見開いた。糊で不器用につぎはぎされた、薄汚れた一枚の紙。そこに描かれた絵を、ホセはよく知っている。
「きみって絵が上手なんだね、ホセ」
パステルで描かれたそれは、女の絵だ。
金髪に青い目、着飾った姿は、年頃の娘というよりは成熟した女。
過剰に体型を誇張するドレス、赤い口紅に瞼を覆う紫のアイシャドウ……。
「……頼む」
サンセがふたたび口を開く前に、ホセはその足にすがりつき、懇願した。
「お願いだから、誰にも言わないでくれ。誰にも見せないでくれ、忘れてくれ! そうじゃないと、俺は……俺が……俺が、頭のおかしいやつだと思われるから……だから……。だから、誰にも……」
ホセの脳裏を過るものがあった。この病理をどこで彼らに嗅ぎつけられてしまったのか? 握りしめた、毛羽立つ青い布の感触。前期課程に入学するため、首都の家からトランクひとつでこの街までやってきた。トランクのなかには、姉の服が一枚まぎれこんでいた。花柄の赤いワンピースが。
大部屋でそれを他の同級生に見つけられて、からかわれた。思うに、間違えてまぎれこんでしまったのだと笑ってごまかせばよかった。あるいは、いつもみたいに癇癪を起こせばよかった。
けれどもホセには、自分が学校へ旅している間に誘拐された、姉の唯一の遺品であるように思えてならなかった。しかし胸の深い傷をさらすこともできず、黙って俯くことしかできなかった。
そうしたら、翌日には噂が広まっていた。あいつ、女の服を持っているぞ――男のくせに、きっと男のことが好きなんだ。サバスティアン・サパタの息子であることもあって、マリアノのようにホセを目の仇にする生徒も多かった。
「……あのね」
サンセが小声で何かを囁く。涙の溜まった目で、ホセは彼の小さな顔を見上げた。サンセはにこりともせず、かといって嫌悪をあらわにした様子もなく、淡々と言葉を続けた。
「僕のつがいになってくれたら、黙っててあげるよ」
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