岩張の猿

第一章 見ざる聞かざる言わざる

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 あの小さな世界から、彼は私を連れ出してくれた。

 綺麗で、清潔で、上等で、純粋なものしかない世界。

 痛いも、汚いも、辛いも、苦しいもない、ただ美しく、穏やかで、安らかで、なんの変化もない世界から。


 それは、他人から見たら羨ましい世界だったのかもしれない。

 優しい世界だったのかもしれない。

 望まれた世界だったのかもしれない。


 でもそれは、痛みを知って、汚れを知っているからこそ、本当に美しいと思える世界だった。

 ずっとあの世界の中にいたら、私は何一つ本当の価値さえわからずに一生を終えていたかも知れない。


 彼は私に、その気づきを与えてくれた。

 何も知らなかった私に、痛みと苦しみを教えてくれた。

 心の底から愛していた。

 彼がいるなら、私はそれだけでいいと思った。

 他にはないもいらない。


 だから何もかも捨てて、私は彼を選んだ。

 彼が言った通り、あの家を出た。

 街を出た。


 そうして、この島で……

 私のことを誰も知らないこの島で、彼と新しい生活を始めたの。

 彼がいるなら、私はなんだってできるって————そう思ってた。


 と目が合うまでは。


《何が愛だよ、バカな女》

《これだから箱入り娘は……何にも知らねぇし、使えねぇ》

《何をどうしたらこんな不味い飯になるんだよ。クソだな》

《どうやって殺そうか? めんどくせぇな……でもまぁ、これも全部保険金の為だ》


「や……やめて」

「……ん? どうした麗美れみ。蜜柑は好きじゃなかった?」

「…………蜜柑は好き……だけど…………そうじゃなくて——……」


《せっかく俺が買ってきてやったのに、なんだっていうんだ。はっきりしろよ》


「どうしたんだ? 顔色も良くないし……慌てなくていい、ゆっくりでいいから話してごらん?」

「それは……その——……」


《早くしろよ。めんどくせぇな》


「……——っ!!」


 私の顔を見る、彼の表情は何一ついつもと変わらないなのに、あれがそんなことを言う。

 まるで、それが彼の心の声のように思えてしまう。


《ブス》


「……なんでもないわ。大丈夫」


 言えない。

 言えない。


 おかしなが、ニヤニヤと笑いながら私に話しかけるのよ。

 まるで、私をバカにしたような、人間のような表情で————


 ペラペラとペラペラとペラペラとペラペラと、知りたくなかった言葉を、聞きたくない言葉をペラペラペラペラペラペラペラペラペラペラペラペラペラペラと……


 私以外の誰にも見えない猿。

 私以外の誰にも聞こえない猿の声。


 あぁ、もうどうしたらいいの?

 誰も信じてくれないの。


 あんなものが見えるなんて、猿の声が聞こえるなんて、言えない。

 言っても信じてはもらえない。



《ああ、早く死んでくれないかなぁ……》






 ◆ ◇ ◆





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