(二)

 ホセは自室で目を覚ます。外はひっそりと静まりかえり、乾いた黄色い曙光が彼の白い顔を照らしている。

 窓枠に絡んだ茉莉花ジャスミンが白い花を無数に咲かせ、むせるほどに濃い香気をあたりに漂わせていた。夏の陽炎のように立ちのぼる香り。この匂いの渦で、しばらく目を閉じていたいと願う。しかし照りつける日射しがあまりに眩しすぎて、ホセは上半身を起こした。何気なく隣の寝台を見やって、そこが空っぽなことに少なからずショックを受ける。ルームメイトがこの学校を去ったのは、一週間も前の話なのに。

 窓辺に干していたシャツを脇に抱え、ホセは寄宿舎の裏庭まで歩いていった。野ざらしのシャワーが何列か置いてあって、同じように体を洗いにきたのだろう上級生のグループが列をなしている。


「三年の赤毛いただろ、エステバンとかいう……。あいつ、退学したんだってな。父親が自由党員で、窮民制圧隊コントラチェスマの暴動で殺されたとか」

「今朝ラジオで流れていたよ。そういや、昨日ふもとの密林が燃えたとか。雨でたいした被害にはならなかったけど、案外こんな田舎にも民兵が潜んでいるのかもな」


 ホセは絶え間なくながれる汗をシャツの塊でぬぐった。すんなりと背が伸びて大人の骨格ができあがりつつある上級生たちの声には、幼子のような不安がにじんでいる。はじめて死の概念を理解したときのように、失神の波と同じくらい抗いようのない不安が。

 マタラトン共和国は、国民自由同盟と保守党の政治的対立による混乱が長いあいだ続いている。いまから百年ほど前、十九世紀前半の植民地独立戦争の終結時にはすでにできあがっていた構図だ。もとより高原地方と海岸地方コスタという標高差が激しく、行き来の容易でない国土は、地方分権化を進めるには有利でも、中央政府の舵取りには向いていないのがその要因のひとつだ。

 国民自由同盟の前身は甘蕉戦争で一度政権を握ったものの、その強力な農地改革によって多くの地主が土地を失った。保守党政権に戻ると、彼らは窮民制圧隊と呼ばれる民兵組織を作り上げ、自由党系農民の殺戮を繰り返すようになった。ホセの養父であるサバスティアン・サパタは自由主義の権利拡大を訴えた人物だったが、甘蕉戦争では、彼の属する国民自由同盟は最終的に保守党の徹底的な軍事作戦によって大敗を喫した。一部の急進派は、今なお高原地方の山間部で支持者を集め、保守党のとりしきる中央政府に対してゲリラ戦を展開している。

 伝統的な白人クリオーリョが権力を握る保守党と、かつて先住民インディヘナの血を継ぐメスティソが率い、貧困層から絶大な支持を得た国民自由同盟は、この国の分断そのものを表象していると言ってよかった。その分断は、神の御許で誰もが平等だとされるこの学校にさえひそかに息づいている。

 ――エステバンがこの学校を去らざるを得なかったように。

 背筋に照りつける日射しが熱かった。ホセは水浴びする少年たちから目をそらしながら、じっと自分の番を待った。


 火照った肌を氷のように冷たいシャワーの水で流すと、ホセは一度自分の部屋に戻った。替えの靴下を忘れてしまったからだ。白い靴下の皺を伸ばして履きながら、ふと窓目に目をやると、虫籠が目に入る。

 窮屈な革靴をはき、虫籠の蓋をあける。中を覗けば、数匹の蚕がいる。

 エステバンの飼っていた蚕だった。彼の私物は教員の手で回収されてしまったが、この虫かごだけは所有者がわからなかったのだろう、部屋に残されていた。

 白くなめらかな表皮をまとった芋虫が、小枝の上にちんまりと鎮座している。その蝋のような白は――ホセに昨晩現れた子どものことを想起させた。生白く、冷え切った肌色をした、嵐の中やってきた少年のこと。

 駆けつけたイスマエルが彼とホセと発見し、ホセはすぐに部屋に戻るよう命令されてしまったから、その後どうなったかは知らない。すくなくともこの学校の生徒ではない。彼は白人でも混血でもなかったからだ。しかし先住民でもない。ひとめで遠い国からやってきたとわかる見た目をしていた。あのような容姿をした子どもは、この学校にいない。

 学校に物乞いにでもきたのだろうか。そんなことを考えながら、ホセは蚕に与える餌を切らしていることに気付いた。勉強机のひきだしを開け、その奥から無造作に紙束をつかみ出す。それを、虫かごの上でびりびりに破いた。

 白い紙片が芋虫の周囲に落ちたのを確認してから、蓋を閉めた。




 ――日没間際の、刺すような光がホセの眼球を射貫いた。


 水飛沫が視界を白く覆い、斜陽を乱反射してまばゆくきらめく。その光を目にすることなく、彼は沼底に突き落とされた。

 放課後、蚕の餌になるモラの葉を取りに行こうと、校舎の裏にある森を目指しているときのことだった。誰かにあとをつけられているのはわかっていたが、昨日『懲罰房』に入れられたばかりなのもあって、無視を決め込もうとした。しかし人目の届かない、鬱蒼としげる藪の陰に入ったところで、ホセは不意を打たれた。

 突き落とされた沼は小さく、深い場所であっても足がつく程度だ。水草に足をとられながら何とか身を起こし、乾いた土の上に立つ少年たちを睨みつける。


「何のつもりだよ――マリアノ」


 マリアノと呼ばれたのは取り巻きを従えた少年だった。ほんのりと焼けた蜂蜜色の肌に亜麻色の髪をしたマリアノは、薄くほほ笑むと大げさに肩をすくめてみせた。


「何のつもりかって? 間抜けなお前が、俺たちの目の前で勝手に落ちたんじゃないか。いつもみたいになよなよしい歩き方をしてるせいだろ」


 ホモじゃない、ととっさに言い返せば、マリアノは身を屈めてホセの目を覗き込んだ。


「ホモだろ。お前、いきがってるわりには弱っちいしよ。ちんぽをたくしこんだみたいなオカマ歩きだし、この前階段から落ちたときも、女みてえに高い悲鳴上げてるし……な、ほんとはちんぽが好きなんだろ? そういうやつもいるからな」


 万年雪をひとつかみ、背中に落とされたようだった。目の前の少年に掴みかかろうとした腕は、あっけなく空を切った。


「ふざけんな、俺が女みてえだって言いてえのかよ!」


 その瞬間、顔面に吐きかけられた痰が、瞼の上からべっとりと糸を引いて頬を垂れていった。

 肩を掴まれ、水の中から地上へと引きずり出される。泥の上に倒れ込んだホセの頭上で、複数の笑い声が響く。

 ホセは腕力が強いほうではなく、喧嘩そのものが好きなわけではなかった。けれども一方的にやりこめられ、これ以上舐められないためには、どんなに勝ち目がないとわかっていても応戦せずにはいられなかった。

 なぜならば、自分につきまとう疑惑を真実として肯定させるわけにはいかないからだ。

 だから、ホセは周囲に好きで喧嘩をしていると思われている。少年たちはそれを見透かし、彼を挑発してまわるのだった。特にマリアノは保守党の政治家を父親に持つのも相まって、彼を体のよい鬱憤晴らしの相手だとみなしていた。

 ホモ、おかま野郎、臆病者、数え切れないほどの罵声が、地面にうずくまって身を守ろうとするホセに降りかかる。違う、俺はホモじゃない、おんなおとこじゃない、男なんて好きじゃない――嗄れた声で言い返すうちに、みじめさがこみ上げてくる。反撃の隙をうかがっていたはずが、どうにかこの場をやり過ごすことに必死になる。

 歯を食いしばって、短くない時間を耐え忍んだ。


 敷地にある教会堂から晩鐘が鳴りはじめるころ、ホセはようやく解放された。誰もいなくなった沼のふちでのろのろと身を起こした彼は、近くの水道まで、片足を引きずって歩いていった。

 汚れたシャツを脱ぐと、身をかがめて散水口のない蛇口から水を浴びる。冷水が頭皮の切り傷に滲み、血と泥と一緒になってからだを流れ落ちてゆく。水道の栓を握りしめながら、ホセはきつく奥歯を噛みしめて、いまにも漏れそうになるうめき声をこらえた。

 四六時中うっすらと、ふとした瞬間強烈に、ホセは自分が不治の病に罹っていると感じる。

 今までに罹ったどんな医者も見抜けなかった病理が、この肉体と精神には巣くっている。

 いつからこの病が自分を冒しはじめたのか、はっきりとした時期はわからないにしても。 

 無言でシャツを洗っていると、遠くから、おおいと自分を呼ぶ声がした。

 無視を続けるホセに、相手は諦めることなく近づいてきて肩を掴んだ。


「……何だよ」


 男の巨躯が視界に入り、心臓が跳ねた。イスマエルだった。

 逆光のなか、男の首筋をうっすらと覆う産毛が金色に煌めいているのが見えた。安い煙草のにおいが漂っている。イスマエルは濡れ鼠になったホセを一瞥したが、言及はせずに、「昨晩のことなんだけれども」とおもむろに切り出したのだった。

 昨晩という単語で真っ先に思い起こされたのは、「いいものを見せてやろうか」という言葉。

 ホセはすぐに我に返った。冷静に考えて、あの子どもの話以外にはありえないだろうと。


「俺に関係あることなんかよ」


 イスマエルの顔を正面から見ることもせず、ホセは苛々とした態度で返した。


「とてもね。ちょっと俺と一緒に来てくれるかい」


 拒否権はないとばかりに、イスマエルがホセの腕を掴んだ。

 寄宿舎では夕食の時間を過ぎているのもあって、校舎は閑散としている。教室や教員室が面した中庭パティオに足を踏み入れると、じっとりとした熱気のなか、かすかにクチナシが香っている。薄暮の闇のなか、奥にある校長室の前で白熱灯がひとつ光ってみえた。何匹もの虫がおぼろな光に吸い寄せられていた。


 電球の明かりのもと、普段は来客が座って待つための椅子に人影があった。目を凝らしてはじめて、それがあの痩せぎすの子どもだとわかった。


 子どもは両膝を小刻みに揺らしながら、頭上を飛び交う虫を眺めていた。


「――サンセくん」


 イスマエルの声に、サンセと呼ばれた子どもが正面を向く。

 あどけない顔立ちをした少年だった。生白い額に貼りついた、のっぺりとした黒髪。小作りな骨の形に添ってなめした薄い皮を張ったような顔。

 密林の民が敵の魂を束縛するために作ったという干し首が、ホセの頭に思い浮かんだ。


「せんせい」


 サンセとは白い前歯を覗かせ、ぎこちなく笑った。相手の反応を窺う、臆病な笑みだった。


「サンセくん、さっきも話したけれども、彼がホセだ。サパタ、この子はお前のルームメイトになる。ちょうど、エステバンがいなくなったばかりだろう」


 想像だにしていなかったイスマエルの発言に、「はあ?」とホセは思わず声を上げる。


「ルームメイト? こいつが? どう見ても――」


 浮浪者のガキか何かだろ、とホセが続けた。――可哀想だから宿貸ししろって?


「この子はエル・ノルテの転校生だ。校長先生がそうお認めになった」


 イスマエルは表情を変えず、淡々と答えた。


「この学校の生徒は白人だけじゃないし、混血だっているだろう。煙華えんか人の子がいても不思議じゃないと思わないかい?」


 煙華。その不可思議な響きを、舌の上で転がす。


「……黒人や先住民は通ってないだろ」


 マタラトン共和国の独立は、かつてこの土地を征服した国にルーツを持つ白人クリオーリョと、現地住民との混血によって達成された。彼らはいまだにこの国での優越性を維持している。

 古くは黒人が奴隷として扱われたが、かれらの身分解放によって足りなくなった労働力を補うため、年季奉公人として海外の複数地域から労働者が流入した。煙華人もそのひとつだった。


「お前にしては知恵を働かせたようだけれどね。そういうケースも稀にあるみたいだし、彼は特別扱いというわけだ。クリスマスも近いだろう? 校長先生のご慈悲で、年が明けるまでは置いておいてやれと……」


 声をひそめて、「おっと」とイスマエルが口を塞ぐ。「大人の事情だよ」そう悪戯っぽく笑う教師を睨みながら、ホセは拳を握りしめる。そもそも新入生の入学は一月と決まっていて、今は十二月だ。転校するにしても奇妙な時期だった。

 しかしサンセは現にこの学校の制服を着せられていた。半ズボンの丈が長すぎて、膝丈までかかるほど。シャツもずいぶん大きい。卒業生の忘れ物を着ているのかもしれない。――もしかしたら、エステバンの服かもしれない。


「気にかけてあげるんだよ、サパタ。お前ならきっと仲良くできるから」


 優しい声が耳朶を打つ。


「……外れもの同士、ってわけか?」


 下唇を噛みしめ、ホセは低い声で囁いた。


「どうして俺がこいつと仲良くしなきゃいけねえんだよ、そんな義理、どこにもねえってのに。こんななよっちい、びくびくした奴! 東洋人ってのは、女の腐ったような連中なんだろ。こんなのと一緒にいたら、俺まで馬鹿にされるじゃねえか!」


 かっと頭に血が上るのがわかった。それまで喉につかえていたものがとれたように、ホセはなめらかに喋り出した。そして、くじいた足の痛みを強烈に意識する。

 イスマエルの目を通して、このいかにも弱々しい少年と同じ場所に分類された、そう肌で感じ取ってしまって、憎らしさがつのった。

 困惑した教師の目に、顔をこわばらせる自分がはっきりと映り込んでいた。怒りは静まらず、いまにも暴れ出したい衝動に駆られた。

 その矢先、背後から「あ」と小さな声が響いた。

 思わず目を向ければ、椅子から身を乗り出したサンセが、じっと床に目を凝らしている。色褪せた緑の絨毯の上では、片側の翅が無残に焼け焦げた、ちいさな白い蛾がのたうち回っていた。


「かわいそう、もう死んでしまうんだ……」


 訛りの強い西語カステジャーノ。声変わりを迎えていない、玻璃のように透き通った声。

 サンセは肉づきの悪い腕を伸ばして、瀕死の蛾を指先でつまんだ。

 明かりにかざすと、蛾がもがき苦しむ様子をただ眺める。その目のうつろさ。ホセは急速に自分の熱が冷えていくのを感じた。

 無言で二人に背を向け、校長室とは反対方向に歩き出す。


「サパタ」


 イスマエルの声にも、振り返らなかった。



 あの少年と関わり合いになるのは、まっぴらごめんだと思った。走って寄宿舎に戻ったホセは、自室の鍵を内側から厳重に閉めて籠城を試みた。空腹を我慢して、着の身着のまま寝床に入る。一度は収まったように思えた苛立ちがふたたび目を覚まし、体の中から少年を蝕んでいく。誰の目を通しても自分は価値のない、尊重される必要もなければ、言葉に耳を傾けられることもない。そんな存在だと判断されている現実が悔しくてたまらない。常にいきどおりが胸の中心に居座っている。

 部屋の前に人の気配を感じても、ホセはシーツをかぶったまま身動きしなかった。

 ドアノブを回そうとする音、扉を叩く音、くぐもった呼び声。無視を決め込んだが、すぐに我慢がならなくなって、跳ね起きて勢いよく扉を開く。

 そして、目の前にあった体を蹴飛ばした。


「――うるせえんだよ!」


 廊下にうずくまったサンセを見下ろし、ホセは叫んだ。

 その怒声にも、周囲の部屋の生徒たちは誰かの他愛もない喧嘩だろうと、就寝前のお喋りに夢中で気にかけた様子もない。それがいっそうホセの孤独感を強めた。


「だって、せんせいが……」


 サンセが言い終えるよりも先に、その襟首を鷲掴みにする。その痩せぎすの少年は、見た目から想像するよりもはるかに軽かった。握った拳を振り上げた矢先、廊下の奥からイスマエルが姿を現す。


「サパタ、やめなさい」


 ホセは奥歯を噛みしめた。


「どうして止めるんだよ!」


 心の底からそう叫んだ。イスマエルは黒い目をすがめ、「この寄宿舎はいつも部屋数が足りないんだから」とあきれたように言った。


「転校生がいるんだ」


 教師の登場によって、野次馬をしに生徒たちが集まりはじめる。それを牽制するイスマエルをよそに、生徒たちはひそひそと小声で会話をした。

 ――「あの子が転校生だって?」「冗談だろ」


「もう就寝時間だ。どうせ明日紹介するんだから、お前たちは部屋に戻りなさい」


 イスマエルは周囲に言いつけると、ホセを振り返り、乱暴にその腕を掴む。暴れ出した彼をサンセから引きずり離すと、低い声で囁いた。


「サパタ。今度は懲罰房行きでは済まないかもしれないよ」


 ホセは声を詰まらせた。掴まれた腕がひどく痛く、無理矢理振り払った。


「俺がこいつに部屋を貸すって言ったわけじゃねえ!」


 小さく舌打ちをして、イスマエルが溜め息をついた。「そうだね、そうとも」それがどんなに軽い調子で放たれた言葉であっても、大人からの肯定に、ホセはようやく怒りの矛を収めることができた。「お前を信頼して任せているんだ」

 うつむいてシャツの裾をぎゅっと掴む。一度下唇をきつく噛みしめると、ホセは無言で自室に戻った。後を追って、もたもたとサンセが部屋に入ってくる。

  

「あ……」


 振り返って睨みつけると、サンセはおずおずと臆病に笑った。


「……そっちのベッドだ」


 部屋の扉を閉めると、ほっとした様子で寝台に座ろうとする少年の肩を掴む。

 そして顔面を殴った。


「……っ」


 ホセは終始無言だった。何を言えばいいのかわからなかった。突然殴られたサンセはわけもわからぬ様子で、切れた唇をなぞった。血が垂れた。

 物言いたげな視線を無視して、ホセは寝床にもぐりこんだ。


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