異界-3
「隠れる場所……間違えたかなぁ……」
これは第二PC室に逃げ込んだ流華の独り言。
隠れ先のPC室には、破棄された旧式のパソコンやマウスとかコピー機が埃と一緒に佇んでいる。音一つない室内に最初は戸惑ったが、それは逆に化け物の接近をいち早く知ることが出来るんだと前向きに捉えて隠れていた。
何しろ流華が見たのはクネクネ蠢く塊とテケテケのような古臭い化け物だ。テケテケの襲来は蓮の助けで切り抜け、謎の塊は耳元の囁きで逃げ切ることが出来た。特に危険だったのは、目が放せなくなった塊の化け物だ。あのまま直視していたらどうなっていたんだろう。
祖母が死んでから自分は弛んでいるのかもしれない。自分の頬を叩き、気合いを入れる。得物があれば少しは強気でいけるのだが、無い物を望んでも事態は好転しない。
情けない自分にかぶりをふった流華は、改めて室内を漁った。ここはまだ片付けられていないようで、残留物は腐るほどある。しかし、いくら漁ってみてもこの状況を打破出来るものは見当たらない。マウスやケーブルであの化け物と戦えるなら話は別だが……。
「あんたは? 少しは手助けしてよ」
マウスを見限った流華はだめもとでパソコンを起動させてみると、気持ちの良い音と共にスクリーンが光った。動いたことに驚きつつ、画面が安定するのを待った。もしかしたら、メールを使って外部に助けを求められるかもしれない。楽観を求めてメール画面を弄くった。
まだ校内に残っているはずの陽なら気付いてくれるかもしれない。「気を付けて」の意味も、こうなることがわかって言っていたのなら大問題だ。もしそうなら、あの心霊写真を撮ったのは彼女なのかもしれない。
そんなことを考えながら、陽の携帯電話に向けてメールを送信する。携帯は圏外だが、何故かインターネットは通じている。どうやらこの空間に常識やルールは存在していないようだ。
救援メールを送信出来たことを信じ、流華は旧校舎で起きたといわれる行方不明事件をネットで調べ始めた。しかし、IT関連に明るくない流華でも旧式であるとわかるパソコンだったため、次の画面に移るにも時間がかかり、温厚な彼女でも苛々するほど待たされ――不可解なことに気付いた。
「これ……二00七年で止まってる?」
正確には、表示されている情報が全て二00七年の三月で止まっている。今年の三月といえば、旧校舎の片付けと整理が行われた月の一つだ。しかし、この実習棟が封鎖されたのは二00五年だ。何か関係があるのだろうか……。
カチ、カチ、と数回押し間違えたのち、目当ての新聞記事を見つけた。
三条学園の生徒六名が行方不明に!
三条学園高等学校の生徒が今月に入って六人も行方不明になった。
二日前に行方がわからなくなったのは
ここで本紙は、行方不明になった六人の生徒の共通点を発見。それは校内に遅くまで残っていた生徒であることだ。最初に行方不明となったのは、
また、一週間前に行方不明になった、剣道部部員の
バチン!!
「うわっ……!」
パソコンの電源が落ちた。流華が押し間違えたよりも、誰かが意図的に電源を落としたように見えたため、彼女は咄嗟に飛び退くと周囲を見渡した。誰かが隠れている可能性を視野に入れて室内を調べるが、誰かが隠れている様子はない。
ほかのパソコンを調べても反応はない。そもそも旧校舎に電気が通っているのか、それを真っ先に気にするべきだったのかもしれない。
嫌な予感に背中を押され、流華は隠れ場所を変えようと立ち上がり――スカートの端を摘まれた。グイ、と明らかに力が加わったその動きに、流華は全身の鳥肌と一緒に固まってしまった。振り返ることも出来ず、何十時間も固まっていたかのような錯覚さえ覚えるほどの恐怖が襲い、冷や汗が頬を伝う。唇が引きつり、脚が震える。振り返る勇気は――。
逃げテ……!!
耳元で聲がした。塊への直視を止めさせてくれた聲の主を捜して流華は反射的に振り返り――化け物を見た。一瞬、流華は自分の頭が壊れたんじゃないかと思うほど狼狽した。だが、目の前の化け物が黄昏を背負って自分に迫って来たことを忘れるほど狼狽は続かなかった。
その化け物は、広い室内の半分以上を埋める体躯を持ち、太陽コロナのように蠢く黒い霧を纏っており、その中から垣間見えるのはドロドロと腐蝕した胴体、折れた刀や矢が突き刺さる虎のような四肢、蛇か触手のようにのたうつ尾、狼のような頭を持つ獣だ。地球上に生きる生物のどれにも当てはまらない異形の双眸が流華を捉え、彼女よりも遥かに巨大で兇悪な口から咆哮を吐き出した。
グガアァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアーーーーーーー!!!
その邪悪な咆哮は流華と悲鳴を木の葉のように吹き飛ばし、その身体を壁に叩き付けた。その際に流華は後頭部を思い切り強打してしまい、床に落ちた衝撃と右耳を貫いた激痛も相まって立ち上がることが出来なくなってしまった。その右耳からは生温い液体が滴る。
「うっ……くっ……」
逃げなきゃ……。その一心で上半身を起こそうとした流華だが、耳の激痛とフニャフニャする視界に加えて頭という指揮系統が完全に混乱してしまい身体が満足に動かなかった。そんな流華に対して迫る化け物だが、
「……流華!?」
第二PC室の近くを歩いていた椎名が飛び込んで来た。彼女は床に転がる携帯電話のライトで流華の姿を認めることが出来たが、それと同時に化け物の姿も見た。
なんだ……こいつ……!!
化け物は室内に飛び込んで来た闖入者を左目で睨みつけた。
「なっ……!」
邪魔をするな。自身を捉えた異形の瞳がはっきりとそう告げた。たった一睨みで椎名の身体は硬直して竦み、やおら動き出した化け物から目が離せなくなってしまった。
化け物は地響きを起こしながら流華に迫るが、怪我でもしているのか、その動きはかなり歪で動作はとろい。おまけに胴体らしき部分からは腐蝕したような黒い塊が垂れ落ちている。手負いなのか、もとからその姿なのかはわからないが、それでも対峙者に与える恐怖は並じゃない。
「……流華!! 逃げろ!」
声をあげる椎名だが、流華は気を失っているのかピクリともしない。その間にも化け物は霧を纏う破壊的な四肢を動かして彼女に迫る。
「おい……!! こっちだ、ほら!! こっちを見ろ!!」
椎名は竦んでしまった身体に鞭打ち両腕をあげた。流華が気を失っているのなら、いくら叫ぼうが無駄だ。それなら少しでも時間を稼ぎ、流華が目を覚ますのを期待するしかない。震える脚では満足に走ることも出来ないのだから。
気を引こうと椎名は必死に両腕を振るが、化け物は聞いていないし、見もしない。双眸に宿すのは倒れた流華だけだ。
このままじゃ流華がバラバラにされる――。
歯を食いしばり、震える両足を奮起させた椎名は、握り締めていた懐中電灯を化け物に向けて思い切り投げつけた。怯まなくても目障りには思うはずだと思ったが、懐中電灯は化け物が纏う霧によって木の葉のように吹き飛ばされてしまった。室内をストロボのような明かりが舞い、安いプラスチックが割れる音に続いて。床に転がる携帯電話のライトも消えてしまった。
第二PC室は完全な闇に閉ざされた。それなら化け物も視界の確保が出来ていないはずだと見た椎名は、僅か手前の記憶を頼りに流華のもとへ駆け寄ろうとして――凄まじい衝撃と同時に彼女は暗闇を舞った。
一瞬の無重力状態。それを理解するよりも先に背中が壁にぶつかった。吐き気を伴うほどの痛みに全身を貫かれ、床に叩き付けられた椎名はもがきながらうずくまることしか出来なかった。
グガァァァアアァァアアアァァァァァアアアアアアーーーーーー!!!
室内を揺るがす咆哮。それは歓喜を帯びているようにも聞こえた。
このままじゃ二人とも死ぬ……!
椎名は口内に顔を出した異物を吐き捨て、無理矢理目を開けた。
痛みで泣くのはあとで……今は――。
床と繋がる口を拭いながら、無理矢理上半身を起こした椎名は自分の携帯電話を取り出そうとしたが見つからず――その時、近くに落ちていた流華の携帯電話が叫んだ。悲鳴のような、叫び声のようなそれは椎名の知る着信音ではなく、室内の片隅に吹き飛んでしまった椎名の携帯電話も呼応するように叫び始めた。
何でこのタイミング……と焦った椎名だが、化け物は椎名の携帯電話に大きく反応した。それはまるで殴られたような動きで、ギョロリと双眸を携帯に向けるとうがいのような唸り声をあげながら隅へ向かった。
今のうち――今のうちに流華を……!
揺らぐ視界と脚に鞭打ち立ち上がった椎名は、痛む頭を押さえながら流華へ駆け寄る。いつの間にか悲鳴は止み、携帯電話そのものが発する光が流華への道標になっていることに気付き、椎名は転びそうになりながらもその携帯電話を拾い上げた。
流華が倒れている場所を手探りし――彼女の細い腕を掴んだ。下手すれば折れてしまいそうなほど繊細な腕を掴んだ椎名はそのままがむしゃらに引っぱり、廊下へ引きずり出そうともがき――。
光……光を……。
また耳元で誰かが囁いた。
切迫した懇願――それが何を意味しているのか、頭ではなく本能で理解した椎名は――目の前から聞こえてくるうがいのような唸り声と双眸に捉えられた。それは携帯電話が発する僅かな光でさえも増幅させて自らを主張する異形の瞳――。
光……光ヲ……早ク……!!
「ひかりぃ……!?」
がなる囁きに椎名は思わず叫んだ。どうやって照明を点けろと言うのか、それを込めての悲痛な返事だったのだが、それに対する返事はなく――隣の闇から伸びた小さな手が携帯電話を叩き――携帯電話のライトが点いた。
闇を引き裂く強烈な光――化け物は驚愕の悲鳴をあげて大きくのけぞった。
それは椎名も同じだったが、微かな光さえも増幅させて発光する瞳を持つ化け物にとって、目と鼻の先で放たれたフラッシュは遥かに危険なものだった。
ゴボゴボとうめき声をあげながら化け物は自らの瞳を庇う。
椎名はその光景に対して意地の悪い笑みを浮かべると、携帯電話を突き出しながら片手で流華を抱き起こした。息をしていることを確認し、そのまま後退りしながらドアに近付いたが、化け物の必死な睨みに脅されたドアが勢いよく閉まってしまった。
まずい……閉じ込められた……!
今は光を恐れて遠巻きにしている化け物だが、目を閉じて突っ込めば勝てるということを思い付くのは時間の問題だろう。
椎名は流華を引きずるようにして、もう一カ所のドアに駆け寄ったが、案の定施錠されている。
クソッタレ……このままじゃ……。
「小瀬川さん? そこにいるんですか?!」
絶望を吹き飛ばす穏やかな声――一縷の望みを賭けた椎名はドアに飛びついた。
「蓮、ここを開けて!! 化け物が……早く!!」
その声は震えており、いつもの彼女からは想像出来ないほどか弱い悲鳴だ。
「下がってください!!」
その声と同時にドアが揺れた。撃ち開きだから離れないと危険だが、少しでもドアの側に張り付いていたかった。
ドシン! ドスン! ドドン!!
早く……早く開けてよ!!
焦りで叫び出しそうになりながらも椎名は歯と両足を食いしばり――。
「小瀬川さん!!」
五回目の衝撃でドアが勢い良く開き、蓮が転がり込んで来た。スポーツ選手のように立ち上がった蓮の肩は血で染まっており、無茶させてしまったことに心を痛めた椎名だが、今は詫びている暇などない。
グガァァァァアァアァアアアァァァアアアアアアアーーーー!!!
吹き飛ばされそうな咆哮に背中を刺された椎名は竦み上がり、蓮もその咆哮から発せられる邪悪さに足が竦んでしまった。それは獣の咆哮とは違う、魂を直接揺さぶる邪悪な咆哮だ。
気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな咆哮に耐えた蓮は懐中電灯を化け物に向けた――その瞬間、化け物は目を閉じたまま、霧を纏った巨大で破壊的な鉤爪を振り上げ――。
ダメッ!!
その聲と同時に、蓮と椎名の間を衝撃にも似た風がすり抜け――化け物に立ち塞がった。
逃げテ! 早く……!!
顔をあげた二人に見えたのは、化け物の手前で揺れる白い人影。見間違いでも勘違いでもなく、その白い人影は化け物に立ち塞がっている。しかし、それが誰なのか確認する余裕はなく、蓮はその聲に従って二人と一緒に第二PC室から脱出した。
椎名に支えられている流華は息をしているものの、右耳から血を流しているうえに気を失っている。椎名のほうも足取りがおぼつかないため、蓮は痛む肩を無視して支えなければならず、痛みで歯を食いしばる。ドアを破る時にも無茶をさせたが、これ以上の酷使は危険かもしれない。
「隠れ家に! 立ち止まらないで……!」
隠れ家に向かって走っていると、廊下の奥に翳が現れた。その姿を認めた蓮は呼びかけたが、彼女は応えず蓮と椎名と流華の背後を凝視している。それは真横を通り過ぎても変わらず、流華を椎名に預けた蓮は翳に駆け寄り――。
グガァアァァガァァアアアアアアアアァァァァアアアアァァァアアガァァァァーーーーー!!!
その咆哮が告げるのは純粋な憤怒だ。あの聲による足止めは限界のようで、化け物は悠々と姿を現した。その動きがとろいのが唯一の幸運かもしれない。
「ったく……モテる女は辛い!」
毒づく椎名を背中に、蓮も化け物を凝視した。さっきはよく見えなかったが、今ならはっきりと見える。あの黄昏を背負っていた化け物と同じだ。
化け物は巨体を廊下に引きずり出すともう一度咆哮をあげた。蓮にはそれが、獣が仲間とコミュニケーションを取る遠吠えのようにも聞こえた。すると、その遠吠えに呼応するかのようにキーキーという咆哮が響き――化け物の背後からテケテケが四体も姿を現した。その内の二体は蓮と椎名を追い回していた個体だ。
「あいつら……また!」
椎名は自身を追いかけ回したテケテケに気付いた。皮肉にもその個人的な怒りが身体のふらつきを和らげたため、蓮の支えなしで歩き出した。
「翳さん! 逃げますよ! 小瀬川さんも行ってください!」
化け物を凝視したまま動かない翳の腕を掴んだ蓮は、椎名と流華の背中を追って走り出したが、背後から飛びかかって来たテケテケの鉤爪を躱した所為で、隠れ家とは反対側の廊下に倒れてしまった。
「蓮!!」
逸れることを危惧した椎名だが、フライングして飛び込んで来たテケテケに続いて三体が我先にと押し寄せて来た。
「……別の道で行きます!」
蓮は翳を連れて教室棟のドアを抜けた。
二体のテケテケはそれを追い、閉められたドアに体当たりを喰らわす。そして、残りの二体は――同じブレザーを身に纏い、一体は割れた眼鏡に三つ編みのテケテケと、もう一体は獅子のようなくせ毛と端正な顔立ちを持つテケテケで、ずぶ濡れの全身には切り刻まれたような惨たらしい傷痕がある。その二体は椎名と流華を狙い、ギーギーと咆哮をあげた。
モテる女ってやつぁ……!
一方的に追いかけ回されても、逃げることしか出来ないことを怨みつつ、椎名は女子トイレ横の階段の手前に向かい――あるものを見つけた。
それは、扉としてはそれなりに頑丈な防火扉だ。椎名は悪いと思いつつ、流華を床に放り投げると防火扉を力任せに叩き閉めた。あの強靭な鉤爪に持ちこたえられるかどうか……それでも今は時間を稼ぎたい。周囲に音が響くのを気にもせず、側にあった掃除用具入れのロッカーも引き倒す。これなら体当たりされてもある程度は耐えられるはず。
流華を抱き上げ、転がるように階段を下りる。テケテケへの苛立ちがアドレナリンを出しているのか、痛む頭も身体も今は気にならない。自分が出せるとは思ってもいなかったほどの力で階段を突破し、二階と同じ構造の廊下を見渡した。
右隣にあるのは大きな図書室だ。室内で一階と二階が繋がっているため、隠れ場所はそれなりにある場所だ。しかも重たい本は角で叩けば頼もしい武器になる。
本は武器よりも強しだ。
椎名は流華を支え直し、引き戸を開けようとして――引き戸が開き、誰かの手が椎名の腕を掴んで室内に引きずり込んだ。
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