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 真っ白な柔らかな毛に、黒い丸い瞳でじっとこちらを見つめるマルチーズ。

 普通の人間が見たら、ぬいぐるみのように可愛らしい犬なのだけど、友野の目にはそう映っていなかった。


 よく手入れのされた、綺麗な毛並みなのだがひどくけがれている。

 悪い物に触れたのか……

 悪い物が近くにあるのか……

 マルチーズの周りにある空気が歪んでいるように見えたのだ。


 もしかしたら、この犬自体が悪い物なのかもしれない。

 だが、こんなものを見たのは初めてで、何が悪いのかわからなかった。

 とにかく、これは普通の犬ではない。


 江中の方もそうだ。

 一方的にペラペラと話しているが、目が異常だ。

 口も止まらないが、瞬きをほとんどしていない。

 精神的に問題があるか、何かから悪い影響を受けている————そんな気がしてならなかった。


「それもこれもね、全部あの魔女のせいだって話よ。もう子供達もみんな怖がっちゃってねぇ。早く出ていって欲しいわよねぇ、気味が悪いわよね。それに、お向かいのマンションで聞いた話だけど、あの魔女の部屋は夜の間ずっと電気がついてるんですって。遅くまでずっとよ? あと、そこの奥さんが————」


 しかし考えている間にも、友野の空腹による不快感が続いている。

 それが何かを判断しようにも、空腹が勝ってしまって集中できなかった。

 腹がすきすぎて胃が痛い。


 さっさとそこを退いてくれないだろうかと思っていると、江中の肩が後ろから叩かれる。


「江中さん、邪魔だよ。何してるんだいこんなところで」


 頭頂部の髪が綺麗にない、禿げた男がそう言うと、江中は正気を取り戻したようにハッとする。


「あ、あらやだ! 私ったら……ごめんなさいね。邪魔だったわねぇはははは……」


 江中は笑ってごまかしていたが、東の後ろに渚がいたことに気がついて、一言も喋らなくなった。

 それどころか恨めしそうな目で、渚を睨みつけていた。




 * * *




「————ここだけの話なんですけどね」


 エレベーターの前で江中に捕まっていた友野たちを助けたのは、管理人だった。

 あまりに一方的に話し続ける江中に呆れて、助けてくれたのだ。

 管理人室に引き入れてくれたおかげか、ずっと渚を睨んでいた江中は自分の部屋へ戻って行った。


「あの人……204号の江中さんにもね、正直困ってるんですよ。あの人、目に入った人みんなに話しかけるんでね。どこから仕入れてくるのか、誰かから聞いた住人の個人的な話とか、噂とかそうしてすぐ広めちゃうんで」


 管理人はまだかろうじて髪が残っている後頭部を掻きながら、江中のことを口にする。


「いろいろな情報が聞けるので、まぁ役に立つこともあるといえばあるんですけどね……度が過ぎることもありましてね。それに、このマンションの住人ならまだわかるけど、宅配の人とか、新聞配達の人とか、関係のない部外者まで引き止めるもんで……旦那さんはすごくおとなしい人なんだけど、その反動かなぁ?」


 江中がペラペラと外部者に余計なことまで話すせいで、空いている部屋の買い手が見つからないのだとか。

 不動産会社でも困っているのだという。


「旦那さんに言ってやめてもらえばいいじゃないですか」


 渚がそう言ったが、管理人は困った顔をしていた。


「いやーそれがね、ここしばらく会ってないんですよ。三年くらい前に旦那さん定年退職してね、それまでは毎朝顔を合わせてたんだけど……最後に会ったのいつだったかなぁ」

「そうなんですか? でもまぁ、あれだけすごく喋る人なら、旦那さんも強く言えないのかもしれないですね……」


 会ったこともない江中の旦那が可哀想に思えてしまう。

 むしろ、一方的に喋られるからもう話すのを諦めてるのかもしれない。


「あ……」


 盛大に友野の腹の虫が狭い管理人室に鳴り響いた。

 恥ずかしいくらい大きな音だった。


「おや、お腹空いてるんですか? 海苔せんべいくらいしかないけど、食べます?」

「い、いえ、大丈夫です。コンビニ行くんで……」


 友野たちは礼を言って管理人室を出ると、ようやく近くのコンビニに行くことができた。

 もう友野の空腹は限界まできていて、レジ横の唐揚げ棒を頬張りながらマンションへの道を歩いていた。

 もし霊や妖怪と対峙することがあれば、空腹の友野はまるで役に立たないだろう。

 力を使うと、通常時より腹が空くのだ。


 マンションへ戻ってきて、改めて黒い手が伸びている104号室の前を、友野は横目で見ると、あの黒い手が、一本増えているような気がした。


「……東警部補、もしかして、ここで事故を起こした運転手————」


 友野が今朝見た時は、三本だったはず。

 それが、今は四本。

 地面から生えたソレが、うねうねと、ゆらゆらと、空に向かって伸びて揺れている。


「————亡くなりました?」



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