暁光-2

一階に飛び降りた蓮はすぐに渡り廊下から校外に出た。


「翳さん!!」


 死神に襲われることも構わず、蓮は彼女の名前を叫ぶ。最悪の事態など想像もしたくなかった。暴雨も傷の痛みも今は些細なことで、もう一度彼女の名前を叫び――。


 宿直室……そこに……。


 耳元で聞こえた花子さんの聲に従い、蓮は本棟へ飛び込んだ。宿直室はテケテケに追い回された時に見かけていたため迷うことはなく、殴るように引き戸を退けた蓮が見たのは、


「翳……そんな……!」


 蓮が見たのは、たくさんの血を流して倒れている翳の姿だ。想像すらしたくなかった光景に蓮は入り口から動けなくなってしまった。まつろわぬもの、モノノケ、敵わなくともこの怒りと憎しみをぶつけたくて、今すぐに部屋を飛び出してまつろわぬものを殴り飛ばしに向かおうとして――。


 その感情に支配されて狂いそうになった時、翳の身体がピクリと動いた。


 生きて……?


 辛うじて生きていた理性が蓮をその場に留め、愚行を止めさせた。彼女の許へ駆け寄って身体を起こすと――心の底から安堵した。翳は気を失っているだけで、しっかりと息をしている。死んでなどいなかったのだ。


「ああ……」


 蓮は泣き崩れそうになりながらも、彼女を強く抱きしめた。確かに感じる鼓動。腕から流れる血も今は落ち着いているようだ。


「死なせないからな……翳」


 蓮は周囲を見渡す。治療に使えそうなものはない。すぐ近くにある保健室にも使えるものはないと流華は言っていた。どうすれば――。


「その言葉……信じて良いよね……」


 蓮はハッとして翳を見た。か細く、消え入りそうな声だが、翳はやおら目を開けた。


「蓮に……看取られながら〜とも思ったけどね〜……」


「駄目だ、まだそんなこと言わせない!」


 そう言って蓮は翳の上半身を起こし、もう一度強く抱きしめた。


「ふふ〜うれしいな。……また逢えて良かったよ〜」


 蓮の温もりに包まれて、翳は改めて自分が生きていることを実感した。しかし、同時に、自分の意識が堕ちる瞬間に感じた、肌の温もりや思い出さえも奪い去られてしまう恐怖を思い出してしまい、蓮の胸の中で泣いてしまった。


 翳は少しだけ、ほんの少しだけ泣きじゃくり、蓮の胸から顔を離した。


「落ち着けましたか?」


「……戻ってるよ? いつもの口調に」


「あっ……」


「年下君に呼び捨てにされるのもなかなか良いねぇ」


 涙を拭いながら微笑んだ翳は、治癒された傷痕を確認しようと視線を下げ――文机の下に汚れた大学ノートが落ちていることに気付いた。


「ノート……何だろ」


「ここは宿直室ですから、日誌のようなものでしょう」


 翳は中を確認する。そのほとんどは毎日の愚痴や報告、吉報とかばかりで、特に見るべき箇所は――あるページで翳は手を止めた。


「……蓮くん、都合が良いというか……不思議な縁って本当にあるんだね。大事なことが書かれているよ」


 そう言って、翳はゆっくりとそのページを読み出した。



 一九九一年七月一七日 

 宿直中に中庭で奇妙なお地蔵様を見つける。それはごく普通の外見でしたが、頭部が外れて壊されているものでした。校長に電話で確認しましたが、校舎建設時にお地蔵様が発見されたという報告はなかったようです。建設会社の方も気付かなかったのでしょうか? 

 ともかく、生徒の悪戯とも思いましたが、長い年月を感じさせる外見から、破棄するのは忍びなく思います。ただ、奇怪な事件が続いているため、生徒たちの目に触れるとよからぬ噂が広まる可能性もあります。中庭の隅、誰も注視しない非常階段の側に群生する雑草の中に移動しました。


 一九九一年七月一八日 

 小野先生が発見された首無し地蔵ですが、確認したところ、三年B組の大林武雄が十日の昼休みに誤って壊したことを供述しました。壊された頭部は近くの生徒用ロッカーに隠されていました。学園の財産ではないため対応に苦慮しましたが、口頭注意に留め、私の独断で補修をしておきました。



「お地蔵様……やっぱり!」


 蓮は思わず声をあげた。どうやら場所の目星は間違っていなかったようだ。それに、鵺が一回封印されたわけも理解出来た。


「どうやら偶然で封印されていたみたいだねぇ……。お地蔵様かぁ……最初に封印したのは神名かみなの一族かな?」


「神名? いえ、今はそれよりも中庭へ行きましょう! 立てますか?」


「この足は歩くためにあるんだよ〜」


 蓮は翳を支えて立ち上がらせた。こころなしか、気を失っていた時よりも顔色は良さそうだ。そんな彼女を支えながら廊下に出た蓮は、聞こえてくる轟音と地響きに唇を噛んだ。あの音が聞こえるということは、三人はまだ無事だという証拠だが、それも時間の問題だろう。


 三人が殺される前にお地蔵様を直すため、中庭へ行こうとしたが、何故かドアが開かない。


「いいよ、二階に行こう……!」


 翳に促され、二階へ駆け上がる。隻腕のテケテケがいたと言っていたが、左右にその姿は見当たらない。安心は出来ないが、待ち伏せしているならもう飛び出しているはずだ。


 ドアの前に駆け寄り把手をガチャガチャ言わせたが、こっちも何故か開かない。渡り廊下から飛び降りるという選択肢はここで潰えた。それが幸か不幸かはわからないが、そのことを議論している暇はなく、本棟のドアが開かないのなら中庭に通じる道は一つしかない。




 旧実習棟に入った透たちだが、鵺の執拗な追撃に苦しめられていた。


 廊下に展開した防火扉も易々と突破され、最後の防火扉が悲鳴をあげているところだ。


 額から血を流す透の症状は危険で、脳震盪の可能性も視野に入れた流華だが、タイムを理解しない鵺の所為で走らせるしかなかった。椎名とともに透を支えて走る。


「これ……支え合って人になるって……?」


「冗談はいらない! 行くよ!」


 帯刀していた木刀を杖として透に渡し、流華は椎名にも肩を貸す。背の違いはあるけど、支えがないよりマシだろう。


 ドグァン! バギィン! ガツン!!


 その背後では最後の防火扉が破られ、テケテケと骨格標本が姿を現した。その二体は半狂乱のように互いにぶつかり合いながら三人を追い立てる。


 流華はスピードを上げるが、怪我をした二人にその体力はない。それでも足を引きずらせながら二人を技術室前にまで連れて来た流華だが、前方から足音が聞こえたため身構え――。


「椎名さん!!」


 先の角を曲がり、蓮と翳が姿を現した。二人とも流華たちと同じくぼろぼろだ。


「お地蔵様です!! やはりお地蔵様が中庭にあるんですよ。過去に先生が修復したことを――」


 ガシャン! ガチャン! 


 蓮の背後、廊下の窓を割って、隻腕のテケテケが廊下に飛び込んで来た。さらに流華たちの背後には角を曲がって来たテケテケと骨格標本が姿を現した。さらにその背後には黒い塊がよたよたと歩いている。


 挟撃された……! くそっ……!


 流華は切り刻まれた女から奪った刀を構える。


「蓮もまだ動けるでしょ? 徒手空拳でも何でも良いから、隻腕の相手をしてて!」


「腕っ節でどうにかなる相手なんですか?!」


 互いに怪我人を庇う形で背中を合わせる流華と蓮。もはや教室に逃げ込んでも結果は同じだ。覚悟を決めて――。


 ギュグァァァァァアアアアアアァァァァァアアアアーーーーー!!!


「あっ……!」


 今までにない強大な咆哮。その咆哮から感じる妖力の強さに翳が怯んだ瞬間――凄まじい衝撃が校舎を襲い、技術室、被服室、第一第二科学室と廊下が一気呵成に崩れだした。校舎はおもちゃのように軽々しく崩れ、五人はおろか、テケテケたちまでも巻き込んで雪崩となった。


 五人は崩れた床に運ばれるようにして瓦礫の中を転がり落ち、鵺が鎮座する中庭に落とされた。持っていた懐中電灯やバッグは全て瓦礫の中に没してしまい、その状況はもはや打つ手無しのお手上げ状態だ。


 絶望を突きつけられたその瞬間、積み重なった瓦礫の中から悪臭が滲み出し――瓦礫そのものを噴き上げる炎が姿を現した。科学室より解き放たれた炎は猛り、蓮たちを鵺の許へ追いやり始めた。


 翳は蓮を引きずり、流華も椎名と透を炎から離す。炎の勢いは強く、闇に支配された空間に五人の影法師を作る。


 炎によって差し出された生贄のごとく、無力な五人を見下ろす鵺。どれも活きが良く、若さで溢れている新鮮な獲物だ。目を細めて獲物たちをじっくりと吟味した鵺は、天を仰いで勝利の雄叫びをあげた。


 その咆哮が放つ衝撃で足下から吹き飛ばされる五人。それに抵抗する余力もなく、炎と鵺の狭間に追い詰められた。


 考えろ……。この状況……何が出来る……? 


 現実的に考え、四人を立たせて逃げる余裕は蓮にもない。背後には炎に包まれていない部分もあるが、隠れても無駄なことは目に見えている。校舎を崩せるほどの咆哮を持つ相手には無意味だ。格闘は話にならない。頼りのお地蔵様を探そうにも、その動きを悟られるうえに、粉々にされでもしたらそれこそ終わりだ。


 鵺がまた一歩を踏み出し、蓮の身体を震わせる。それが響くたびに冷静な思考が吹き飛ばされ、意味をなさないうめき声をあげさせる。


 考えろ――。


 ひか……り……。


 耳元の聲。蓮はあることを思い出した。


 小瀬川さんが言っていたことが確かなら……。


 最後の賭けに出た蓮は逃げるような素振りを見せた。それに対して蓮をギョロリと睨んだ鵺は強大な一歩で跳躍すると、蓮の側に飛び降りた。ドスゥン、と地面が揺れ、その衝撃は蓮を軽々と吹き飛ばし、地面を転がった彼に向かって鵺は顔を近付けた――。


「ガン……飛ばしてんじゃねえ……!」


 蓮はポケットに手を突っ込み――鵺の瞳に向けて携帯電話のフラッシュを直撃させた。その瞬間、増幅させた光が視界を吹き飛ばし、鵺は苦痛の咆哮をあげながら闇雲に腕を振り回した。


 それを見た蓮は携帯電話を放り投げて透を起こした。


「透、お地蔵様を!」


 破壊された非常階段の位置を確認しながら、燃えている瓦礫の手前に駆け寄った蓮と透は、がむしゃらにガラクタと草をかき分ける。ひしゃげたダンボール箱が吐き出すパソコン用の備品や大量のプリントを放り投げ――。


 透が草の中から――お地蔵様の胴体を見つけた。


「胴体? 顔は!?」


 蓮は側の草を踏み倒し、顔を探すが見つからない。そんなはずは……、とさらに草を踏み倒したその時、


「蓮!」


 翳の声で振り返った蓮が見たのは、体勢を整えた鵺が今まさに咆哮を浴びせようとしている光景だった。


「あーーーー!! 見つけたぞーーーー!!」


 突然、透が叫び声をあげたが、その声に感情は籠っていない。


「ここにあるぞーれぇぇぇーーーーーん!!」


 その叫びである程度興味は引けたらしく、鵺は透のことを睨みつけて動き出した。


 よし……! 付いて来いクソッタレ!!


「俺は先に逃げるからな!!」


 いつものように芝居がかった大げさな仕草。そのまま透は中庭から逃げるように走るが、鵺はその強靭な四肢と筋肉を使ってしなやかに宙を舞い、渡り廊下そのものを軽々と踏み潰した。


 その衝撃と瓦礫から逃れようとした透はバランスを崩して倒れ――その瞬間を狙った鵺は破壊的な牙をガチガチと鳴らしながら飛びかかった。しかし、起き上がった透を流華が盛大に蹴り飛ばしたことで、牙は空を喰い千切った。


 透とともに地面に転がった流華は、間、髪を容れずに鵺の鼻らしき部分を斬りつけた。それは惚れ惚れするほど華麗な一閃だが、鵺は反応すらせずに咆哮で流華を蓮と翳がいる場所まで吹き飛ばした。その先にあるのは瓦礫と戯れる炎だ。


「ルウ!」


 翳は吹き飛ばされて来た流華に飛び付き、彼女の足を掴んだ。代わりに木刀がカランと音を立てて炎の中に飛び込んだ。そして、その側には折れた刀も転がっていた。


 流華が助かったことに安堵した椎名は、鵺への怒りで身体中が燃えあがるのを感じた。自分たちの運命が名前も知らないクソッタレに脅かされている。これがどれほどふざけた状況なのか、それを改めて確認した。


 グガァァァアアガアァァァアアアアァァァァアアアアアーーーーー!!!


 忌々しい咆哮を連れ、鵺はまだ起き上がれていない透に飛びかかった。


「透! これ使え!!」


 椎名は咄嗟にそれを投げつけた。それは首に下げたまま使っていない、鵺には一度も見せていない代物だ。それに気付いた透は身体を回転させて鵺の爪を躱し――取材用のカメラを握り締めた。


「くらえ、クソッタレ!!」


 シャッター音と同時にもう一度、鵺の至近距離でフラッシュが焚かれた。その瞬間、苦痛に満ちた咆哮が中庭中に響いた。五人にとって、今まで聴いてきた音楽の中で最も甘美に満ちたものだ。


「蓮! まだか!?」


 一時的な足止めには成功したが、焦りと死への恐怖から透は思わず叫ぶ。椎名も蓮の側へ向かい、無くなった頭部を探す。胸の前に抱えられるほどのダンボール箱の重量で、石像を粉々にすることは出来ないはずだ。


 流華を助けに行っていた翳も合流し、三人は地面を這って探すが頭部は見つからない。


「どこだ……どこに……どこなんだよ!!」


 堪らず叫んだ椎名の横に流華と透も駆け寄り、五人で探すがそれでも頭部は見つからない。すでに鵺の苦痛染みた咆哮は聞こえない。


 ここまでしても見つからない――まさか!


 蓮は日誌の一部を思い出し、投げ飛ばしたダンボール箱に駆け寄った。人体模型が大鎌で壊したため、中身はぶちまけられているはずだ。微かな希望に賭けてそのダンボール箱を持ち上げ――ゴトリ、と重い音を吐き出し、中からお地蔵様の頭部が現れた。


 蓮はそれを持ち上げて走った。これを戻せば全てが終わる。しかし、その思いに囚われてしまい、背後で鵺が五人に向けて口を開けていることに気付かなかった。


「蓮!! 危ない!!」


 透たちの声がして、振り返った蓮の目に飛び込んで来たのは、雷にも似た鮮烈な渦――鵺が口から放った大輪の華だ。


 危なイ!!


 誰もが目を瞑った時、その聲が響いた。


 光の渦の中で見えたのは――華を散らす小さな後ろ姿だ。それでも激しい衝撃が五人を襲い、透は吹き飛ばされそうになったお地蔵様の胴体を掴み、彼の両足を流華と椎名が押さえた。


「雛さん……! これを……!」


 透から渡されたお地蔵様の胴体を必死に抱き抱えた翳は蓮に手を伸ばし、


「蓮……!!」


「翳……!!」


 伸ばされた翳の腕を掴んだ蓮は、抱えた頭部を振り上げた。


 急いデ……もう……これ以上は……!!


 ギュグァガアアァァァァァアアアアアアアアアアアァァアァァアアァアアアーーーーー!!!


 花子さんの叫びを掻き消すように鵺の咆哮が響いた。全ての元兇。この塀華に敗走し、事件を起こし、たくさんの人を死に追いやった。剰え自分たちを苦しめ、弄んだ。まつろわぬものだろうが、モノノケだろうがどうでもいい。蓮は全身全霊でこの醜い存在を蔑み、こう吐き捨てた。


「お前には……死さえも生温い!! 未来永劫苦しみ続けろ!!!」


 喉が悲鳴をあげるほど叫んだ蓮は、頭部を胴体に叩き付けた――。

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