(三)上

 埃っぽい教室にはうだるような熱がわだかまり、甘酸っぱい汗の匂いが立ちのぼってくる。ずらりと何列も並べられた長椅子には、座席こそ決められていないものの、おのおの定位置に少年たちが腰かけていた。彼らは一見おとなしく、その実さまざまな思惑をめぐらせた目で、一様に教壇の上に注意を払っていた。


「あの…………ええと、僕。僕の……」


 最後列の隅っこに座ったホセは、俯いたまま、指先で短い鉛筆をもてあそんでいた。不自然なほどに静まり返った教室では、たどたどしく自己紹介をしようとするサンセの声は、どうやっても耳に届いてしまうのだけれども。


「僕のなまえは、サンセです」


 イスマエルに耳打ちされたのか、サンセはようやくそれだけを言った。

 を出迎える拍手や歓声は起こらず、教室は静寂を保ち続けた。



 その日の一時限はイスマエルの担当する歴史学だった。彼は昨晩宣言したとおりに、サンセをともなって教室にやってきた。サンセは、いかにも血の巡りの悪い、青ざめた顔をしていた。彼の唇は腫れたままだった。


「それじゃあ、サンセくんも席について」


 イスマエルの呼びかけに、それまで黙っていた生徒のひとりが席を立った。


「先生」


 ホセは胼胝たこのできた指で相も変わらず鉛筆を転がしていたが、その声には自然と全身がこわばるのがわかった。ちくちくと針に刺されるような神経痛が、脇腹をかけぬけていった。


「何だい、リバデネィラ」


 マリアノはもったいぶるように一度咳払いした。


「まさかとは思いますが、そいつがうちの生徒になるんですか?」


 「由緒あるエル・ノルテは、いつから東洋人の強制収容所になったのですか?」――拍手喝采こそ沸き起こらなかったものの、噛み殺せない笑い声がさざ波のように教室に伝播していく。長机の木目模様を眺めながら、ああ自分はまちがっていなかったのだ、とあばらの隙間にまで深く安堵が満ちていく。昨日のふるまいは、きっと正しかった。

 今度は、ボタンをかけ違えなかった。


「差別的な発言だね」


 にこやかな笑みを保ったまま、イスマエルが肩をすくめる。


「今話しただけでも、そいつはろくにこっちの言葉を使えない。授業にもついていけないんじゃないでしょうか。せめて、一年生から始めればいいのに」

「リバデネィラ、お喋りはそこまでにしようか。心の壁は無理解や偏見から生まれる。サンセくんについてもっと知ってみようじゃないか。彼は煙華人にルーツがあるという。煙華人について、みんなどこまで知っているかな」


 イスマエルはサンセを教壇に立たせたまま、白墨チョークを握ると黒板に向かった。迷うことなく線を引いて、できあがったのは世界地図だ。

 マタラトン共和国からはるかに遠い東洋の小国に目印をつけ、「復習しよう」と宣言する。


「ジャア=ツァンという国がある。世界の交易が陸路から海路に移るまでは、交通の要衝地のひとつだった。そのために異民族の流入が活発で、国としてまとまりをもたない時期が長かった。それを変えたのが養蚕業だ。養蚕業は周辺国でも活発に行われていたけど、ジャア=ツァンのものは特別だった」


 型にはまった何の面白みもない説明に、教室の空気がしらけていく。


「煙華はジャア=ツァンにおける少数民族で、煙華人の職能集団がつくるシルクは、長い間、最高級の交易品として取り引きされた。その技術が西洋に持ち込まれたのは中世以降で、一説には、杖の中に数匹の蚕を隠して密輸したとまでいう。それでも、かの国ほどすばらしいシルクはなかなかできず、その技術は国内でのみ独占されてきた」


 イスマエルはそこで一呼吸置いて、「今しがた、彼らは流浪の民と呼ばれている」


「みずからの国をもたないという意味だ。煙華族人ジャア=ツァンにおいて、古くはその技術をめぐって、そして今も政治的に迫害される立場にある。民族離散と呼ばれるもので、彼らは世界中に散らばっているんだ。このマタラトンにおいてもね」

「煙華人はずる賢くて意地汚い、平気で人を殺す連中だって言いますからね」


 マリアノが口を挟む。


「この国の政治家も大地主も似たようなもんだろ」


 それに対し他の生徒が答えた。諌める意図はなく、軽い会話を楽しんでいる様子で。


「僕のパパの悪口はやめてくれよ。恨むなら志半ばで殉死したサバスティアン・サパタさ」


 イスマエルはマリアノの発言を聞き流すことにしたようで、「つらい経験をしているんだ、優しくしてあげるように」とサンセの肩を叩いた。そこではじめて、教室にまばらな拍手が響いた。

 よろよろと歩いて、サンセは指示された席についた。その途中、何気なく顔を上げたホセは、彼と目が合ってしまった。するとサンセはうっすらと笑った。

 教科書も鉛筆もない、身ひとつでやってきたサンセを、隣の生徒が手助けすることはなかった。結局一日が終わるまで、教師がそうするように命令することもなかった。生徒は彼のことを受け入れがたく感じていたし、教師もまた、この少年を扱いかねているように見えた。

 置物のように、サンセは宙の一点を凝視していた。




 オルガンの音に合わせて、少年たちが歌う。

 歌声に不協和音が混ざるのは、そこに変声期を迎えつつある子も含まれているからだ。産毛も脂肪も薄く、とんぼのように細い足をさらすのは大人ではない証拠。声変わりを迎えた少年は、慣習にしたがって長ズボンを穿くようになる。

 埃っぽい光に照らされた放課後の音楽室には、ホセとその同級生が集まっていた。クリスマスの時期に催す降誕劇ページェントは、翌年第四学年になる生徒たちが中心になって企画される。毎年この時期になると、週に何度か、エル・ノルテ校の教員を兼ねる修道士の監督のもと、合唱や演劇といった出し物の練習に取り組まされるのだ。

 音楽室の隅にある作業台に積み上げられた布を前に、ホセは退屈しきっていた。問題ごとばかり起こす彼は強制参加の聖歌隊からも外され、選ばれた生徒だけが出演できる演劇にも当然出してもらえず、裏方作業を命じられていた。与えられた仕事は、大量の衣装の――長年受け継がれたきたもので、あちこちがほつれている――修繕作業だ。

 つまらない仕事は放り出したいのが本音だが、今年の出し物の担当になった修道士は、教師のなかでもひときわ厳しい老人だった。さぼりや口答えをすればすぐに鞭が飛ぶ。ホセは当然のように彼に目をつけられていて、きついお仕置きを受けて以来、彼にだけは抵抗しまいと決めていた。

 針や糸を持つでもなく、適当に掴んだ布を指先でもてあそぶ。たまたま手に取ったのは色褪せた青色の衣装だ。聖母のマントだ。

 毛羽立った布の表面を、ホセはそっと汗ばむ手で撫でた。その手ざわりを確かめるように、何度も手のひらを往復させる。

 すると、それまで絶えず聞こえていた合唱が止んだ。どきりとして顔を上げると、修道士の一喝が飛ぶ。


「お前は外れなさい」


 老人の声に、ホセは無意識のうちに肩を揺らしていた。声をかけられた張本人であるサンセは、言葉の意味を理解しかねたように目をしばたいた。

 すると修道士は近寄ってきて、「そのような外れた声で歌われてはたまらない、耳がおかしくなりそうだ」とつぶやいた。


「あとで私が指導してやろう。練習の時間が終わったら、私の部屋に来なさい」


 ホセは喉の奥から苦いものがこみあげるのを感じた。こわばる指先で、そっと青い布を握る。

 修道士の指示にサンセはおとなく従うように見えた。おずおずと顔を上げ、白い前歯を覗かせる。


「――」


 サンセは何か囁いたが、その声は目の前の修道士以外には届かなかった。

 一瞬の間を置いて、馬上鞭が彼の顔面にまで飛んだ。


「何とおぞましいことを。聖らかな少年の身でありながらそのようなことを口にするなど、お前は悪魔憑きか!」


 ゆっくりと目をまたたくサンセに対して、修道士は早口でそう言い募った。「出て行け!」叫びながら再度鞭を振りかぶろうとした姿勢で、男は動きを止める。

 微動だにしなくなった修道士の視界には、変わらずサンセが立っていた。

 その短い睫、薄い一重まぶたに隠された瞳が、ほんの数秒、緑の閃光を帯びて見えた。


「……今日は終わりだ」


 突然、修道士は生徒たちに背を向け、言い放った。

その日の練習はまだはじまったばかりで、もう小一時間は続くはずだった。生徒たちは怪訝そうに顔を見合わせ、ひとりが「今日は劇を最後まで通すんじゃなかったのですか」と不服を口にした。


「練習は終わりだ。いいから、さっさとここを出ていけ!」


 雷鳴のような怒鳴り声に、なおも訝しがりながらも少年たちは解散した。教室から出て行く人影を目で追おうとして、ホセは自分がまだ青いマントを握りしめていることに気付き、慌てて衣装箱のなかに放り込んだ。

 物置まで運ぶつもりで衣装箱を持ち上げたとき、音楽室を出て行こうとするマリアノの姿が目に入った。数人の取り巻きを連れた彼のそばにはサンセの姿がある。

 その光景を目にした瞬間、ホセはなぜか胸のすいたような気分になった。安心感とはまた違う感情だった。


「せんせい、大丈夫ですか。お加減が悪いのなら、他の先生を呼びましょうか」


 オルガンの足もとに膝をついた修道士にむかって、生徒が声をかける。彼は黙ってかぶりを振って、ぶつぶつと小声で何かをつぶやいている。静かに正気を失っているように見えた。

 ホセは今度こそ衣装箱を持ち上げ、音楽室の外に向かった。

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