第二章 猿真似

2—1


 最初から叶わない願いだったのかもしれない。

 私が望んだ幸せは……

 夢に描いた幸せが、偽りだったなんて……


 彼は私をあのい小さな世界から連れ出して、あの家から連れ出してくれた。

 守られてばかりで、何も知らなかった私に、新しい世界を、幸せを教えてくれたのに……


 全部嘘だったの?

 私には、どうしたってできないことだったの?


 何度問いかけても、もう、彼は何も答えてはくれない。

 あんなにも、身を焦がすほどに恋い焦がれたものは、全部偽りだったのね……


 彼は何も答えてはくれない。

《そうだよ。俺はお前を愛してなんていなかった》


 彼は何も答えてはくれない。

《そうだよ。バカなお前は俺に騙されたんだ》


 彼は何も答えてはくれない。

《そうだよ。愛なんて全部偽りさ》


 彼は何も答えてはくれない。

《そうだよ。俺はただ、真似をしただけさ》


 彼は何も答えてはくれない。

《まるで、心の底から君を愛しているような男の演技をしただけさ》


 あの猿が、彼の代わりに全部答える。


 代わりに、真実を教えてくれた。

 それは残酷で、とても醜い真実。


《金さえ手に入れば、それでいい。そのためなら、俺はどんな男にだってなれるのさ》

《どうやって殺そうか》

《できるだけ、誰にもバレないように殺さないとな》


 私は殺されるの?

 彼に殺されるの?

 この男に、私は殺されるの?


 そんなの嫌。

 お願い。

 誰か、誰か、誰か、誰か、私が殺される前に————

 この男を————……


「……どうした? 最近変だぞ?」



《————殺して》



「麗美……?」



《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》

《殺さなきゃ》





 ◆ ◇ ◆




 猿のような何かを背負った女を見て、すぐに樹は駆け寄った。

 今にも倒れそうなほど、その女は具合が悪そうだ。

 ふらついているようにも見える。

 立っているのがやっとのようにも見える女の体を支えようと、樹は肩に手を回した。

 彼のその行動で、友野は気がつく。


「出歩いて大丈夫なのか? 今日も顔色が……」


 樹には、この猿のような何かは見えていない。


「大丈夫よ……それより————見えるってなに? 見える人ってなに? 何が見えるの?」

「とにかく、座ろう。立っているのは辛いだろう」


 樹に支えられながら、女は椅子に腰掛ける。

 その間も、あの大きな丸い目はじっと友野から視線を逸らさなかった。


《見える? 見える? 見えてる? 聞こえてる?》


 猿の口が動く。

 猿が喋っているなんてありえない。

 だが、まるで人間のように猿は流暢に言葉を発している。


「……先生? どうしました?」

「……どうって、あれは————……」


 友野には女におぶさっているあれが気になって仕方がない。

 だが、樹だけではなく渚も東も、もちろん佳乃も……あの奇妙な生き物を認識できていないのだ。

 見えていない四人には、友野がじっと女を見つめているようにしか見えない。


「大丈夫かい?」

「ええ、立っているよりわましね……それで、この人たちは? 見えるって、なんの話?」

「ほら、お医者さんに診てもらっても何もわからなかっただろう? だから……君が妖怪に取り憑かれているんじゃないかって————あの時の君が言ってた入江の——……」

「何よそれ、バカなこと言わないで」


 女は具合の悪そうな顔色で、無理やり口角を上げて笑顔を作って言った。


「妖怪なんて、いるわけないでしょう? あれは見間違いだったのよ」


 その口角を、猿はおぶさったまま手を伸ばし、指でいたずらにつつく。

 そうしてまた喋った。


《見えるわけないわ。私にしか見えないんだから。この猿は……見えるはずない。今まで誰にも見えていなかったんだから。嘘つき。男なんてみんな嘘つきよ》


 猿はまるで女の心の声を代弁するかのようだった。

 女の右頬にぴったりと自分の頬をくっつけて、パクパクと口を動かす。

 大きな丸い目で、友野の様子を伺いながら人の言葉をペラペラと喋った————







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