終章 迷える子羊

3—1


 渚ちゃんに依頼してから、一週間経った。

 その間、羊の呪いは日に日に酷くなっている。

 怖くて怖くてたまらない。

 これはきっと、未来が苦しんでいたのと同じ気持ちなんだ。


 本当、つくづく自分が情けなく思う。

 どうしてあの時、話をちゃんと聞いてあげなかったんだろう。

 自分の姿が羊に見えるなんて、そんなことありえない、なんの冗談だ、気のせいだ……なんて、軽々しく言ってしまった自分を恨んだ。


 鏡に映る自分の姿が、羊に見える回数も多くなった。

 ふと自分の腕を見たときに、羊のような毛がもさもさと生えているように見えたこともある。

 徐々に自分の体が、人間ではなくなっていく。

 自分の体が自分のものではなくなっていく感覚が、日に日に増して……


 でも、誰も信じてはくれない。

 未来は一人でどれだけ悩んだだろう。

 悩んで苦しんで、すがる思いで神代に話を聞きに言って……解決したって喜んでいたのに……


 そういえば、あのとき貰ったっていっていた札……今はどこにあるんだろう?

 あれを貰ってから何日かは、未来は羊の話をしなかった。

 もしかしたら、あの札があれば、私もこの羊から逃れられるのかもしれない……


 あの札があれば…………

 あの札があれば…………


 ほんの一瞬だって構わない。

 とにかく私はもう、この苦しみから耐えられなくなっていた。

 だから、行ったの。

 未来の家へ。


 あの札を手に入れたら、未来から私へ移ったこの呪いを避けることができるんじゃないかって、ほんの少しの希望を持って……


 でも……まさかそこで————

 あんなものを見てしまうなんて、思わなかった。




 ◇ ◇ ◇



 ミクが住んでいたマンションの一室は、鍵を持っていなくても、暗証番号を入力すれば入ることができる。

 メンバーはもちろん、マネージャーならその番号を知っている。

 アイドルという職業柄、早朝だったり、夜中に出発したりするためお互いに迎えに行き来することも多いのだ。


 ジュリももちろん番号を知っていたし、警察の現場検証はすでに終わっている。

 今なら、ミクの部屋には誰もいない。

 そう思って、ジュリは一人でミクの持っていた金色の札を手に入れようとその部屋に入った。


 神代からもらった札さえ手に入れば、それでいい。

 試してみたいだけ……と、誰もいないはずのミクの部屋に。


 悪いことだとわかっていたが、ジュリはもうそれにすがるしかなかった。

 あの呪いの儀式のせいでこうなって、神代を恨んでいる今、直接自ら彼に会いに行こうだなんて怖くてできない。

 けれど、札があるなら……

 それで少しでもこの恐怖から逃れられぬのならと……


 玄関の大きな姿見にかけられた布を見て、あれだけ自分の容姿に自信のあったミクが、自分の姿を鏡に映すのを避けていたのだとジュリは察する。

 今ならわかる。

 羊になった自分の姿なんて、見ていられない。


 渚ならこの呪いをなんとかしてくれるかもしれないと依頼したが、あれからもう一週間も経っているのに、どうすることもできないもどかしさから、こんな盗人のような行動を取ってしまっていた。


 家事は家政婦が行なっていたため、部屋の中は綺麗に整理整頓されている。

 金色の札さえ手にすれば、すぐに帰るつもりでいたジュリには探しやすい部屋だった。

 それに、ミクとの付き合いは長い。

 彼女が大切なものは常にベッドの枕元に置いておく習性があることを、ジュリは知っていた。


 しかし、寝室に入ろうとした時、玄関の鍵が解除された電子音が聞こえる。

 誰かが、この部屋へ入って来る。

 ジュリは慌てて、寝室のクローゼットの中に隠れた。


 ブラインド調のクローゼットのドアは、内側から外の様子が見える。

 息を殺して、誰が入って来たのか確認すると、それはボディーガードの二人だった。

 ストーカーの事件があった後、会社で雇った屈強な男たちだ。


 ミクが死んでしまって、もうこの二人の仕事は終わっている。

 それなのに、二人はためらいもなく部屋の中を歩き回る。


 まさか泥棒なのかとジュリはクローゼットを開けられないことを願いながら様子を見ていると、二人の男は売ればお金になりそうな壁の絵画や家電、ゲーム機なんかには一切手を触れない。

 その代わり、枕が変わると眠れないミクがいつも持ち歩いている使い古された小さな枕とドレッサーの上から口紅やリップブラシなどを取って丁寧にジップロックに詰めていった。



「あとは、洗面所か?」

「あぁ、家政婦が洗濯してなければいいんだが……」

「洗濯前の下着なんて、いったい何に使うんだ?」

「さぁな、あの方のお考えは俺たちにはわからない。きっと素晴らしいことにお使いになるのだろう」

「そうだな。あの方は素晴らしいことしかなさらないから……」


 そう言って男たちは寝室を出て、洗面所の方へ行った後、何事もなかったようにマンションから出て行った。


「…………気持ち悪い。なんなの?」


 男たちがいなくなってから、クローゼットを抜け出して、ジュリは洗面所へ向かうと、洗濯機の前にあった洗濯前の衣類カゴが倒されているのを確認する。

 そして、洗面台の上に普通あるはずの歯ブラシやコップもないことに気づき、吐き気がした。


 何に使うのか、想像しただけでも気持ちが悪い。

 それと同時に、ある仮説が頭をよぎる。


「あの方……素晴らしい……って、まさか————」



 それはまるで、神代のことを指しているよに思えたのだ。

 そう思ったとき、ジュリのスマホに渚から連絡が入る。


《呪いを解く方法がわかった》と——————




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