CHAPTER1 コンキスタドール

(一)

 スコールの雨音にまざって、填め殺しの窓ガラスがひっかかれる音がする。

 おそらくは裏庭に生えた銀合歓ぎんねむの枝葉が強風によって煽られ、叩きつけられているに違いなかった。昨晩咲いたばかりの合歓の花は、この豪雨であとかたもなく散ってしまうだろう。無数のおしべが密集して形づくられる丸い小さな花、あのきよらかな白い花のゆくすえに、ホセは思いをはせる。はらはらと地にこぼれて、泥に混ざって、有機物として溶けていく。

 ホセが息をひそめている物置は、耐えがたいほど蒸し暑い。汗に濡れたシャツは彼のとがった両肩や背骨の輪郭がくっきりとわかるほどに貼りつき、産毛に覆われた頬や、すんなりと伸びた手足はほの赤く上気している。彼は窓から聞こえる音に耳を澄ますだけで、そちらを見ようとはせず、代わりに、瀝青れきせいの闇に浮かび上がる裸電球だけを眺めていた。

 裸電球の明かりは消える寸前だった。フィラメントがオレンジ色に明滅する。目を離した隙にこの電球が完全に切れてしまったなら、何か取り返しのつかないことが起きてしまう気がした。他愛のない想像だったが、一度その考えに取り憑かれてしまうと、どうしても無視することができないのだった。ホセは思い込みが強く、信仰心の篤い子どもだった。


 エル・ノルテ校は、後期課程にあたる高校リセオの準備機関として、四年間にわたる前期課程――中等教育を、おおむね十一歳から十四歳の少年たちに施す場所のひとつだ。都市部の集中する高原地方とは違い、海岸地方コスタは農園と漁業といった一次産業を主体としていて、どこかのんびりとした長閑な空気が漂う場所だった。エル・ノルテ校が設置されているのはなかでもひときわ鄙びた場所で、卒業生からは忘れ去られた場所、と揶揄されるほどだった。コスタの重要な足である船を除けば、自動車など見かけることさえない、いまだに前時代の幌馬車が主要な交通機関として機能する土地だ。

 エル・ノルテ校には国内の各地域から少年たちが集い、その大半が寄宿生を兼ねている。伝統ある修道院を母体として、教師は修道士とそうでない者が半々だった。ホセも十一歳でここに入学した。そもそもの就学率の低い共和国では、前期課程に入るということは、その先の高等学校リセオと大学進学を意味している。野心ある貧困家庭であれば、両親や祖父母があちこちから金をかき集めて、一番優秀な子どもをひとりだけ差し出すような世界だ。ホセは今三年生で、順当に行けば来年には高校を受験する――が、ほとんどその見込みはないと、教師からは匙を投げられている。彼はやっかいな癇癪持ちで、入学以来、起こした暴力沙汰の数は両手でも足りないほどだった。何度も医者に診せられ、その度に診断が変わり、処方薬を用水路に棄ててきた。育ての祖父母は悲しみ、しかし自分たちの手には負えないからと、何度も学校に懇願の手紙を送ってくる。次に何か起こしたら今度こそ矯正施設に送りますから、どうか今回は――。

 今日もまた、ホセは問題を起こして『懲罰房』送りになった。学び舎の片隅、使われなくなったモンテッソーリ教育の器具がしまわれた物置のことだ。仕置き部屋に使われることから、教師からも生徒からもそう呼ばれていた。

 懲罰房に入れられたのは午睡シエスタの時間が終わるころだった。今はもう、夕食の時間をとうに過ぎているだろう。雨は勢いを増す一方だった。ホセは飽きもせず裸電球の明かりを見つめていたが、ある時こちらに近づいてくる足音に気がついた。ドアをこ開けようとする大きな音に、思わず振り返る。

 そこでぷつりと明かりが途絶えた。

 両膝を抱えたまま床に座り込んだホセを、ドアの外から漏れる光が照らした。懲罰房を出た彼が廊下に出ると、どの窓も一面濁っている。排気物質にまみれた汚濁の雨はいつも鈍色にきらめいていた。


「お前も懲りないものだね、サパタ。今月に入ってもう何度目かな、お前がここに入れられるのは」


 教師は物置の南京錠に鍵を差しこみ、錆びついて思うように回らないそれと格闘しながら言った。


(――今週の宿直当番、イスマエルかよ)


 ホセは心の中で毒づきつつも、安堵していた。

 生徒を懲罰房から出すのは、その日の宿直当番を担当する教師と決まっていた。イスマエルは半年前にエル・ノルテ校に赴任した若いメスティソの男で、他の教師ほど学生の躾に熱心でなかった。


「今度は何をしたのやら。お前ほどこの場所に詳しいやつもいないだろうね。他の生徒は悪戯するにしても喧嘩するにしても、もっと要領よくやるもんだよ」


 イスマエルはルター派の新しい高校リセオを出ているせいか、自由でどこかざっくばらんな性格をしていた。エル・ノルテ校に赴任する前は甘蕉かんしょう戦争に急進派の自由党員として関与し、一度は逮捕されたものの内戦終結時、保守党政権の復活を機に恩赦によって釈放されたという異色の経歴も、彼の人格に影響しているのかもしれない。

 ホセは拳を握りしめて、「あいつらが卑怯なんだよ」と小さな声で吐き捨てた。


「それ以上にお前が馬鹿なんだよ。馬鹿だから自分のことしか考えられないんだ。まわりとうまくやる方法を学ぶべきじゃないかな」


 ホセは攻撃的で暴力的な気質な持ち主だ、とよく他人から評される。同級生からの他愛のない挑発に乗りやすいからだった。

 しかしこのとき彼は言い返さなかった。ようやくドアを閉め終えたイスマエルを睨んだだけで、黙って両腕を前に差し出した。『罰』の手錠を外してもらうまでは、自由の身になれないことをよくよく理解していたからだ。


「お前のような子はおかしいよ、俺からしたらね」

 

 イスマエルは手錠の鍵をとろうとベルトに手を伸ばし、「宿直室に忘れてしまった」と顔をしかめる。そして、一緒に行こう、とホセをうながした。

 廊下にはうだるような熱気が充満している。風雨の勢いは衰えず、窓ガラスは今にも割れてしまいそうに打ち震えていた。大きな嵐が来ているようだ。電気系統が乱れたのか、頭上の白熱灯がちかちかと不規則な明滅をくりかえす。くすんだ緑の絨毯が明るくみえたり暗くみえたり、せわしない。

 すたすたと歩くイスマエルの背を、ホセはゆっくりと追いかけながら盗み見た。背中に目はついていないのだから気付かれやしないと思う反面、ある種の後ろめたさがあったから。逆三角形をなす硬い筋肉に覆われた彼の背中は、骨ばかり伸びて脂肪のつかない少年たちとはまったく異質だった。

 

「俺も学生の頃はサパタ先生の演説を聞きに出かけたものだよ。あの人の声ときたらまるで雷鳴のようで、一度聞いたらしばらく耳の中でずっと響いているんだ。そうは思わないかい? 覚えていないかな?」


 振り返ってイスマエルが自分を見たのに、ホセは舌打ちした。


「そいつの話をするんじゃねえよ」


 イスマエルは肩をすくめた。「気に障ったかな」そう薄く笑う。


「どうせ俺は孤児で、野郎とも血は繋がってねえんだし。失望するにしても最初っからお門違いなんだよ」

「そういうつもりじゃなかったんだけどな」


 ホセは強く奥歯を噛みしめた。『父親はあんなに立派なのに、お前ときたら』―――直接口にされることはなくとも、誰もがそうした深い落胆を自分に対して抱いていると知っていた。

 ホセの養父は政治家だった。それも、国民的英雄と呼ばれたほどの。

 かつて、このマタラトン共和国は植民地だった。本国との戦争を経て、周辺国と時期を同じくして独立を達成した。その独立とは当時政治の中枢を担った白人クリオーリョによって達成され、現在に至るまでこの国の政治は彼らの血筋に連なる者によって運営されている。

 ホセの養父は白人ではなく、先住民インディヘナの母と白人の父を持つ混血メスティソだった。白人の政治家が絶対的な権力を誇示するなか、混血としてはじめて党首となり、その知名度は死後の今なお衰えを知らない。

 ――彼の名前は、サバスティアン・サパタ・アラルコン。

 サバスティアンは貧しい小作農や労働者たちの支持を得た人物だった。保守党政権による寡占政治やスト弾圧の批判をおこないながら自由党左派をとりまとめ、国民自由同盟を結成した。彼が党首を務めた国民自由同盟は総選挙で大躍進を遂げたが、志なかばで暗殺されるという悲劇に見舞われた。彼の死は、二大政党間の内戦である甘蕉戦争の遠因となったと言われている。

 悲劇の国民的英雄。その男の名を耳にするたび、ホセは素手で心臓を握り潰されるようだった。彼が殺害されたのはもう十年も昔なのに。


 学舎を出ると、生ぬるい雨粒がホセの全身に叩きつけた。敷石のない小径は水で溢れかえり、歩くたびにぬかるみに足を取られる。

 何とか寄宿舎の裏口にたどりき、宿直室に鍵を取りに行くイスマエルを見送った。ずぶ濡れになったホセは、ドアマットで何度も靴の底を擦りながら彼の帰りを待った。

 宿直室は裏口から入ってすぐだ。エル・ノルテ校の建物は、いずれも植民地時代に一帯を収めた地主の邸宅が寄付され、改築したものを利用している。寄宿舎の上階にある居室は教員が暮らし、玄関口のある一階と半地下には寄宿生たちが暮らす。宿直室があるのは一階だ。二年生までは大部屋、それ以上になると小部屋が与えられ二・三人で共同生活を送っていた。


「宿直室に寄っていくかい」


 鍵を手に戻ったイスマエルからの誘いに、ホセは顔を上げた。その瞬間、教師の癖のある黒髪から滴った水が、首筋のほくろの上を流れるのが目に入った。

 何かよからぬものを見た気になり、とっさに顔を伏せる。その態度を恥ずかしがっていると受け取ったのか、イスマエルは陽気に喋り続けた。


「いつもはこの時間になると、大部屋に行って朗読を聞かせるんだ。でも今はたちの悪い風邪が流行って、お休みをしていてね。ようするに暇を持て余しているんだ。宿直室にはいろんな本があるし、もしかしたら、お前の興味を引くものもあるかもしれない」


 手錠を開けようとする男の手を眺める。血管の浮き出た右手の甲、自分の手を支える濡れた左手の熱……きっとこの教員は自分のことを気にかけている。

 ホセが彼の傾倒する国民的英雄サバスティアンの息子だから。その事実を抜きにして、自分がおとなの関心を引けるとは到底思えない。けれど、もしかしたら……。期待と不安の間で右往左往する。ホセはいつだって、自分の存在が他者の中で必要以上に矮小化され、無視されているという考えに取り憑かれてやまなかった。


「ああ、そうだ。いいものをみせてやろうか」


 ――いいもの?

 不思議な響きだった。ホセの頭をよぎったのは、イスマエルを取り巻く噂のひとつ、彼の体のどこかにあるという銃創だった。地方では未だ私刑や決闘の慣習がなくならず、甘蕉戦争が終わってまだ二・三年というこの時代において、身体的な傷や欠損を負ったひとを往来で見かけることはとりたてて稀有な経験ではないだろう。しかし、この男のチョコレート色の肌に、その傷がどんな形で、どんな感触や色で刻みつけられているのか。興味をそそられた。

 しかし手錠の鍵が外れて床に落ちる音で、ホセは我に返った。


「残念だな」


 とっさにイスマエルの腕を振り払ったホセに対し、彼は薄く笑った。ただの社交辞令で、どんな含意もないと察しながら、目の前の男が本気で惜しんでいることを期待せずにはいられない。ホセはろくすっぽ答えることなく踵を返し、羞恥心に爪弾かれてその場を駆け出した。

 血潮が沸騰したようにからだが熱を持っていた。汗が額を伝い、まばたきに散る。裏口から表の玄関口までたどり着く頃には、さほどの距離もないというのに、全身を酷使したあとのように疲労を感じた。雨に濡れたシャツの裾を握り、深呼吸する。肺にとりこんだ先から空気が逃げていくような気がする。さっさと自室に戻って服を着替えるべきだとはわかっていたが、なかなか次の行動に移れない。触れ合った手の体温を思い起こし、その次の瞬間には自己嫌悪で身動きできなくなる。

 遠巻きに聞こえる生徒たちのお喋り、弦楽器ティプレをかき鳴らして歌う声もまた、ホセの足を重くする要因のひとつだった。自分はどうやっても仲間には入れてもらえない場所。

 薄暗い玄関口で、チカチカと電灯が明滅している。守衛は居眠りしているのか、玄関扉の隣の小部屋から出てくる気配は一向になかった――生徒たちが地元の娘たちと密会しにこそこそと出かけるのは、決まって週末だから。

 消灯時間が近いのか、寄宿舎は徐々に静まりかえっていった。上級生だろうか、声変わり途中の低くかすれた声で誰かが歌う声がかすかに聞こえるだけになり、それも聞こえなくなると、あとには雨音だけが残った。ようやく身動きするだけの気力を取り戻した矢先、ホセの耳に不審な音が届いた。

 玄関の扉を誰かが叩いている。風雨で木の枝のたぐいが飛ばされてきて、偶然そのように聞こえるだけなのか。あるいは無断外出した生徒が居て、雨の中必死に戸を叩いているのだとしたら。守衛が眠りこけているなか放置するのも忍びなくて、ホセは扉まで近づいてかんぬきを抜いた。重い扉を内側にむかって開けば、容赦なく雨水が降りかかった。

 外の暗闇に目を凝らした瞬間―雷の光が射した。一拍遅れて、轟音が響く。

 白々とした光に照らされたのは、ひとの肌だった。

 根腐れを起こした柳が倒れ込むように、ゆっくりと、誰かがホセにむかってくずれ落ちてくる。とっさに支えようとして、足を滑らせ、ふたりもろとも床に転倒した。呆然としたホセの視界に、電灯が点滅する天井が映る。

 ホセの手は誰かの毛髪を掴んでいた。黒い髪が海苔のように、べったりと手のひらに貼りついている。

 騒動を聞きつけたのか、背後から人の足音が響いた。

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