第肆幕 潜入
「さあ着いたよ、蓮。ここが三条学園旧校舎だ。封鎖は一九九八年で、実習棟の封鎖は最近の二00五年だ」
昇降口を後にし、僅かに残っていた生徒たちの間を抜けた二人が辿り着いたのは、旧実習棟の裏側だ。放置気味の木々と雑草によって死角になっているうえに、好き放題に伸びた蔦が校舎に絡み付いている状況から、心霊スポットのようになっている。
そんな校舎に向かって背中を向けながら、透は一人芝居よろしく両腕を広げた。紳士淑女の皆さん、と叫んでいるが、生憎ここにいるのは子供二人だ。
そのことに対する反応を待っている透を無視した蓮は、ベニヤ不在の窓から中を覗き見たが、汚れたの所為で何も見えず、ガチャガチャと動かしてみても反応はなかった。
「残念、埃の所為で窓から中は見えないんだよ。でも……俺に付いて来てくれれば好きなだけ中を見れるよ」
楽しそうじゃない蓮の背中を、ほらほら、と促す。隙を与えれば「もう帰ります」と言い出しかねない雰囲気を掻き消すように、あれやこれやと語彙を操りながら非常階段を上がり、張り付いていた蜘蛛を退かしてドアノブを回す。
ギ……ギキィィィィィ〜……。
鼓膜を削るような音を吐き出しながら、非常口は口を開けた。
「よし! 椎名も気付かなかったみたいだ」
持って来た懐中電灯で廊下を照らす。その光で浮かび上がるのは、三月に訪れた時と何一つ変わらない埃の廊下だ。
「だから鍵を借りなかったんですか?」
「そのとおり。さあ、探検開始だ」
透はバッグからもう一つ懐中電灯を取り出し、蓮に手渡した。
「そのバッグには道具が?」
「そうだよ。カメラや予備の懐中電灯、緊急時の医療品に缶詰もあるよ」
「……本当に探検に行くような装備ですね」
呆れたような蓮に天使のウィンクで応えた透は、教室棟の廊下に足を踏み入れた。その直後、埃たちが来訪者を熱心に迎えてくれた。
封鎖されていても埃は降り積もる。それを証明するように、埃たちは足を踏み入れた蓮の顔にまで舞い上がってみせた。招かれざる客であることを埃たちから告げられた蓮は、マスクを持ってこなかったことを後悔したものの、もう後の祭りであった。
「埃は仕方ないよ。探検終わりにうがいをするくらいかな。ほら、行くよ」
歓迎に怯んでいる蓮を促し、南非常口の横にあるトイレを覗き込む。
光の中に浮かび上がるのは埃とトイレだけだが、誰もいないはずの個室のドアが全て口を閉じている。
「トイレの怪談と言えば……花子さん、赤紙青紙、赤いちゃんちゃんこかな。どれもノスタルジーを感じさせるねぇ」
透はそう言うと女子トイレに入り、手前から三番目のドアをノックした。男では検証出来ない古典の返事を期待しているのだが、一連の動きを見ていた蓮は肩をすくめた。
「高校に花子さんはいないでしょう」
「わからないよ? どこのトイレにもいるかもしれないし、ここは小学校だったからね」
古典を解さない蓮に笑いかけ、花子さんからの返事を数十秒ほど待つ。しかし、幽霊側も怪談側も素人同然のため、気の利いた返事などなかった。
「満足しましたか?」
「残念だねぇ、怪談の王道なのに。幽霊がいるなら、空気を読むことも意識してほしいね」
「幽霊だって素人ですから」
「素人なら仕方ないね」
蓮に向かって肩をすくめてみせた透は、ドアを開けないままトイレから出て行った。
「しかし、花子さんは王道……なんでしょうか」
誰に言うともなく呟いた蓮は、透の後を追ってトイレから出ようとし――。
ギ……ギギギ……ギギギィ〜……。
思わず足を止めた。呼び止めるように聞こえて来たドアの声に、蓮は殴られたように振り返ったが、立ち並ぶドアはどれも開いておらず、光の中には物音を発するようなものは見当たらない。最終候補は蛇口だが、回してみても水は水滴すら出て来なかった。
役者魂を持つ幽霊が空気を読んだ。そんなサービス精神の結果なら良かったが、誰もそれを主張しないため、蓮は逃げるようにしてトイレから飛び出した。
「どうしたんだい? 花子さんでも見たかな?」
「ドアが開いたような音がして……」
困惑という二文字を浮かべたまま女子トイレ全体を照らしている蓮に対し、透は静かにという全国共通の合図をし、周囲を懐中電灯で照らした。
「ほら、旧校舎は静寂に包まれている。怖い場所と意識していれば些細な物音もそれらしく聞こえるさ」
透は幼子を諭すような物言いを残し、ズンズンと先へ進む。内心では探検に花を添えてくれた物音に感謝していたが、如何せんインパクトが弱過ぎて検証する気は起きなかった。
そうして特にイベントも無いまま、二年D組、C組を横目に中央階段前まで来た。
「そういえば……目的地は決まっているんですか?」
「そうだね……せっかく教室棟に来たんだから、屋上に出てみるかい? そろそろ美しい黄昏時が訪れるしね」
親指で中央階段を示す透。
「卒業生の誰もが口を揃えて賞賛するのが、屋上から見る夕焼けと黄昏を後光にする校舎だ。たまには黄昏れてみるのも乙じゃないかい?」
頷くのも気が進まないため、蓮は黙ったまま了承した。
「さあ、隊長に付いて来なさい」
屋上に通じるのは中央階段のみであることを下調べで知っていた透は、蓮が付いて来ることを疑わずにダンダンと階段を上がって行く。その最中も階段一段一段に犇めいていた埃が舞い上がり、汚れた窓やベニヤの微かな隙間を抜けて入り込んで来た黄昏の中をたゆたう。それを嫌ってさすがに透も口を開くことはなかった。
「おや、こんな場所に積んでるのか。地震が起きたら僕らは逃げられないね」
照らした先に浮かび上がったのは、踊り場に積まれた机と椅子だ。沖田たちが積んだのかは不明だが、この物置状態を見たら、学校の怪談という古典ファンタジーの幻想が崩れていきそうだ。これが木造校舎なら怖さを醸し出すのかもしれないが、鉄筋コンクリートならただの物置だ。風情の欠片もない。
時代遅れになった学校の怪談よ、この間みたいに少しは面白いことを起こしておくれ――。
ガシャン!
予想だにしていなかった背後からの奇襲。とある髭のヒーローを彷彿とさせるジャンプを披露しながら、透は踊り場から階段に飛び退いた。
「……すいません、椅子に気付かなくて」
蓮の足下を照らすと、壊れた椅子が転がっている。踊り場に積まれた机の陰にあることから、気付かないで蹴ってしまうのも仕方がないだろう。
「俺が本気を出せば高飛び選手も真っ青さ」
「そうですね……驚きましたよ……」
顔を真っ赤にして笑いを堪えている蓮を一瞥した透は、自らのジャンプ力を自慢しつつかぶりをふって階段を上がる。盛り上がることを期待はしていたが、意図的に起こされた騒音や驚きは楽しくない。突然の騒音は誰でも驚くし、それを一々囃し立てる行為は無粋だ。
塒から蹴り出してしまった椅子を元の場所に戻した蓮は、照れるかのようにズンズンと上に行ってしまう透の背中を追いかけようとしたが、その道中で気になるものを見つけてしまい、また踊り場で立ち止まってしまった。
気になったものの正体は、ベニヤで封鎖された小さな窓でも積まれた机と椅子でもなく、壁に掛けられた掲示板だ。懐中電灯で浮かび上がる掲示物はほぼ全てが黒い液体で汚れており、何が書いてあるのかわからない。誰かがインクをぶちまけたような有様で、鼻を近付けてみてもどす黒さに反して無臭だった。
「蓮、今は屋上だろう?」
チラチラと夜行性昆虫のように懐中電灯を揺らす透を見上げた蓮は、掲示板をもう一度一瞥してから促しに従った。
「……掲示板がずいぶんと汚れてました」
「誰かのイタズラか、片付けの時に誰かがインクをこぼしたんだよ。実習棟を片付けていた時も手荒にしていたからね」
思い出すのは、沖田と一緒に片付けていた時の物音だ。何かを放り投げ、その何かとぶつかった何かの音がハッキリと聞こえた。あの感じで誰かがインクを放り投げたんだろう。
どうでもいいことに興味を向けた蓮を引き連れ、透は二階と同様に綺麗な三階へ辿り着いた。廊下に積まれた椅子と机を除けば、まだまだ現役で通用しそうな廊下には当然人の姿などなく、一瞥だけで済ませた透は屋上へ向かった。
「三階も保存状態が良いんですね。どうして廃校になったんでしょうか? 取り壊されもせずに残していることも奇妙ですし……」
「そうだねぇ、廃校理由は二つあるよ。一つは三条小学校の時代、生徒の増加に伴って別の場所に新校舎を建設したからさ。もう一つは三条学園時代、一九八七年にここの土地を買った三条は新校舎――僕らが通っている校舎だね、それを建てる間に間借りとしてこの校舎を使っていた。期間としては一九八七年から一九九二年までだ。この間に行方不明事件とか不可解な事件が起きている。小学校時代もあったらしいけど、一番大騒ぎになったのは高校時代だね。当時の校長先生が首をもぎ取られて死んでいた……そんな猟奇事件があったからかな、実習棟を除いて本棟も教室棟も九二年に封鎖だ。実習棟は九八年まで使っていた。封鎖の理由はこれらじゃないかな? 正式発表はないみたいだけどね」
「発表してない? よく問題に――」
「触らぬ神に祟りなし、だよ。きっとみんな関わりたくなかったんだ」
透は三階にも封鎖理由にも興味がない。大事なのは今、自分が如何にこの状況を楽しめるかにかかっている。どうでもいいことに神経を疲弊させたくないのだ。
そんな気持ちを連れてバタバタと駆け上がって行った透の背中に続かなかった蓮は、三年生の教室が立ち並ぶ廊下に足を踏み入れた。こびり付いた足裏の泥が立てる微かな音と自身の息遣いだけが響く中、蓮は手近の3年C組を覗き込んだ。
廊下側の窓越しに見えたのは、綺麗に立ち並ぶ整頓された机と椅子だ。蓮はそれを見て教室内に入った。ここはまだ手付かずのようで、黒板には因数分解の落書きがあり、床には雑巾や生徒の物だったと思われる汚い鞄が横たわっている。それだけなら何も気にすることはないのだが、高校生がわざわざ見るべきものがそこにはあった。
「蒼のチューリップ……?」
並ぶ机の一つに、花器に生けられた蒼いチューリップがあった。埃だらけの状況にも関わらず、中の水は汚れていないうえにチューリップそのものにも埃がかぶっていない。自然界を無視したその色に、蓮は魅入られたように見つめ続け――。
「お花が好きとは意外だねぇ? 好みは彼女みたいに自分の世界を持っているタイプかい?」
不意に肩へ置かれた手にも驚いたが、それよりも透が足音なしで背後に来ていたことに驚かされた。いつの間にそんな能力を手に入れたんだろう。
「蒼のチューリップなんて自然界に存在しないと思うんですが……」
「そうだね。でもさ、今は屋上だよ」
「ああ……すいません、行きましょう」
蒼のチューリップがあるから何なのだ、と言われてしまえばそれまでだ。これが大口をあけて噛み付いてくるのなら話は別だが、特に何もないのだから。
教室を後にした蓮は、屋上に向かう透の背中に従って階段を上がり――忘れていたものを思い出した蓮はその場で立ち止まった。どうして忘れていたのか、後で泣き付かれて面倒が増えるだけだ。
「透、翳さんのことを忘れていた……。旧校舎にいることは知っていても、ここにいることは知りませんよ!」
「ああ、そうだったね……先走ったな」
「連れて来ますよ」
「じゃあお願いしようかな。屋上に入れても入れなくても三階で待ってるよ」
「わかりました」
仲良しだねぇ、そう思いながら蓮の背中を見送った透は、微かに漏れ始めた黄昏の帳に目を細めながら階段を上がった。その終着点の手前には〝安易な立ち入りを禁ずる〟と書かれた札を掲げていたロープがあったようだが、今は役割を放棄して寝そべっている。その上をまたいだ透は、外を覆う黄昏によってくっきりと輪郭をなぞられた両開きのドアノブを掴んだ。
「さぁ、噂の黄昏さんはどれだけ綺麗なのかな?!」
卒業生たちが口を揃えて称賛する校舎のデートスポットは如何に――その挑戦に応えるようにして軽々と開いたドアの先に――透は思わず両目を庇った。
自らの両目が捉える視界の全てが黄金と化し、その目映さは黄金の国ジパングすらも逃げ出すほどだ。デートスポットにしては眩し過ぎる気がするものの、話題を共有し合うにはいいかもしれない。サングラスでもしていれば直視出来るのかもしれないが、目が弱い人には少し危険な気もする。
透は直視出来ない黄昏に圧倒され、態勢を立て直す為に校内へ戻ろうと踵を返し――何かとぶつかった。
「やぁ……蓮かい? 無言で立っているのはマナーに反する……よ――」
弾かれることなく受け止められた自分の身体に寄り添う感触を理解した瞬間、透は蓮でも翳でもない存在が目の前にいることを理解した。それは獣のような荒々しい毛皮のようでいて、皮の一つ一つが蛆のように蠢いているような戦慄する感触――。
グガァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーー!!!
その毛皮が一斉に棘となり、鼓膜を砕きかねないほどの兇悪な咆哮が目の前で発せられた。その衝撃は高校生の身体を軽々と吹き飛ばすほどで、コンクリートに叩き付けられた透は、黄金の中で浮かび上がる黒色の巨影に睨まれて硬直してしまった。
校舎そのものすら揺るがす咆哮に貫かれた透の身体は動けず、血管は凍らされ、健康的な肌は瞬く間に血の気を失い――透はその時になって初めて巨大な夕日とそれを後光のように背負う巨大な〝何か〟を見た。
その何かは地響きを吐き出しながら迫り、哀れな蛙は丸呑みされてその生涯を終える。その現実が約束された瞬間――。
逃げテ……! 〝
透の耳元で誰かが囁いた。幼子のような拙い聲は硬直した透の身体を覚醒させ、その場から弾くようにして彼を吹き飛ばした。息を吹き返した自分の身体に気付いた透は、開け放されたままのドアに向かって駆け出し――。
直後、透の視界は咆哮と共に殴られたように吹き飛び、その視界は一瞬にして闇に閉ざされた。
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