(三)下
その日の夕食の時間になっても、サンセは食堂に現れなかった。マリアノとその取り巻きが遅れてやってきたのを見て、きっとどこかに置き去りにされたのだ、とホセは思った。裏の森かもしれないし、飼育小屋かもしれない。想像するだけで息が詰まり、不安が湧き水のようにこんこんとあふれ出た。
マリアノたちが小声で喋り合うのに耳をそばだてながら、ホセは皿に盛られた赤豆をスプーンですくった。ほとんど噛まずに食べて皿を空にすると、まだ多くの生徒たちが賑やかにお喋りする食堂をそそくさと抜け出した。
外廊下には湿った熱気がうずまいていた。漆喰の剥がれかけた壁を覆うようにして繁茂した茉莉花の匂いからは、この寄宿舎のどこにいても逃れることができない。
遠くで禿鷲が鳴いている。ホセはそっと鼓動を打つ左胸に触れた。頭の中の不安を追い出すように、先週末、こっそり街に下りて買ってきた画材に思いをはせた。ひなびた雑貨屋の片隅で忘れ去られていた、海外製の一本のパステルのこと。青と緑のあわいの色をして、孔雀の羽のようだと一目惚れした。ドレスにも、アイシャドウに使っても、素敵になるだろう――抽斗の奥にしまいこんだパステルを触りたくて、ホセは自室の扉を乱暴に開いた。そしてベッドに寝転がるサンセを見ると、胸の奥が黒く塗りつぶされた。
「……何でいるんだよ」
ホセは衝動のままに、扉の横の壁を殴った。
勉強机に放置された虫籠の蓋が外れている。サンセは腕に白い蚕を這わせながらその様子を観察しており、ホセの問いには答えなかった。
脱皮を繰り返した蚕はもうまもなく、自分のための繭を作りはじめる頃合いだった。ホセは授業なんてほとんど聞いていなかったけれども、ルームメイトのエステバンが幾度となく一方的に説明をしてきたから覚えている。生き物好きの彼がどこからか入手して育てはじめたのに、彼はその短い一生を見届けることなくここを去った。
「何でいるんだよって聞いてるんだよ、お前」
サンセの寝そべるベッドまで歩み寄って、その支柱を足で蹴った。
「今日マリアノたちに連れて行かれただろ。何言われたんだ? 俺の悪口を聞かされたわけじゃねえよな」
なおも答えないサンセに、ホセはぎゅっと拳を握った。すると、そこではじめてサンセが顔を上げた。
煙水晶のような目が、じっとホセを見つめる。その硝子玉のような虹彩に、一瞬、蛍光を帯びた緑が混じった。流れ星のように一瞬だけ横切った光にあてられて、ホセは強い眩暈を覚えた。
開け放たれた窓から、熱い夜風が吹き込む。
ホセは自室を離れ、いつのまにか深い雲霧林に立っている。
どこからか大量の虫の翅音が聞こえる。密集する木々が風に揺られる音も。銀色の鱗粉を散らしながら、無数の蛾や蝶がホセの両脇をすり抜けていった。
カシューの実をついばむハチドリ。花を振らせる銀合歓が琥珀色の樹液を甘く香らせている。ホセは森の奥を見つめている。そしてまぼろしを見る。
森の中では、この世の自然のものとは思えない、緑の火が燃えている。
巨大なエメラルドのような物質が溶けながら、みずからを燃焼させている。
それを目にした瞬間、ホセは膝から崩れ落ちていた。森の姿は消え、自室の床で四つん這いになりながら胃の中身を戻す。夕食の赤豆が溶けた状態で、まるで血が滴るように口からこぼれ落ちた。
「ねえ、あのおじいさんみたいな先生に、あそこをさわられたの?」
サンセの声が、雪のように静かに降ってくる。
「それで大人になっちゃったんでしょ?」
彼は手の甲にのせた蚕を撫でている。顔を上げて、その様子を視界に入れたホセは、虫が火傷してしまう、と場違いなことが頭の片隅に浮かんだ。
「ほんとうは乱暴されるのが好き。手足をおさえつけられて、無理矢理されたいって想像しながら、隠れてあそこをいじっている」
ホセは愕然とした。全身から血の気が引いていく。誰も知らないはずの秘密を、どうしてこの少年が知っているのだろう? いったい誰から教えられたのだろう?
「へ、変な言いがかりつけてんじゃねえよ……」
肋骨のあたりに神経痛が走って、びりびりと痛んだ。考えはもつれるばかりでまとまらず、頭が破裂しそうになる。どんな行動を取るべきかまったくわからなくて、代わりに机にあった花瓶を掴んだ。
「女になりたい? 女のようにされたいの?」
サンセは何かに憑かれたように滔々と喋り続けている。そのいかにも無防備な頭めがけて、ホセは花瓶を振りかざした。
「それ以上何も喋るんじゃねえよ、てめえ!」
花瓶が割れた。寝台に乗り上げて、今度は素手でサンセを殴る。
「やめて、やめてよう、ひどいことしないでよおっ」
サンセは突然体を震わせて泣きじゃくった。「痛いよお」顔をかばおうとする両腕を掴んで引き剥がせば、彼はなぜか笑っていた。白い歯を覗かせ、笑いながら悲鳴を上げていた。
ホセはぞっとした。
「この気ちがいめ、これ以上俺を馬鹿にしてみろ、絶対に殺してやるからな……!」
サンセが笑い声を上げなくなるまで、ホセは彼の顔を叩いては殴り続けた。
雨樋から滝のように水の滴っている。夜半を過ぎて降り始めた雨は、眠りを妨げるほどやかましく、地に水を叩きつけていた。じっとりと肌にまとわりつく空気は重く、ホセは肺を押し潰されそうな息苦しさを感じて突如目を覚ました。
寄宿舎全体がひっそりと静まりかえる真夜中。両手の拳がひりひりと痛むのをホセは感じた。疲弊してベッドに倒れ込んで、そのまま寝入ってしまったのだ。寝汗に濡れたシャツが不快で、服を脱ごうと身を起こした矢先、違和感に気付く。
頭上に腕を伸ばして紐を引くと、室内がパッと明るくなった。隣の寝台は空だ。何気なく目を向けた先、自分の寝台の隅で、縞模様のブランケットが丸くなっていた。
「あ……」
とっさに布を掴んで引っ張れば、案の定、サンセが姿を現した。いったい、いつのまに潜り込んだというのだろう――それも、あんなことがあったあとで? ホセは最終的に彼を自室から追い出して、扉には鍵をかけたつもりだった。
しかし彼はここにいる。薄い膝を抱えて体を丸めるサンセは、ホセと目が合うと、媚びるような笑みを浮かべる。
顔のあちこちが腫れて痣の跡が浮かび、切れた唇や瞼には生乾きの血がこびりついたまま。
「みつかっちゃった」
サンセはそう言って、握っていた拳を開いてホセの前に突き出した。「前歯が抜けちゃったんだ」その言葉のとおり、少年の手のひらの上には根元から折れた乳歯があった。
「何でここにいんだよ」
サンセは見た目以上に軽く、ホセが今度こそブランケットを引き剥がそうとすると、彼はころころとシーツの上を転がって、そのまま床に落ちてしまった。
「あう……」
ぶつけた頭をさすりながら体を起こすと、サンセは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてって……」
「僕、ホセと仲良くなりたいんだ。ホセのことが好きだから」
ひび割れた唇からこぼれ落ちた予想だにしなかった言葉に、ホセはひるんだ。
「ホセとの間に子どもをつくりたいんだ」
困惑に気付く様子もなく、サンセはぎゅっと拳を握ると、興奮でうわずった声で唱える。気圧されかけたホセは、かぶりを振ると、「何言ってんだよ」と怒鳴った。
「男同士でできるわけないだろ。それに、そういうのは、もっと……」
もっと――何だと言うのだろう。ホセは口をつぐむ。
「好き合ってる連中とかが……」
自分でも説得力のないと感じるような、乾いた声が出た。
サンセは制服姿だった。床の上に座りこんだまま、捨てられた子犬のようにホセを見つめている。痩せぎすの体に脂肪はほとんどついていなくて、みすぼらしかった。
「へへ……ホセ」
彼は突然立ち上がったかと思うと、ふいに、ホセに抱き着いてきた。
ひしとしがみついた少年の勢いとその肉体のなまなましい感触に、ホセは息を飲んだ。
見た目通りに骨ばって、硬いからだ。
「ああ、やっぱりいいなあ。最初ににおいを嗅いだときから、決めてたんだ。ホセってつよそうだもの。おとなになったらもっとすごいんだろうなあ、立派な雄になるんだろうね。僕、僕ねえ、やっぱり……」
べたべたと両手でホセの上半身をまさぐりながら、耳元でぼそぼそと囁く。ホセは息ができなかった。心臓が止まってしまったかのようだ。そして次の瞬間、サンセは無遠慮に彼のまたぐらを掴んだ。反射的にその身を突き放そうとすれば、力強く、その部分を握り潰された。
「強い雄とつがいたいんだあ。四六時中交尾したいんだよ、僕。そのために生まれてきたんだもの」
痛みに身もだえ、こぼれかけた悲鳴をすんでのところで堪える。
「や、やめ……」
下腹部がねじきれそうな痛みを感じた。
サンセは不思議そうにホセを見て、ああ、と小さな声を漏らした。そして何を思ったのか、今度はホセの急所を優しく撫ではじめた。次いで、サンセは寝間着のズボンを脱いだ。下着さえ身に着けていない下半身があらわになる。
白熱灯のもと、骨のかたちがクッキリと浮かんだ両脚が曝け出された。痛みに眩暈を起こしながらも、半ば強制的に、ホセは真正面から彼のその部分を目にすることになった。
「お前……」
突然、頭上の光が消えた。雨で電気系統が乱れたのだろう――停電だ。
ほたほたと雨樋から水の落ちる音がする。
「……ああ、そうなんだ」
力をなくしたたホセのものに視線が集まる。
ホセは喉の奥がぎゅっとしまり、息苦しさを覚えた。胸が張り裂けそうになる。
「きみって、そういうふうにできてるんだ。不思議だなあ」
しみじみとそう言って、サンセはホセから身を離した。彼が何を言っているのか理解できなかったが、全身から血の気が引くのがわかった。混乱していた。それはつまり。つまり――。
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