2—5


 社長室の床に、友野が書いた印がある。

 落書きのようにしか見えないが、即席の結界だと聞いていた丘山は、その印を間違って踏まないように気をつけながら、自分の席に座った。


 社長室に誰も入れてはならないため、事前に給湯室で入れてもらったお茶が入ったマグカップを机の上に置き、次に最近は逢坂に預けるようにしていたスマートフォンをポケットから取り出して、見やすい位置に置く。

 流石にここに置いておけば、なくすこともないだろうと思いながら、パソコンを立ち上げて電源が入るのを待った。

 椅子に深く腰掛けながら、お茶を一口飲んで、常備してあるお気に入りのチョコレートを一粒頬張る。

 本来なら、キャンディーのように一つ一つ包まれているチョコレートなのだが、左手しか使えないのは不便だろうと逢坂が包み紙を全部外して、食べやすくしてありとても便利だった。


「ん……?」


 電源が入り、残っている仕事を片付けようと、書類を読んでいた最中、丘山は不思議な感覚に包まれる。

 いつもと変わらない、自分の机と椅子に座っているはずなのに、なんだかとても居心地がいい。


「これのおかげか……?」


 その時、ふと目に入ったのは、友野が床に書いた落書きのような印。

 いつもと違うことといえば、この印があることぐらいだというのに、妙に体が軽くなったような……そんな感じがしたのだ。

 まだ呪い返しとやらの時間ではないはずだが、きっと助けてもらえるということがわかって、安心しているのだろう……

 そう思うと、まるで緊張の糸が切れたかのように丘山は急激な睡魔に襲われて、椅子にもたれかかったまま眠ってしまった。

 金縛りにあうこともなく、久しぶりにぐっすりと……




 ————カチャ……


 そのわずか数分後、誰かがそっとドアを開けて社長室の中へ入ってくる。

 社長室への入室を、禁じているというのに……

 時刻はまだ午後五時を過ぎたばかり。

 定時の六時を過ぎてはいないため、社員たちはまだ帰っていない。

 一階の店舗もまだ営業時間内で、閉店の七時までは時間があり、そこで働くパート社員だって……


 そんな中、堂々と、入ってはいけない社長室の中に……


「若社長……」


 それは年配の男性社員だった。

 彼は丘山が眠っているのを確認すると、手招きでドアの向こう側にいる他の社員を呼ぶ。


 ぞろぞろと六人の社員が社長室の中に。

 彼れは皆、丘山が生まれる前からこの丘山酒造で働く年配の社員たちだ。

 中には、重役もいる。


「どうする……とりあえず、縛り付けるか」

「そうだな、今起きても困る……いくら右手が使えないとはいえ、抵抗されて若い奴らに気づかれては厄介だ」

「いや待て、そんなことをしたら跡が残るんじゃないか?」

「……もう少しで呪い殺せるはずだったのに……」

「仕方がないだろう? もし、本当に呪いが返されるのなら俺たち全員の命が危ないんだ……」

「でも、どうやって?」

「どうって、何を?」

「警察に疑われないようにするには、毒物とか?」

「それこそ、疑われるだろう……? いくら俺たちが結託しているとはいえ、入手先から割り出されるかも……」

「自然に死んでくれれば、どれだけ楽だったか……」

「相談している時間はない。早く決めよう」

「どうやって殺す?」

「どう殺す?」

「早く、早く、殺してしまおう」

「そうだ、そうだ……呪い返しにあう前に————」



 眠る丘山の目の前で、自分をどう殺すかで揉めている。

 彼らは皆、丘山酒造の重鎮で、歴史と伝統を守ってきたはずの腹心たちだった————



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