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 □ □ □


 蝶子は震えながらガラス戸の鍵を開け、電気をつける。

 誰もいない……商品の古時計の秒針の音だけが響く店内を駆け抜けて、あの絵が置いてある部屋の前に立った。


「な……何よこれ……」


 その時、あの日見えていなかった黒い空気が、今は目にも映る。

 ドアの隙間から黒い空気が漏れ出して、息苦しさを感じた。

 恐怖から呼吸が乱れているのだ。


「落ち着きなさい、私。これ以上、私のビルで幽霊なんかに好き勝手させるわけにはいかないわ——……!!」


 呼吸を落ち着かせて、蝶子はドアノブをひねり、勢いよく開けると一目散にあの畳と椅子の絵を手に取った。

 絵が入っている大きな額縁は、女性が一人で持ち上げるには少し重い。

 それでも、必死に持ち上げて、一階へ戻ろうと階段を一段登ったところで降りて来た強面の男と目があった。


「おっ!?」

「刑事さん!!!?」


 東が小宮吾郎と骨董品店へ向かっていたのだ。

 あの銀一匁の藩札がこの骨董品店のものではないかと調べるためだった。


「な、なんだ? あんたその絵、一体どうする気だ!?」


 東は驚いて聞いたが、蝶子は質問に全く答えず絵を東に渡した。


「これを持って、私の店に!! 早く!!」

「は!?」

「犯人を捕まえに来たんでしょう!!? あの女は今、私の店にいるわ!!」


 東は訳がわからなかったが、蝶子があまりに必死だった為とりあえず言われた通りに持って階段を上がると、遅れて来た南川が真っ青な顔でスナックの入り口の前に……


「あ、東さん!!! やばいっす!! 幽霊が…………幽霊がいます!!!!」




 □ □ □



 友野はテーブルの上の紙ナプキンを一枚取ると、客が注文したが手付かずのまま置かれたフライドポテトのケチャップの器に指を突っ込んだ。

 指で封印と書いて、別の席の食べかけのおにぎりから米粒を取り裏に貼った。

 即席で封印の札を作ったのだ。


「お、おい! 一体どうなっているんだ、友野!!」


 絵を持って店の入り口に立っていた東に気がついて、友野は叫んだ。


「東警部補!! その絵をアレに近づけて!! いや、むしろアレの体に当てて!!」

「は!?」

「早く!!!」

「……一体、なんなんだ」


 東は戸惑いながら、絵を正面に向けたまま花太夫に近づくと、額縁がガタガタと小刻みに揺れ始めた。

 絵が近づいていることに気づいた花太夫が振り返った時には表面のガラスに背中が触れている。


「どうしてここに————!!」


 黒い空気に引っ張られるように、花太夫の体が額縁の中へ入ってしまった。


「な、なんだ!? 一体どうなって……」


 その瞬間を間近で見ていた東は驚いたが、説明する暇もなく、友野は東の腕の隙間から無理やり即席の札を額縁にの裏側に貼り付ける。


 ————ドンドンドンッ


 絵の中に戻った花太夫が、正面のガラスを叩き続ける。

 ここから出せと中から叩いている。


 ————ドンドンドンッ

 ————ドンドンドンドンドンドンッ


 額縁が激しく揺れて、東は落としてしまいそうだった。


「絶対に放さないでください!! 札が剥がれたら、また人が死にますよ!?」

「な……っ!? くそ……動くな!!! 南川!! お前もぼーっとしてないで手伝え!!」

「は、はい!!」


 怯えながらも南川は東を手伝い、暴れる額縁を必死に押さえた。


 ————ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン



 友野が深く息を吸い、胸の前で両手を合わせる。

 そして、経のような、祝詞のような……どちらとも取れる言葉を早口で唱え始めた。


 ————ドンドンドンドンドンドントントン…………トン……ト………………



「と、止まった?」


 南川が絵を覗き込むと、畳の上に置かれた椅子の上に腰掛ける遊女の絵になっている。

 ガラスを叩いて、絵の中で動いていた花太夫の姿は、ただの絵に戻っていた。


 幽霊騒動が解決したのだと、蝶子もほっとする。

 安心して緊張が解けたのか、腰が抜けたように座り込んだ。

 すっかり酔いが覚めてしまった秋山も、真っ青な顔でその絵を見つめていた。


「え、もう動かないんですか!? 私まだちゃんと見れてないのに……!!」

「いや、ナギちゃん!! 緊急事態だったんだから、そういうこと言わないの!!」


 なんとか封じることができたようで、友野もほっとして全身の力が抜け始める……


「あ、やばい……」


 力を使いすぎたようだ。

 意識がなくなる前に……言わなければと、必死に口を動かした。


「ナギちゃん……即席の封印だから、俺が起きるまで誰の目にも触れないように大きな布で覆っておいて」

「わ……わかりました」


 前方向に倒れかかっている友野を渚が受け止める。

 そのまま、友野は意識を失った。



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