第弐幕 鳥瞰する空
二00七年七月二十四日、火曜日。
リリーン、チリーン、リリーン。
それは風鈴の音。穏やかな海から運ばれる潮風によって演奏される風流という曲だ。
暑くとも穏やかな一日を迎えられそうな心地良さを全身で感じ取った
両親の仕事の都合で、彼だけが叔父の月河信吾が経営する民宿凪凪に居候することになったのが今年の三月末。突然決まったことだったが、顔合わせの際に叔父家族は嫌な顔一つせず、息子が一人増えたと笑って歓迎してくれた。今まで親戚中を盥回しにされてきた蓮にとって、笑顔で迎えてくれたことがなによりもうれしかった。
迎えてくれた初日のことを思い出しながら、蓮は畳に別れを告げて身体を起こした。自室として宛てがわれた雲海の間は六畳の客室だ。叔父曰く、客室の中で一番風通しが良い部屋だそうだ。事実、部屋の窓からは一面に広がる大海原を臨むことが出来るし、小型冷蔵庫とテレビ、エアコンに文机、和箪笥と押し入れまである。ここは蓮が今まで回されて来た場所のどこよりも最高の環境だ。
蓮は運ばれた潮風の味を深呼吸で咀嚼してから窓を閉め、鴨居に掛けられた時計を見上げた。古びた壁掛け時計が示すのは、六時八分。ここを出るまで充分な余裕があるため、洗面具と着替えを持って朝風呂に向かう。
雲海の間を後にして二階に上がり、浴場に通じる渡り廊下前に掛けられた暖簾で男湯の時間であることを確認。男女の時間割は把握済みだが、万が一を考えると確認は重要である。
その重要な確認を済ませ、渡り廊下を進む。ここは手摺と屋根を支える柱しかないため、潮風を全身で感じることが出来る場所だ。暑いながらも清々しさを味わえるとして、夏は宿泊客の憩いの場所らしい。ただ、海の機嫌が悪い日はヒヤヒヤさせられる場所になるそうだ。
大浴場と書かれた札を横目に、蓮は殺風景な――昭和レトロを彷彿させる脱衣所に入る。天井は高く、浴場に通じる引き戸のそばにはコーヒー牛乳やアイスクリームが入れられた冷蔵庫が設置されている。今日はフルーツ牛乳にしよう、と決めて服を脱ぐ。脱衣所に人影はないが、見覚えあるパジャマが籠に放り込まれていた。それが誰のものかはすぐにわかった。
畳んだ服を籠に入れ、浴場へ向かう。凪凪の湯船は一般の銭湯と変わらない構造だが、三つの湯船の内、一つは蓮が絶句したほどの湯船が鎮座している。
身体を洗い終え、湯船の端に向かう。そこには仰向けで浸かることが出来る寝風呂があり、パジャマの主もそこにいる。
「やあ、おはよう蓮。君も朝風呂かい?」
目を閉じたまま振り返らずに透は言った。この時間帯の朝風呂客は二人だけだ。ましてや蓮の足音を透は把握している。
「おはようございます。ずいぶん早いですね」
「はは、それはお互い様だろ? 朝風呂は気持ちが良いからね」
蓮は頷き、隣の寝風呂に入る。
しばらく互いに無言で朝風呂を満喫していたが、不意に透が口を開いた。
「どうだい蓮。ここに来て約三ヶ月……だいぶこっちの生活にも慣れたんじゃないかな」
「そうですね、だいぶ――いえ、まだ戸惑うことのほうが多いです」
それを聞いた透は、芝居がかった動きで両腕を左右に広げた。
「相変わらず……ですます調だね」
「はあ……これは――」
透は右手でそれを制止する。
「いいかい蓮。世間一般では従兄弟同士の交流はないに等しいそうだよ? それに比べて君と俺はかなり親しい間柄と言える。小さい頃からの交流が思春期を過ぎても続いているからね。それだのに君は未だに他人行儀だ。同じ釜の飯を食い、同じ湯船に浸かる仲なのに」
「はあ……この口調は癖のようなもので、長らく身に付いていたものはすぐに変えられませんよ……」
飯や湯船はともかく、確かに自分の口調は他人行儀に聞こえる。同級生にも敬語だし、転校するたびに皮肉られたりもする。
「ふむ。盥回しにされていた時に身に付いた口調というわけかい?」
そう訊くと蓮は渋い顔をして口を閉じてしまったが、自分の顔を一度洗うと話してくれた。
「ほとんどの家は居候なんて歓迎してくれませんよ……。生活費や教育費は親が出しますが、落ち着ける我が家に異分子が存在するということはかなりのストレスですし……」
「……異分子扱いは応えるね。ここは民宿だから、蓮が一生住んでいようが違和感にはならない。だけどそれが一般家庭となれば話は別か。一人暮らしの選択肢はなかったのかい?」
「提案はしましたが、生活費を出すのは親ですし……」
「なるほど……わかった。口調を改めろとは言わない。それも蓮の魅力として受け止めるよ」
透は肩をすくめると、寝風呂に身をさらに深く沈めて蓮を見た。
一見すると、鍛えられた身体と無表情な強面に目がいくが、見た目に反して蓮の性格は温厚で真面目だ。やや無口な傾向にあり、自分から積極的に話題を提供することは少ない。それは盥回し時代に身に付けた態度らしい。苦労してきたからか、蓮は同い年には思えないほど落ち着いている。
そんなことを考えながら、透は眠りに落ちない程度に目を閉じる。
「先に出ますね」
三十分ほど寝風呂を満喫した蓮は湯船から上がる。すると、その背中を透が呼び止めた。
「蓮、ちょっと待った。今日は何か予定あるかい?」
「はあ……予定ですか? 今のところ……ありませんが」
「ちょうどいいね。それならデートの約束をしてくれないかな?」
「デート……どこかに買い物ですか?」
透はうつぶせになり、蓮を見る。
「違うよ。放課後、校舎横にある旧校舎を探検する予定なんだけど……一人じゃ雰囲気が出なくてね。一緒に探検気分を盛り上げてくれる相棒を捜しているんだ。どうだい?」
「気分を盛り上げる……ですか。それなら別の人に頼んだほうが――」
「じゃあ決まりだね。放課後になったら迎えに行くよ」
「はあ……わかりました」
「あっそうだ。昼食だけど……蓮に頼んでもいいかい? サンドイッチを三つ欲しいな。材料代は後で支払うよ」
サンドイッチ……。
「俺の手作りでいいんですか?」
「ベーコンと玉子を入れてほしいな。この間ごちそうしてくれた時の味が恋しくてね」
「わかりました。放課後に渡しますね」
「ありがとう。楽しみに待っているよ」
旧校舎探検。あまり興味が湧かないが、予定が無いのも事実。断る理由も見当たらないため、とりあえず承諾した。
「では先に」
蓮は浴場を後にした。透はいつも一時間近く入るため、一緒に出ることはない。
学園指定のワイシャツに着替え、雲海に戻る。時間は六時四十四分。朝食と昼食の用意には充分な余裕がある。
自室の小型冷蔵庫からいくつかの食材を取り出し、炊事場を目指す。そこは二階にあるため、また階段を上がり、
「グーテン・モルゲ〜ン〜。あたしの運命の人よ〜」
途中で呼びかけられた。声の主は一階にはおらず、立ち止まった蓮は声の出所を見上げ――。
「こっち〜だよ〜蓮く〜ん」
導きに従って見上げてみると、二階の手摺に座り込んでいる女性と目が合った。彼女は子供のように両足を揺らしながら蓮を見下ろしており、片手にはビーフジャーキーの袋が握られている。
「運命の人ですか……もう何回も言いましたが、人違いかと……」
「チミチミ〜そんな謙遜しな〜いの〜。あたしと蓮くんは〜運命の紅い糸で結ばれておるのですから〜」
微笑みながら小指を立てるのは、ぼさぼさの黒髪と好奇心旺盛な猫を彷彿とさせる大きな瞳を持った
透曰く、一年前から連泊している変人――個性的な小説家らしい。素足で民宿周辺を徘徊、壮大な鼻歌を独唱するなど奇行を取り上げたらきりがないそうだ。
四月に出会ってからというもの、何の因果か蓮は求愛を受けている。どこまで本気なのかわからず、振り回されてばかりいるが、それでも蓮は彼女を無視するような態度はとらない。
「謙遜では――いえ、それよりも手摺の上に座るなんて危険ですよ。落ちて怪我したら……」
「それは弱るね〜。でもそうなったら蓮くんが――」
そう言うと翳は手摺から飛び降り――食材を捨てた蓮は彼女を受け止めた。ドスン! という音がして、木造階段を大きく揺らしたが、幸いにも階段は耐えてくれた。この時ばかりは自分の恵まれた体格と鍛えた筋肉に感謝した。翳が華奢であったことも吉と出たが、それでも一歩間違えれば大怪我に繋がる危険な行為だ。だから、
「正気ですか……! 突然飛び降りるなんて!」
「ごめんね〜でも、蓮くんが受け止めてくれるって信じてたよ〜」
照れるように笑う翳。その表情を見て、蓮は小さく息を吐いた。
まったく……この人は……。
「……受け止められなかったら怪我どころか、階段を弁償するところでしたよ……。ここに住めなくなるところでした……二度としないでください……!!」
厳重注意をし、食材を拾う。割れるものが入ってなかったことも幸運だった。
翳の横を抜けて階段を上がり、通路の奥にある炊事場へ向かう。途中にある客室には誰もいないため、この炊事場を使っているのは蓮だけだ。
共用の大型冷蔵庫の中から、名前を記入したビニール袋を取り出す。その中から野菜を取り出し朝食と昼食の支度を始める。すると、背後から翳がひょっこりと顔を覗かせた。前世の影響なのだろうか、行動の端々が猫のようだ。
「チミはいつも自炊していて感心だね〜。透くん家族と同じ食卓は〜?」
「さすがに一年間も同じ食卓は……それに、家族の団欒によそ者がいては迷惑かと……」
「ふ〜ん?」
なるほどね〜距離をとるのは蓮の方か〜。
翳から髪を弄られつつ、蓮は過去に対して眉を顰めた。透が言ってくれたことはうれしいが、どうしても団欒の中に入って行くことは出来ない。どうしてもよそ者だという罪悪感があるのだ。九歳の時には――。
「ね〜ね〜」
翳の声で我に返る蓮。止まっていた腕をつついている翳に気付き、見ると彼女は口を開けたまま動かない。その意味に気付いた蓮は、取り除いたパンの耳を彼女の口に運んだ。
「自分の朝食を食べてくださいよ」
「ん〜? あたしは自炊出来ないよ〜? 基本的に缶詰生活だからね〜ご飯は出前か冷凍、たま〜に外食〜?」
蓮はかぶりをふる。彼女の家庭環境は知らないが、食が乱れている生活をしていることは想像出来ていた。そのまま食材を足し、翳の分のサンドイッチも作った。自分の分は量を少なくし、透と翳に優先させた。それぞれをラップに包み、彼女に三つ手渡す。
「朝食と昼食分です。若いうちから出来合いのものばかり食べるのは感心しませんよ。バランスを考えないと……」
「わ〜い、チミのご飯はおいしいから好きだよ〜。いずれは毎日食べさせてくれる関係になることを楽しみにしているよ〜」
翳はサンドイッチを大事に持ったまま自室へ向かうが、途中で立ち止まり振り返った。
「あ〜そうだ、蓮くん、放課後にデートしたいな〜」
蓮は自分のサンドイッチを食みながらかぶりをふる。
「生憎、今日は透との先約がありますので……」
「透くんと〜? 抜け駆けとは……こすいな〜」
「こすい?」
首を傾げる蓮。翳は時折片言の外国語や方言を使う。
「狡いって意味だよ〜。蓮くんはあたしよりも男を選ぶのね〜」
大きな目をわざとらしく滲ませる翳。
「恋人同士じゃないでしょう? 片付けと登校の支度があるので、私はこれで」
時計を見ると七時二十分。
蓮は片付けをしながら、使った食材の補充メモを書いて冷蔵庫に貼っておいた。後で透が確認してくれるだろう。
鳥瞰する空-2へ続く。
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