2—2


 猿の声は、決して耳障りの良いものではない。

 割れたような不快な声に、友野は気分が悪くなる……


「妻の麗美と申します。すみません、体調がなくて、お客様のお出迎えもできず……」

「いえいえ、お気になさらずに……」


 猿の姿も声も聞こえていない佳乃は、弱々しく頭を下げる麗美に無理はしなくていいと気を使った。

 それより、麗美の見た目が予想外に若いことに驚いている。

 何かしらの病を患っていて体が細いのだろうが、中年の樹の妻にしては若く、親子と言われてもおかしくないくらいだ。

 駆け落ちしたとは聞いていたが、ここまで年齢に差があるとは思っていなかった。


「樹から聞きましたが、宿泊予定だった場所が燃えてしまったそうですね……ろくな用意もできていないところで、何かとご不便なところもあるかと思いますが、どうぞおくつろぎください」


 麗美は消え入りそうな声でそういって微笑んだが、猿は麗美よりも大きな声で彼女の心の声を代弁する。


《早く帰ってくれないかしら……まだあれの処理が済んでいないのに————》


「それで、友野先生、妻に————麗美に何か憑いているのは見えますか?」

「あなた……まだそんなこと言ってるの? もう、やめてよ、何もないわよ」

「でも、やっぱり聞いてみないと……君の体調が悪いのは、きっと何か悪いものに取り憑かれているとしか……僕は心配なんだ」


《何が心配よ。嘘つき……あぁもういらない。全部全部いらない》


 猿のせいで、会話が噛み合わない。

 友野の気分だけが悪くなる一方だった。

 あれがなんだかわからなければ、対処のしようもないと友野は一旦立ち上がり————


「すみません、お手洗いはどちらですか?」

「廊下を出て右側の突き当たりです」


 逃げるようにリビングから出た。


《いらない。もう何もかもいらない。邪魔するな》




 * * *




 猿の声は、廊下に出てリビングから離れてもまだ友野耳に届いていたが、言われた通り右に曲がり、突き当たりのドアを目指している途中で突然フッと消える。


「なんだ……? 距離的な問題か?」


 声だけでなく、なんとなく体も軽くなったような気さえしてくる。

 脳に語りかけるように響いていた猿の声が、聞こえないとこんなにも清々しい気分になるとは……なんだか解放されたような気分だった。


「……って、あ?」


 トイレのドアノブに手をかけようとしたところで、何かが友野の視界の端に入る。

 すぐ真横の別の部屋のドアに、顔があった。

 割と整った顔の若い男の霊だ。


 ホストでもやっていそうな感じの顔だけが木製の茶色のドアから浮き出ている。

 まるで、自分がここにいると知らせているようだった。


 民宿には、友野たち以外に客はいないはず。

 以前この部屋を利用した客の残留思念だろうかと、友野はその部屋のドアを開けて確認しようとした。


 だが、鍵がかかっていて開きそうもない。

 試しにノックをしてみたが、反応は何もなし。


 しかし、ここにいると、若い男の霊は訴えかけれくる。

 助けてくれと。

 ここから出してくれと。


「出してくれと……言われても……」


 鍵のかかったドアをどうやって開けろと言うのか。

 どうしようか友野は悩む。

 残留思念の場合、生き霊の可能性もあるが、この状況は、それよりもアレがある可能性がすごく高い。

 もし、本当にアレがあった場合、とても厄介だと思った。


「おい、どうした? 友野。トイレは突き当たりのドアだろ?」

「あ、東警部補……」


 東は樹夫妻の惚気話が始まり、なんだか聞いてられなくなりトイレに行こうと廊下を歩いていると、数分前に先を行ったはずの友野がドアの前を行ったりきたり、急に止まったりしているのを見て声をかけたのだ。

 パッと見てよくわからない行動をしている時の友野は、何か自分には見えないものを見ているのだろうと理解していた。


「だから、今日は非番だから警部補はやめてくれ……その部屋に何かあるのか?」


 友野は、ホスト風の若い男の霊が見えると東に話した。


「ホスト風の男……?」

「多分ですけど、死体があります」


 もし、この部屋に死体があるのなら、友野たちは猿の妖怪らしきものだけではなく、この死体と一夜を過ごすことになる。

 さらには、その殺人犯と一夜をともにしなければならない————と言うことだ。


 友野は面倒ごとはできれば避けたい。

 ただでさえ、あの猿のせいで妙に疲弊しているし、今更この民宿以外で寝泊まりなどできない。

 外は窓に打ち付ける雨はまだまだ止む気配がなく、何度も雷鳴が聞こえるような悪天候なのだから。


「……なんだと?」


 だが、非番とはいえ、東は刑事。

 犯人をこのまま放置なんてできるわけがなかった。


「樹さんに言って、鍵を————いや、しかし、他に客がいるだなんて話していなかったな……」


 中にある死体を確認していないためわからないが、外部犯の仕業でなければ樹の可能性がある。


「とにかく、部屋の中を確認するしかないか……友野、お前この部屋の窓の前で待ってろ」

「え……?」


 東は死体があるであろう部屋の隣のドアを開けて電気をつけると、そう言って雨の中外に出た。



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