鳥瞰する空-2

 枕元に置かれた携帯電話が鳴り、整頓された個室にクラシックの着信音が鳴り響く。そのクラシックに呼応するように毛布が蠢くと、中から白くか細い腕が伸び、携帯の演奏を止めた。


『さっき家を出たからもうすぐ着くよ』


「……もう?」


 簡素なメールの内容を確認した椎名流華しいなるかは、もう一度枕に顔を落とし――飛び起きた。


「! もう来んの?!」


 使っていない目覚まし時計を掴むと、時刻は八時丁度。


「アラームは……」


 鳴らなかった携帯のアラームを確認すると、すでに三つの予約がオフにされていた。それはつまり、自分が寝ぼけたまま止めていたということだ。


 吐きそうになっていた携帯への毒を飲み込み、流華は早足で自室を出た。遅刻カウントを阻止するには、朝食抜きで身支度を整えなければならないうえに、メール相手とは家がそこまで離れていない。ということは、今から顔を洗って身支度を終えて家を出るまで十分あるかないかだ。このメール内容が信用出来るなら。


 洗面所に着いた流華は、長い髪をヘアバンドに任せて顔を洗う――。


「流華ー! 椎名ちゃんよー」


 はい?


 下から母の声がして、流華は濡れた顔を拭いた。メールを受けてから五分も経っていない。完全なる奇襲だ。


「ちはーす! 流華〜今日も重役登校かー?」


 溌剌とした声が玄関を越えて洗面所にまで届いた。流華も思わず大声を返す。


「朝は苦手なの……知ってるでしょ?!」


「六歳の時からなー」


 大声で切り返し、カラカラ笑うのは小瀬川椎名こせがわしいなという名の女子生徒だ。動くたびに揺れるサイドポニテと羽織っただけのブレザーが特徴である。


 出会いは小学一年生の時。互いに椎名という名前を持っていたことがきっかけですぐに仲良くなった。その交流は今でも途切れることなく続いている。


 流華は簡単な洗顔を終えると玄関に姿を見せた。


「今日もちゃんと起きれたって……朝食抜きになるけど……」


 そう言って肩をすくめた時、流華は椎名が持っているあるものに気付いた。


「……しーな、何でカメラを持っているの」


「はは、そりゃあ激写するために決まってるだろー」


 そう言うなり椎名は流華を撮る。


「なに撮ってるの!」


 すかさずカメラを取り上げる流華。その素早さは朝が苦手だと宣言している人の動きとは思えず、椎名はあっさりとカメラを取り上げられてしまった。


「椎名家ご令嬢のスッピンと家着ジャージを」


「普段とスッピンは変わらないよ――何言わせるの!!」


 背伸びして椎名の頬を抓る流華。


「あの……全部ご自分で言ってましたが……」


「とにかくこれは家を出るまで没収します」


「あーん」


「絶対言わないよね、あーん、なんて」


「没収されるとはなー。でも……動画はありだよな」


 そう言うと椎名は学生バッグに忍ばせていたビデオカメラを取り出し――玄関に大きな衝撃音が響いた。


 改めて洗顔を終えた流華は自室に戻り、取り上げたカメラをベッドに置き、編みかけのマフラーを机から移動させた。それは好い人への大切なプレゼントだ。何よりも大事に扱わなければならない。


 流華は絨毯に腰を下ろし、お気に入りの化粧水をつけながら卓上鏡に映る顔を凝視する。左目が隠れるほど伸びた髪を留めている自分の顔は、十七にしては童顔に見える。華奢な身体も童顔を引き立てているため、おそらくこれは一生悩む課題になるだろう。


 支度を終えた流華はネクタイを結びながら階段を駆け下りた。


「お母さん、朝食抜きで行くね」


「はいはい、ほらお弁当」


 のんびりとお茶を飲んでいた母親から弁当を受け取り、流華は門の前で空を見ている椎名と合流した。


「おまたせ。家を出る前にメールしてよ。さっきみたいな奇襲はやめて」


 カメラを椎名に返す流華。


「たまには変化球がいいと思ってなー」


 そう言いつつ、椎名はまた流華を撮る。


「もうっ……! 勝手に撮るのもやめてよね」


 もう一度椎名からカメラを取り上げた流華は、メモリーカード内の自分が写る写真を根こそぎ一掃した。もちろんビデオカメラの中身も忘れずに。


「変な写真を隠し持っていたら、いつか訴えるからね」


「そのカメラにはもう入っていないぞー」


「そのカメラには……?」


 見るとカメラには小さく新聞部備品のシールがあり、流華は椎名を睨みつけた。


「はは……とりあえず行こうかー遅刻するぞ」


 椎名に促され、流華は肩をすくめる。あとでそっちも一掃しよう。その決意を連れて椎名の横を歩く。


「オールスターも終わったし、次は日本シリーズだなー」


 歩きながらおしゃべりを続ける椎名の横顔を見ながら、流華は小さく息を吐いた。


 椎名のとぼけたような仕草や、笑えない失敗にも好意を抱いているが、一つだけ彼女に嫉妬にも似た羨望を抱いていることがある。それは椎名の外見だ。椎名は彼女と違って背が高く、小さい頃から大人びた顔付きをしていた。それゆえに彼女はナチュラルメイクだけでも十分大人びた印象を纏う。打って変わって流華の方は身長がろくに伸びなかった弊害と童顔の所為で、今でも酷い時には小学生と間違われる。それがコンプレックスだが、大好きだった祖父母も揃って華奢だった。


「どしたー? まだ眠いか?」


「ああ……ちょっと考え事」


「ふん? 大丈夫だぞー写真は悪用しないから」


「無許可の時点で信用出来ないよ」


 椎名はそれを聞いてカラカラと笑った。


 笑い事か?


 流華はかぶりをふって、先ほどの長考を振り払う。


 二人は蝉の合唱が響き渡る通学路を進む。道路を挟むように植えられた街路樹が日陰を拵えることで、暑さを幾分和らげてくれているおかげか、風の通りがあって涼しい。


「風があっても暑いなー。夏だから仕方ないけど……」


「それならブレザー脱ぎなよ」


 椎名は何故かブレザーを羽織っている。それは夏も例外ではない。どちらかというと見ている方が暑くなる光景だ。


「あーそうなんだけどさー……なんつーか、脱いだら寂しいというか……」


「寂しい?」


 その言葉は意外だ。去年も同じやり取りをしたが、寂しいなんて言葉は出なかった。


「こう……何かに包まれていたいって気持ちだな」


 包まれていたい……そういえば。


「確か……しーなって小さい頃からバスタオルとかに包まれているのが好きだったよね。私の家に泊まりに来た時には布団を何枚も重ねていたし……見ている方が暑かったよ。半袖を嫌がるのはそれが原因かな?」


「あーそういえば……死んだ母親がしょっちゅうあたしのことをタオルとかで包んでたかなー」


「お母さんの所為だったんだね、あの簀巻きは。今は天国か……」


 椎名の母親は、彼女が十一歳の時に亡くなった。今は父親と二人で住んでいる。


「天国が存在するかは置いといて……なんで包んでたんだろうなー? 我が親ながら意図不明」


 笑う椎名に釣られ、流華も笑う。しばらくたわいない話をしながら進んでいると、登校する生徒の数が増えだし、椎名は前を歩いていたとある人物の後ろ姿に気付いた。


「ひな先輩! おはよーございまっす」


 振り返った上級生に手を振る椎名。それが誰なのか流華にもすぐにわかった。それは三年生の大鷲陽おおわしひなただ。椎名が所属する新聞部部長の女子生徒だ。


「二人ともおはよう。椎名はいつも元気ね」


「それが取り柄ですからー。あたしに元気がなかったら、いよいよ終わりですよ」


 笑う陽と流華。たしかに落ち込んだ椎名を見たことはない。


「流華の方も元気にしている? たくさんご飯食べて――」


「ご飯をたくさん食べれば成長するものではないですよ、身長は」


 今度は陽と椎名が笑った。


「ふふ、それはそうとして……。椎名、ちゃんとネタは考えてきた?」


「ええ、もちのろんです。まさに打ってつけのネタがありますよって」


「そう、じゃあ……明日を楽しみにしてるからね」


 そう言うと陽は一足先に昇降口に向かった。


「ネタって、ちゃんと考えてあるの? つい昨日まで白紙だったでしょ」


「ちゃんと考えたよ。発行される時期にピッタリなやつをなー。何だと思う? ヒントは夏だ」


「夏かぁ……それだと花火、海特集とか? あっ……でも発行は九月だから夏にピッタリなことって手遅れじゃない? 確か今月号が海特集でしょ?」


 そう言うと、椎名はうなだれてしまった。それに気付いた流華はかぶりをふる。


「まさかと思うけど、今月号の特集が何か忘れてたでしょ?」


 大げさな仕草で椎名は大空を仰ぐ。


「あの雲メロンみたーい」


「では大鷲さんに土下座ですね」


 時折やらかす椎名の笑えない失敗だ。部活会議にちゃんと参加しているのか心配になる。


「するてぇと……明日の朝までにネタを考えれば良しってことかい?」


 たかだか高校生が作る新聞にそこまで、と言ってしまえばそれまでだが、新聞部の存在を否定しかねない発言になるため控える。


 もう、大丈夫かな……。

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