第伍幕 蠢動
……さん、蓮………ん……蓮さん……。
誰かに呼びかけられている。耳を通り抜けた声を拾い上げた脳みそが、全身に指示を与えること約五分。遅いか早いかわからない経過を経て、それが流華の声なんだと気付いて理解した蓮は、重たい瞼を無理矢理開きながら身体を起こした。
「……椎名さん……何か……ありましたか……?」
自分の身体が横たわっていること、痛む頭に重たい瞼も相まって、蓮は自分の身に何が起きたのか薄々察しながらも尋ねた。
「もしかして……私は足を踏み外して……?」
「えっと……私も何が何だか……わからないんです」
どう答えたらいいのかわからず、流華は自分たちの状況を示すために周囲を照らしてみせた。
「どう説明したらいいのか……えっと、私たちが階段を駆け下りていた時、どこからか気味の悪い咆哮みたいな……ものが聞こえて来たんです」
「……咆哮?」
痛む頭を押さえながら、蓮は何が起きたのか思い出すために脳内の引き出しをひっくり返した。次から次へと溢れて来る嫌な思い出たちの中に、モノクロになりかけている写真を見つけ――思い出せたのは、階段を駆け下りていた途中で出会した咆哮と揺れる校舎だ。それに驚いていた時、目の前に太陽が落ちて来たんじゃないかと思うほどの眩しさに襲われ――今に至る。
「咆哮と……黄金に黒い影が……」
「もう……ブレザーもなくなってしまうし、わけのわからない咆哮は聞こえるし……」
座り込んだまま肩を落としている流華を一瞥し、蓮は立ち上がると周囲を確認した。
気を失う前は異様に明るかった校舎だが、今は暗闇に包まれている。夜まで気を失っていたのか、それともあの黄昏の時にはもう異変が起きていたのか、何もわからないままどうすることも出来ず、とにかく外へ出ようと流華へ手を差し出したが、彼女はフルフルとかぶりをふった。
「ドアは調べたけど……反応なくて……」
「そんなはずは……石を噛ませていたので――」
入って来たドアを見――蓮はあることに気付いた。
「ベニヤが……無い?」
飛びつくようにドアへ駆け寄った蓮は、割れた窓を覆っていたベニヤが無くなっていることに驚きつつもドアノブをガチャガチャと乱暴に動かした。しかし、ドアはピクリとも反応せず、解放された窓から見えるのは雨と暗闇だけだ。石のことなどドアは覚えていないようで、憎々しいほどに隙間が無い。
「ねえ……それだけじゃなくて……校内の雰囲気も変わったような気がするの……」
そう言って流華が照らした廊下に埃臭さはなく、廊下に積まれていたはずの机や椅子はおろか、窓を厳重に塞いでいたベニヤたちすら無くなっている。明らかにさっきまでの廊下とは違う光景が広がっていることに蓮は不安と苛立ちに促され、
「……少し手荒にします」
側に落ちていた黒板消しクリーナーを拾い上げた蓮は、非常口の窓に思い切り投げつけた。野球ボールのような勢いで窓に叩き付けられたが、無駄だと言わんばかりに蓮の足下へ弾き返されてしまった。
「防弾ガラス……なわけないですよね」
目の前の光景に圧倒されている蓮の横で、クリーナーを拾い上げた流華は中庭を見下ろせるはずの窓を照らした。
「詳しく調べたわけじゃないから断言できないけど……校舎に閉じ込められたのかも……」
「…………」
消えた透と椎名、姿を変えた廊下と開かない窓……わけがわからない。それに加えて静寂な廊下を気味悪く感じた蓮は、こういう時でも騒がしいはずの翳に声をかける。
「翳さん、さっきから静かですけど何か――」
「あっ――」
二人は翳がいないことに気付き顔を見合せた。
「しまった……! 一緒にいるとばかり……」
蓮は中央階段へ走り――。
ドグァン!!
突然、北側のドアが開かれた。開けたというよりも体当たりでもしたのかと思わせるほど開閉は一瞬で、蓮たちの目と耳に雨音と風音と外の光景が届いたが、それはすぐに闇に溶けてしまった。
そのあまりにも乱暴かつ突然の出来事に寿命を削られた蓮は、階段の手摺に背中をぶつけつつも即座にドアを照らした。それに続いて流華も廊下を浮かび上がらせるが、ドアを開けた下手人の姿は何故か見当たらない。
「誰かが……外に出て行ったのかもしれませんね……」
根拠も証拠もないまま吐き出された蓮の希望的観測に対し、流華は後退りしながら即座にかぶりをふった。彼女はドアが自分たちに向けて開かれたことを見逃さなかったのだ。それにも関わらず入って来た誰かの姿が見えないなんてありえない。
「根拠の無い希望的観測は危険……とにかく逃げよう……」
「逃げると言ってもどこへ――」
ガ……シュ……ガシュ……ガシュ……!
逃げる場所を探して視界を投げた瞬間、それを咎めるような鋭い音に背中を刺された。刃物を用いて木材か何かを削っているような音だが、蓮の背中を刺したのはそれだけじゃない。その汚い音に混じって「ハァ〜……ハァ〜……」と荒い吐息が聞こえ、この廊下に何かがいることをハッキリと告げられた二人は互いに顔を見合せた。
蓮は震えながらも流華と顔を見合わせたが、彼女は必死の形相でかぶりをふる。逃げるべきだという必死の訴えを受けた蓮は、静かに後退りながらも音の主を捜して光を揺らし――目の前に落ちて来た天井の欠片と唾液のような液体に気付き、
ガシュ!!
その音に頭を掴まれた蓮は天井を照らし――それを見た。
肥大化した手と巨大な鉤爪を用いて天井を這う――人間の女だ。
驚くことも声をあげることもしないまま、蓮は目の前の光景を理解しようとしていた。化け物、鉤爪、天井を這う女――。
堂々巡りで動かない蓮を認めた女は、優雅だと讃えられるほどの美しさで宙を舞い、静謐のまま床に着地した。両手で床をしっかりと受け止めると、その女はガクリと項垂れた頭をやおら露にし、黄金に光る奇怪な双眸を蓮に向けた。
目の前に着地され、睨まれてもなお見つめることしか出来ない蓮だが、それは流華も同様であり、彼女は息をすることさえ忘れて女を見――。
女は裂けた口をがくんと開けて、ギーギーと甲高く不快な咆哮をあげた。次には身を屈めて稲妻のような素早さで動き出した。見慣れないブレザーを纏い、黒ずんでカピカピになった長髪を振り乱し、床を抉るのは熊よりも遥かに兇暴な鉤爪、そのどれよりも蓮と流華の目を疑わせたのは――下半身が見当たらないことだ。
下半身の無い化け物――蓮は怪談の一つを思い出すと同時に、敵意と狂気を浴びせられたことで殴られたようにその場から飛び退けた。
考えている余裕はない。床の欠片を撒き散らしながら迫る女から視線を流華へ投げた蓮は、有無を言わさず彼女の腕を掴んだ。「そっちへ!!」とだけ叫んだ蓮の怪力は凄まじく、流華はされるがままに、中央階段と向き合うドアを突き破った。その際に、彼女が握る携帯が、天井からぶら下がる実習棟と書かれた案内プレートを照らした。
化け物が狙っているのは明らかに自分である、という現状が流華にとって幸運に働いた。同じクラスの蓮は、彼女が走ることを得意としていないことを知っていたのだ。
「逃げて!!」
そう叫びながらドアを叩き閉めた蓮――を狙って女は床から飛び跳ねると、その兇悪な鉤爪を振り下ろした。微かな光源を受けて猛る鉤爪に、蓮は頭よりも先に動いた身体に弾かれて派手に尻餅をついた――その目の前を稲妻のように抜けた化け物は、床を滑りながら鉤爪を突き立てるとドリフトのようなブレーキをかけた。
抉られた床の悲鳴に弾かれた蓮は、コンクリートを水にしてしまう鉤爪の強靭さに戦慄しつつも起き上がり、飛びかかられる前に移動しようとしたが――化け物はブレーキを放棄して横の壁に飛びつくと、二度目の宣戦布告をして動き出した。
壁を削りながら迫る化け物を一瞥した蓮は、足下に落ちていたコンクリートの破片を見――その破片を蹴り飛ばした。そのあまりにも不意で反射的な行為に足は悲鳴をあげたが、飛来した破片に意表を突かれた化け物は驚愕を連れて天井に飛び付くと、そのまま蜘蛛のようにぶら下がり、逃げて行く蓮の背中へ苛立たしげな咆哮を浴びせた。
蓮は無茶をさせた右足からの抗議を無視し、中央階段で一階に駆け下りた。背中に突き刺さる咆哮と天井を抉る音がアドレナリンを促すようで、足を痛めながらもその速度を緩むことなく走ることが出来た。
残った数段を無視して一階に転がり下りたものの、校舎の構造を何一つ知らないため、行き先候補がすぐに淀んでしまった。流華を押し込んだ二階のドアと同じ位置にあるドアは論外だ。同じ棟に行くわけにはいかない。だとしたら……。
天井からぶら下がっている案内プレートを照らし、本棟、実習棟という文字と伸びる矢印を見た。制作者と設置してくれた誰かに感謝しながら矢印に従って本棟へ、北側の奥にある両開きのドアに向かって走り出した。背後からは当然のように化け物の追撃を告げる音が響いている。
振り向かない、振り向けないまま蓮はドアに向かって肩を丸め――勢いよく渡り廊下に転がった。バチャリ、水が頰に飛び付き、身体には生温い感触と寒気が絡み付いた。
渡り廊下とはいえ、それは立派な校外である。陰気の世界からの開放感を少しでも得られると思ったのだが、蓮は目の前に広がる惨状に殴られてしまった。消え失せた黄金の代わりに広がっているのは、真逆の暗黒の世界だった。激しい暴風と豪雨が荒れ狂い、渡り廊下は役割を放棄した屋根の所為で床も水浸しだ。
ねちゃりとした不快な水に絡まれた蓮は飛び起きて振り返り――背後の暗闇で揺れる二つの黄金に気付いた蓮は、濡れた身体のことも外のことも無視してドアを叩き閉めた。さすがに分厚いドアを切り裂けるようには見えず、蓮はそのまま背中を預けてへたり込んだ。
「この先どうすれば……」
校外に出ることは出来た。しかし、蓮のことを見下ろしている光景は、ただ外に出られれば解決するという希望を嘲笑っており、渡り廊下からでも見えていたはずの校庭や校舎を囲む通路なども全て黒い霧で覆われていて何も見えない。窓から外が見えない理由は夜だからではなく、この黒い霧が立ちこめていることが原因だったのだ。
完全に進退窮まる状況に追いやられてしまい、これからどうするべきなのかも思い付かないまま頭を抱えた瞬間――。
ドォスン!! ガチャン!!
衝撃と激痛に全身を貫かれ――その衝撃で叫んだ脳は身体を突き飛ばした。
ガシャン!! ガチャン!! ガゴン!!!
火災を押し止める強化ドアではないものの、中と外を隔てるには充分な分厚さを持っている両開きのドアにも関わらず、化け物の体当たりでドアは凹み、鉤爪は軽々と貫いてみせた。その鉤爪には蓮の肩を切り裂いた証が生々しく刻まれている。
突き飛ばされた衝撃と肩に刻まれた激痛、生温い血と臭いで蓮はうめき声をあげた。突然の出来事で脳が正常な思考を取り戻すのに時間がかかり、即座に立ち上がることも出来なかった。そのうめき声に興奮したのか、化け物はギーギーと奇怪な咆哮をあげて鉤爪を何度も突き立てた。
おい! 何を突っ立ってんだ! 死にたくなければ行動あるのみだろうが!!
血を求める鉤爪に貫かれて悲鳴をあげるドア。皮肉にもその悲鳴と咆哮が乱暴ながらも蓮の脳に秩序を取り戻すことに一役買った。自分の冷静な声に頷き、懐中電灯を拾い上げると歯を食いしばりながら立ち上がった。脈打つ肩から流れる血は止まらないが、動けないわけではない。
早く逃げろと叫ぶドアに感謝しつつ、踵を返して本棟に駆け寄った。幸いにもドアは施錠されておらず、隙間に滑り込んだと同時に教室棟のドアが突破されたものの、蓮は慌てることなくドアを閉めた。
振り返ると同時に周囲を見渡す。浮かび上がるのは宿直室、応接室、保健室らと向かい合う購買所だ。それらに挟まれた廊下に人影は無く、隠れられるような場所は見当たらないため、蓮は肩と右足を庇いつつ奥へ向かった。だが、肩から流れている血が床に血痕を残していることには気付かないままだ。
保健室の横にある昇降口に駆け寄った蓮は施錠されていないことを確認したが、霧が蠢く外には出る気にならず、真向かいの正面階段も無視して廊下のさらに奥へ向かった。
奥には職員室、校長室、会議室、その向かいに進路相談室とトイレ、最奥には旧実習棟に通じる両開きのドアがある。その中で蓮が選んだのは職員室だ。隠れられる机が多く、見つかるとしても次に備えた時間は稼げるはずだと判断したからだ。
ようやく得られた微かな安堵によって流華のことが脳裏によぎる。あの化け物から逃がすために旧実習棟に押し込んだが、あの先に化け物がいないことを確認はしなかった。
「あなたもどうかご無事で……」
流華の無事を祈りながら、蓮は職員室に飛び込んだ。
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