潜入-2
蓮は埃のことなど気にもせず、バタバタと中央階段を駆け下りる。
封鎖された旧校舎に忍び込む。その計画を聞いた大多数の人は昇降口という選択肢を捨てるだろう。どこかの窓かマンホールか、それとも空から侵入するのか、選択肢が山ほど出るが、それが初めて訪れる場所だった場合、案内がいなければ危険な場所に飛び込むようなことも起きるかもしれない。中で自分のことを待っているかも、そう思って廃墟内で焦れば命を落とすことだってあるのだ。ましてや、その相手が好奇心旺盛で猫みたいな身軽さを持っているなら尚更だ。
彼女のことを忘れていた自分を罵りつつ、蓮は階段を飛び降りて二階に着地すると、先ほど入り込んだドアに向かって駆けようとして――違和感に気付いて足を止めた。
「偶々でしょうか……」
違和感の正体はベニヤと窓から入り込む黄金ではなく、非常口を示す緑の光だ。廊下の北側にある両開きドアの上でチカチカと揺れており、最初に入った時は光っていなかった。嫌な偶然に眉を顰めた蓮だが、調べるのは翳と合流してからでも充分だと自身に言い聞かせて外に出た。
翳は二人の後を追い、本棟の昇降口前まで辿り着いた。
ここへ至るまでに遠目からでも校舎の外見を見つめていたのだが、正面から改めて見上げてみると、そこにはコンクリートの城と呼べるそれなりの趣があった。放置された建物は総じて落書きと破壊の被害にあうものだが、敷地内ということもあって蔦や風化による汚れ程度のため、役目を終えた旧三条学園校舎そのものが自らの意志で自然に還ろうとしているようにも見える。
コンクリート製の旧校舎なんて珍しいね〜お疲れ様〜、と優しい声をかけつつも、自身の小説の材料にしようとほくそ笑む。学校の怪談といえば木造校舎だが、若人にはしっくりこないだろう。そうなるとコンクリート製校舎を舞台にしたほうが親近感を持つはずだ。
そんな材料を得られたことに満足しながら翳は昇降口に近付き、そこに紙袋が置いてあることに気付いた。誰もいない旧校舎→お化けの巣窟→そこで何やら不可解事件→解決させた誰かがいる。その想像と溢れる好奇心が即座に優先され、翳は躊躇うことなくその紙袋に手を出した。誰かに宛てて書かれた文字を見たうえで、何が入っているのかを確かめる。
無情に突っ込んだ手が取り出したのは、草臥れた深紅のカチューシャだ。それを持ったと同時に、翳の掌は温かくなった。大事に使われていた証と一緒に、沖田から感じた気配と匂いも感じ取った彼女は、その温もりをなくさないようにカチューシャを急いで戻した。
「みんなと仲良くしてたんだねぇ〜、意外と力が強いな〜」
そんな力が強いカチューシャの主がいるのは、南京錠と鎖で厳重に封鎖された昇降口と黄昏を後光にする校舎だ。翳は昇降口から離れ、改めて校舎を見上げた。
透が口にしていた行方不明事件はともかく、怪談の類いを蓮は眉唾にしていたが、翳の方は内心切り捨ててはいなかった。六人の生徒が行方不明になった話は事実で、首をもぎ取られて死んでいた校長先生も事実なのだ。人ではない〝何か〟がこの校舎にはいる。過去のちょっとした経験が翳の内心へ警告したのだ。
気をつけろ、翳……この校舎には間違いなく敵意を持った奴らがいるぜ?
経験からの警告を受け取り、翳はそっと目を閉じた。声を探すのと同じように校舎へ探りの意識を送ってみたが、怪しい気配は何も感じられなかった。
不可解な事件が起きてるのに……?
綺麗過ぎて逆に怪しい。巧妙に自分のケツを隠しているのか、自分の豊かな想像力の賜物か、個人的にも物書きとしても前者を望んでいるが、蓮に危険が及ぶなら確実に後者を望む。
開かない昇降口を見切り、翳は蓮を捜しに校舎の周囲を見て回る。てっきり自分のことを待っていてくれると思っていたが、二人は薄情にも中へ入ってしまったようだ。蓮に見放された気がして、目を滲ませながら重い足取りで教室棟を曲がり――。
ドン、と誰かにぶつかり、ブレザーが宙を舞った。相手を倒してしまい、その弾みで翳もバランスを崩して草むらに尻餅をついた。
「ボーリナ〜(痛い)……飛び出さないでよ〜」
「あっ翳さん!」
届いた蓮の麗しい声。ぶつかった痛みも倒した相手のことも即座に消し飛び、翳は声の出所を探し――倒れている女子生徒の背後にある非常階段の上に蓮の姿を見つけた。彼は手摺から身を乗り出しており、翳を見るとすぐに駆け下りて来てくれた。
「れ〜ん……! 捜したよ〜……」
「大丈夫ですか?」
蓮は駆け下りて来てくれたが、辿り着いた先は翳の横ではなく、倒れたままの女子生徒の横だった。その裏切りに翳は頰を盛大に膨らませたが、自分は難なく立ち上がっているのだから仕方ない。
「ああ……はい、なんとか――」
尻餅をついたままの流華に手を貸そうとした蓮だが、彼女はそれを無視して立ち上がると、乱れた制服と髪を気にせずにブレザーを拾い上げた。既に意識は二人へ向けておらず、流華はしきりに校舎を見上げながら移動を再開させた。
「あの……椎名さん?」
何をしているのかわからず、蓮はそこまで親しくない流華にどう尋ねればいいのかわからなかった。非常階段に出た時、彼女が下を駆け抜けて行く姿を目撃したため、慌てていることは理解出来ている。
「椎名さん……! 何かあったんですか?」
「ナヴェールナヤ〜(確かにね〜)曲がり角を全力疾走で飛び出して来るんだも〜ん。弱っちゃうよ〜」
あからさまに混乱している流華を非常階段に座らせた蓮は、翳が持っていたペットボトルの水を手渡した。すると、彼女はそれを一気に飲み干し、大きな息を吐き出した。
「は〜い、深呼吸、深呼吸だよ〜」
奇妙な踊りで深呼吸を促す翳にされるがまま、流華は思考を落ち着かせるための深呼吸を繰り返し、やがて一際深い息を吐いた。
「少し……落ち着けましたか?」
「はい……すこし……」
「ん〜?」
翳は流華に顔を近付けた。
「あ〜、さっきカリドール(廊下)で擦れ違った小動物ちゃんだ〜」
その瞬間、流華は翳から離れた。
「あ〜……ウジャースヌイ(酷い)!」
「だって……急に笑いだす人……」
「カリドールでの出来事〜? チミが小動物みたいであいそらしかったからね〜」
「あいそら……? なんですか……?」
「ありゃ? えっと〜可愛らしいってこと」
「あっ……ありがとうございます」
「ニェー・ザ・シタ〜(どういたしまして)」
またわからない言語を取り出した翳を一瞥する蓮。出会ったばかりの頃に片言は癖だと説明されたが、それでも一々聞き返すのは面倒で、この状況下で話題が脱線するのも嫌だった。すると、翳はその一瞥の意味に気付いたようで、
「この片言が癖になったのはね〜、おねーさんの影響なんだ〜」
「翳さんの……?」
「ちが〜うよ。小さい頃にあたしがお世話になったおねーさん」
「こういう時は片言を出さないでくださいよ……。椎名さん、話を戻します。緊急事態ですか? 急がれていましたが」
「あっ……! しーな!」
自由気ままに振る舞う翳に意識を向けていた所為で、椎名の存在が消えていた。一瞬でも深刻な事態を忘れていた自分を内心で罵りながら立ち上がった流華は、話が通じそうな蓮を見、椎名のブレザーを握り締めた。
「あのっ……しーなが……! しーながいなくなってしまって……!」
グシャ、と握り締められているブレザーを見た翳は、「皺になるぞ〜」と流華の手を緩めた。
「しーな……小瀬川さんのことですか? あの、まずは落ち着いて……一から説明してもらえませんか?」
「えっと……一緒に旧校舎の取材に来たんだけど……私が沖田先生と話していたら、いつの間にかいなくなってて……私、校舎の周りにいるだろうって思ってたんだけど……中庭にこれが落ちてて……」
蓮は差し出されたブレザーを受け取り、隅々を確認する。ボロボロと出て来たのは土と――付着した黒い染みだ。その染みは教室棟の掲示板で見たものと同じだ。
「これは本当に小瀬川さんのブレザーですか?」
黙って頷いた流華を信じ、蓮は中庭へ行こうとしたが、それを翳が止めた。
「ルウがここにいるってことは〜中庭に行っても意味ないよ? 見つかるものがあるならとっくに見つけているだろうしね」
ルウ。どうやら流華のことを言っているようだ。
「……もしかすると、透と同じ場所から校内に入ったのかもしれません」
「開いている場所があるの?!」
「あります、そこの二階です」
翳は蓮が指差す先を見て、ドアを睨みつけた。同じように二人ともドアを見たはずだが、微かに開いていたドアが閉まったことには気付かなかったようだ。
「中にいるかもしれませんよ。行きましょう」
蓮は出来るだけ明るく伝え、流華を促した。
「二人は……どうしてここに?」
「ああ、ちょっとした用事で……。中に透もいますから、四人で校内を捜してみましょう。窓が無い場所は明るいですけど、ベニヤの中は暗いので足下に気を付けてくださいね?」
細かいことは追及せず、頷いた流華は携帯電話のライトを用意して蓮に続いた。そんな流華が倒れて来ても受け止められるように殿を選んだ翳は、死んだ蜘蛛の巣だらけの手摺に触れ――静電気のような感覚に掌を貫かれた翳は、思わずその場から飛び退いた。
常人には視えないモノに手を咬まれた。警告か、或は獲物としての品定めか……。
売られた喧嘩を買う趣味はない。翳は脅しの主を探ろうと意識を校舎に向けたが、
「翳さん!」
蓮の声で集中が途切れた。
「ん〜? 今行く〜」
中に入って行く二人の背中を追って非常階段を駆け上がった翳は、〝まだ開くドア〟に大きめの石を挟んでおいた。その行為がただの杞憂であることを複雑な気持ちで望みながら。
「翳さん? 行きましょう」
再度促され、翳は振り返ることなく教室棟の三階へ駆け上がった。
三人の足音が過去になった頃、ドアは錆び付いた声をあげながら動きだし、翳が後先を任せた石はあっさりと弾かれて役目を放棄してしまった。
「ずいぶんと物が取り残されているんですね……」
後ろから聞こえて来たのは、流華の不安げな声だ。その声が出た理由は、先導する蓮が浮かび上がらせた物置という踊り場の所為だ。倒れて来ることを危惧しているのだろうが、このタイミングで地震が来たのなら、それこそ蓮は全ての神様を呪うだろう。
「校内のあちこちにも積まれている机とかがあるので、引っ掛けて転ばないよう注意してくださいね」
また物音で誰かを驚かせてしまう。飛び跳ねた透のことを思い出した蓮は一瞬だけ笑いかけたが、今の状況に相応しくない行為だと反射的に自分を律したため、笑いはしなかった。また同じ場所で足を引っ掛けないように注意しながら踊り場を抜けた――その瞬間、不意な違和感に気付いて足が止まった。何かが変わったような気がして、周囲を見渡してみるが、違和感の正体はわからない。
「ね〜ね〜あたしのことを怖がらないでよ〜……」
「……いきなり笑いだす人を怖がらない人なんていませんよ」
「む〜……」
露骨に辟易してみせている流華に対して翳はその態度をまるで気にしておらず、あれやこれやとちょっかいをかけている。実際、流華にとって翳はどうでもよく、自己紹介して一緒にお茶する関係になる必要もない一見さんなのだ。もう話すことはない、と流華はその場から駆け上がり、彼女の横を抜けて蓮の背中を追いかけようとしたが――腕を掴まれて立ち止まらされた。
「もうっ……! 何なんですか!」
「見て〜掲示物が読めるよ〜?」
翳が指差したのは踊り場にある掲示板だ。
「九一年の学年便りか〜。ん〜……これは奇妙だな〜」
「学年便りが奇妙なはずないでしょう……? 先に行きます」
「そうかな〜? 封鎖されていたのに、保存状態が良いのは奇妙だよ〜? それに……ここが封鎖されたのは九二年なんでしょ〜?」
見て見て、と主張する翳に眉を顰めながらも流華は掲示物を見た。
翳の言う通り、掲示物は全て九一年で止まっているうえに、最近貼られたかのように綺麗だ。画鋲にも草臥れた様子は無く、足下の埃と比較すると、この掲示板だけ綺麗というのは不自然だ。しかし、
「……今はしーなを捜すのが先決です」
掲示物にギチギチと張り付いている翳を見切り、流華は蓮の背中を追って階段を駆け上がった。
最初に出会した時、翳へ抱いたイメージは変わらないが、こうして一言二言と話してみて、蓮の態度を見てわかったことがある。悪い人間でも非常識な人間でもないが、人懐っこさと図々しさ、良くも悪くも自分の世界をしっかりと持っている人なんだと理解は出来たが、流華にとって苦手なタイプであることに変わりはなく、素っ気ない態度が自然と出てしまう。
そんなやり取りが起きていることを知らないまま三階に辿り着いた蓮は、
「透、探検一旦止めにしましょう」
外に漏れない程度の大声で三階の廊下を歩いた。ここへ戻るのに時間がかかったから、遅さに毒づいていると思っていた蓮だが、予想に反して透の返事はない。
「透? 聞こえてますか?」
三階にいると言ったのは透だ。彼は皮肉やネガティブ発言が目立つものの、約束は必ず守る男だ。待っていると言ったなら、文字通りそういうことなのだ。それなのに彼の姿は中央階段にも廊下にも見当たらない。
先に屋上で寝ているのかもしれない。そう思った蓮は階段を駆け上がり、屋上へ通じるドアを守る〝安易な立ち入りを禁ずる〟と書かれた札とロープの下をくぐり抜け、ドアノブを掴んでみたが、ビクともしないどころかノブにも埃が積もっている。
「透?」
もう一度、大声で呼びかけてみたが、返って来るのは下で何かを話している二人の微かな声だけだ。隠れていて、驚かすタイミングを見計らっているにしても、透はそれで大笑いするようなタイプじゃない。
かぶりをふりながら三階に戻ると、翳と流華がC組を覗き込んでいた。
「どうかしましたか?」
「蓮君、外見は綺麗でも中は荒らされているんですね……」
荒らされている……?
ハンカチで口を押さえている流華の隣に並び、照らされる室内を見――目を疑った。
さっき覗き込んだ時、室内は整頓されていた。間違いなくそれを確認したのだが、今の室内は無秩序だ。見える範囲にある机と椅子はひっくり返され、床に落とされた黒板は一部が砕けて、蒼のチューリップも無く、掃除用具入れのロッカーは車に体当たりでもされたのか、激しい凹みに加えて変形している。
「そんなはずは……」
その光景が信じられず、蓮は室内に入ってあちこちを照らし――廊下側の壁に奇妙な痕跡があることを発見した。その突拍子のない光景に蓮は思わず絶句してしまい、流華が横に来ても何も言えなかった。
「何ですか……これ……」
光の中に浮かび上がるのは、巨大な爪痕だ。人間と同じ五本指と熊のような兇悪さを持つそれは、壁から天井へ向かい、教室から廊下の境目で途切れている。
「どうして爪痕が天井に……?」
「それよりも、あんな大きな爪を持つ生き物が校舎にいるはずない……ライオンを飼っていれば別かもしれないけど……」
「こっちにもあるよ〜?」
不意に翳が声をあげた。彼女はもう一カ所にある引き戸の手前に屈み込んでおり、その後ろへ駆け寄った蓮は、引き戸を引っ掻いたような爪痕を凝視した。
「いたずら……でしょうか」
カッターか彫刻刀を使った壮大かつ暇な仕掛けなのか。悪戯説を信じたそうにしている蓮を尻目に、翳はその傷痕にそっと触れてみた。何らかの痕跡があると思っていたが、清々しいほどに何も感じられなかった。
「……そういえば、透君は上に?」
「あっ……そうでした。実は透も姿が見えなくて……」
椎名に続いて透も消えた。二人が結託してサプライズなんてくだらないことを計画しているとは思えない。流華が知る限り、透と椎名は互いに親しくはない。
「さっきの声も、聞こえたはずですし……一旦外に出て先生に知らせましょう。沖田先生にでも伝えて」
まだ調べていない場所も推測していないこともあるが、爪痕や奇怪な出来事にすっかり気後れしてしまった蓮は、とにもかくもここから早く出て行きたかったのだ。その気持ちは流華も同じで、彼女は翳の答えを待たずに二階へ下りて行った。
「ほら、翳さんも行きますよ」
教室から飛び出して行った蓮の背中に従った翳だが、途中で立ち止まった彼女は三階の廊下をもう一度見渡し――ある違和感に気付いて足を止めた。一瞬だけだったが、ベニヤから漏れる光量に翳りが差した気がしたのだ。それが気になり、翳はそっとベニヤの隙間を覗き込んだ。
その先に見えたのは、目映いほどの黄金郷を吐き出す夕陽――禍時だ。妖しいほどの神々しさ、或は禍々しさを放つ黄金の帳は人の心を容易に掻き乱す力を持っている。郷愁なんて抱かない翳は直視を拒んでベニヤから飛び退いた。
「転換期か……ここから出たほうがいいかもね」
一瞬とはいえ、校舎の三階に翳りを齎すものは限られている。低空飛行の飛行機、気球、或は巨大な鳥くらいだろう。だが、そのどれも翳を納得させられる答えは出せず、彼女は踵を返して中央階段へ向かい――目の前の防火扉が音をたてて閉まった。
「あちゃ〜……手遅れ……かな?」
グガァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーー!!!
その独り言を肯定するかのような咆哮が轟いた。どこから聞こえて来たのかすらわからないそれは、コンクリートで固められた校舎を軽々と揺るがした。皮膚を剥ぎ、神経を貫き、心臓を、魂を、直接切り刻みに来た咆哮は、翳の精神すらも一瞬で竦ませた。
それに加え、ベニヤたちが悲鳴をあげながら次々と吹き飛ばされ、廊下へ黄金の濁流が押し寄せた。視界を軽々と奪うその光景に翳は自らの瞳を覆い――〝それ〟を見た。
僅かな隙間さえも赦さぬ黄金の後光を従える巨大な黒い影――。
禍津陽か……。
自らを捉えた夕陽が何なのか、それを理解した瞬間、翳の意識は途切れた。
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