緑の火

黒田八束

CHAPTER0

未来Ⅰ

 あの日、公園は休日を謳歌する市民でごった返していた。


 年に一度の聖霊降臨祭ペンテコステの日。教会の鐘が鳴り、祝砲が打ち鳴らされ、あちこちが砂糖黍焼酎アグアルディエンテで乾杯する声であふれかえっている。公園のいたるところに並ぶ出店、それを冷やかす人の群れ。暴力と抑圧に満ちたコンコルディアという街の抱く歴史のなかでも、格別明るい光を放ったであろう光景の片隅で、あのときの私は必死になってはぐれた母を探していた。


「ルピタ」


 もう母とは永遠に会えないかもしれない、そんな想像を膨らませ半泣きになっていた私に、彼は声をかけた。見慣れた顔に、心底ほっとしたことを憶えている。


「こっちにおいで。エスメラルダとはぐれてしまったんだね」


 雲のようにこんもりと淡紫色の花を咲かせるジャカランダの木の下、初夏だというのに冬場のような厚着をした男が、優しい声で私を手招く。

 このときの私は十歳かそこら。母は舞台女優、祖母は劇場の支配人だった。そして彼は、母と同じ舞台に立つ出演者のひとりだった。初等学校は二部制で、私は午前の部の生徒だったので、月曜日から土曜日まで、その日の授業が終わると家には帰らずまっすぐに劇場に通った。祖母や劇場の従業員たちに面倒をみてもらいながら、母の仕事が終わるのを待っていたのだ。私が彼の舞台を見せてもらえることはなかったが、母と仲がよく、客からもらったお菓子や花をしばしば横流ししてくれた。


「こんな人混みのなかを探しにいくよりも、ここで待っていたほうがいい。エスメラルダもきっとお前のことを探しているだろうからね」


 彼は左手でガラスパールの長いネックレスを握っていた。ロザリオの大珠をいじるように、真珠のひとつひとつを大事に撫でていた。そのときどんな表情をしていたのか、今となってはもうはっきりとは思い出せないけれど。思い詰めた顔をしていた気もするが、正確ではないだろう。単純に記憶というものがどれほど正確に留め置こうとしても、周縁からぼやけていくものであることがひとつ。そして、彼がどんなに人懐っこく笑ったとしても、いつもそのひとみの奥底で屈折した光が見え隠れしていたことがひとつ。彼は孤独に取り巻かれた人物だった。

 私が興味津々でネックレスを見つめていることに気付くと、苦笑して、姉の持ち物だよ、と彼はささやいた。そしてぽつりぽつりと、ぎこちなく語りはじめたのだった。


「姉さんは、俺が十一歳のときに誘拐されてしまって。それ以来、会えていない。見つからなくてよかったと思う」


 彼はお酒さえ入らなければ寡黙な人物だったので、しらふのときに身の上話をしたのはこれきりだったように思う。嘘かほんとうかはわからないけれど。私の驚いた顔に青い目をすがめると、「見つかっても、以前の姉とは別物にちがいなかっただろうから」といった趣旨のことを話した。当時、私にはその意味がよくわからなかった。


「姉さんがいなくなって、母親はすっかり気落ちして――その頃には親父も死んでいたから――何人もいる子どもを連れて、親戚を頼って国外へ。でも、俺は連れて行ってもらえなかった。なんでかな。父方の祖父母に預けられたんだ。もう家族の誰とも連絡はとってないから、今頃どうなってるかは知らない」


 彼は青い空を見上げると、包帯を巻いた片手を日に透かし、まぶしそうに両目を細めた。そして私に、お菓子を買っておいでと小銭を渡した。公園の一角では茉莉花ジャスミンの花束が売られ、そのむこうには氷菓売りの姿があった。

 私は嬉しくなって、お礼を言うとすぐにその場から駆け出した。


 背後から銃声が聞こえたのは、色とりどりの氷菓に目移りしているときだった。最初は祝砲のたぐいだろうと思った。けれども公園の賑やかな空気はにわかに一変して、すぐにただごとでないとわかった。私はアイスクリームをとり落とし、逃げまどう人々の波に押し流されていった。

 幸運にも、私は流されていった先で母と再会することができた。その温かな腕に抱きしめられて緊張の糸が解け、わっとしゃくり上げた。彼のことを思い出したのは、ひとしきり泣いて、母と、迎えにきた母の友人に挟まれて帰路についてからのことだった。


 地方都市コンコルディアで起きた銃乱射事件は、翌日、各社の新聞記事の一面に載った。

 犯人は内戦期、国民自由同盟のために戦った熱心な支持者で、保守党政権下で貧困に喘いでいた。過熱報道のなかで私たちはそう知ることになる。犠牲者は十数名にのぼり、祖母の経営する劇場もひとりの出演者を失った。

 当時の劇場ではよくあることで、誰も彼の本名を知らなかった。私も母も、劇場の従業員も、彼をただ「リマ」とだけ呼んでいた。

 知ってのとおり、この国における二十世紀は、内戦をはじめとした暴力と破壊の連続だった。二大政党の連立政権が樹立するまでの長い混迷の時代、暴力の時代ビオレンシアの波にもまれつづけた。銃乱射事件から数年後、祖母の劇場も法規制の強化と経営難によって廃業することになる。時を同じくして祖母は長くわずらっていた甲状腺腫で死に、私と母も親族を頼ってコンコルディアから海岸地方コスタの片田舎に引っ越すことになった。そのごたごたのなかで、彼の映っている写真や、いつか母に送ってくれた滝の絵葉書も失われてしまった。彼は家族と疎遠だったそうだから、遺品のほとんどが失われてしまったというわけだ。

 しかし彼がどんな人物だったか、私はいつでも人に語って聞かせることができる。


 右手が潰れていて、体中に煙草の火傷があった。酔っ払うと身の上話をする癖があったが、誰もかも相手にしなかった。たとえばこんなふうに――〝こう見えて俺は国民的英雄の息子なんだ〟。

 つまり彼の身の上話は嘘と虚勢に満ちていたのだ。陰気な女装家リマの数少ないユーモアだったのだと、いつか母が懐かしんで言ったことがある。いずれにしろ、彼の半生はとるにたらないものであって、語り継がれるほどのものではなかったはずだ。


 大抵のひとがそうであるように。



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