2—2
真っ白な柔らかな毛に、黒い丸い瞳でじっとこちらを見つめるマルチーズ。
普通の人間が見たら、ぬいぐるみのように可愛らしい犬なのだけど、友野の目にはそう映っていなかった。
よく手入れのされた、綺麗な毛並みなのだがひどく
悪い物に触れたのか……
悪い物が近くにあるのか……
マルチーズの周りにある空気が歪んでいるように見えたのだ。
もしかしたら、この犬自体が悪い物なのかもしれない。
だが、こんなものを見たのは初めてで、何が悪いのかわからなかった。
とにかく、これは普通の犬ではない。
江中の方もそうだ。
一方的にペラペラと話しているが、目が異常だ。
口も止まらないが、瞬きをほとんどしていない。
精神的に問題があるか、何かから悪い影響を受けている————そんな気がしてならなかった。
「それもこれもね、全部あの魔女のせいだって話よ。もう子供達もみんな怖がっちゃってねぇ。早く出ていって欲しいわよねぇ、気味が悪いわよね。それに、お向かいのマンションで聞いた話だけど、あの魔女の部屋は夜の間ずっと電気がついてるんですって。遅くまでずっとよ? あと、そこの奥さんが————」
しかし考えている間にも、友野の空腹による不快感が続いている。
それが何かを判断しようにも、空腹が勝ってしまって集中できなかった。
腹がすきすぎて胃が痛い。
さっさとそこを退いてくれないだろうかと思っていると、江中の肩が後ろから叩かれる。
「江中さん、邪魔だよ。何してるんだいこんなところで」
頭頂部の髪が綺麗にない、禿げた男がそう言うと、江中は正気を取り戻したようにハッとする。
「あ、あらやだ! 私ったら……ごめんなさいね。邪魔だったわねぇはははは……」
江中は笑ってごまかしていたが、東の後ろに渚がいたことに気がついて、一言も喋らなくなった。
それどころか恨めしそうな目で、渚を睨みつけていた。
* * *
「————ここだけの話なんですけどね」
エレベーターの前で江中に捕まっていた友野たちを助けたのは、管理人だった。
あまりに一方的に話し続ける江中に呆れて、助けてくれたのだ。
管理人室に引き入れてくれたおかげか、ずっと渚を睨んでいた江中は自分の部屋へ戻って行った。
「あの人……204号の江中さんにもね、正直困ってるんですよ。あの人、目に入った人みんなに話しかけるんでね。どこから仕入れてくるのか、誰かから聞いた住人の個人的な話とか、噂とかそうしてすぐ広めちゃうんで」
管理人はまだかろうじて髪が残っている後頭部を掻きながら、江中のことを口にする。
「いろいろな情報が聞けるので、まぁ役に立つこともあるといえばあるんですけどね……度が過ぎることもありましてね。それに、このマンションの住人ならまだわかるけど、宅配の人とか、新聞配達の人とか、関係のない部外者まで引き止めるもんで……旦那さんはすごくおとなしい人なんだけど、その反動かなぁ?」
江中がペラペラと外部者に余計なことまで話すせいで、空いている部屋の買い手が見つからないのだとか。
不動産会社でも困っているのだという。
「旦那さんに言ってやめてもらえばいいじゃないですか」
渚がそう言ったが、管理人は困った顔をしていた。
「いやーそれがね、ここしばらく会ってないんですよ。三年くらい前に旦那さん定年退職してね、それまでは毎朝顔を合わせてたんだけど……最後に会ったのいつだったかなぁ」
「そうなんですか? でもまぁ、あれだけすごく喋る人なら、旦那さんも強く言えないのかもしれないですね……」
会ったこともない江中の旦那が可哀想に思えてしまう。
むしろ、一方的に喋られるからもう話すのを諦めてるのかもしれない。
「あ……」
盛大に友野の腹の虫が狭い管理人室に鳴り響いた。
恥ずかしいくらい大きな音だった。
「おや、お腹空いてるんですか? 海苔せんべいくらいしかないけど、食べます?」
「い、いえ、大丈夫です。コンビニ行くんで……」
友野たちは礼を言って管理人室を出ると、ようやく近くのコンビニに行くことができた。
もう友野の空腹は限界まできていて、レジ横の唐揚げ棒を頬張りながらマンションへの道を歩いていた。
もし霊や妖怪と対峙することがあれば、空腹の友野はまるで役に立たないだろう。
力を使うと、通常時より腹が空くのだ。
マンションへ戻ってきて、改めて黒い手が伸びている104号室の前を、友野は横目で見ると、あの黒い手が、一本増えているような気がした。
「……東警部補、もしかして、ここで事故を起こした運転手————」
友野が今朝見た時は、三本だったはず。
それが、今は四本。
地面から生えたソレが、うねうねと、ゆらゆらと、空に向かって伸びて揺れている。
「————亡くなりました?」
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