第2章 闇にとける校舎

第壱幕 兆し

 二00七年三月。


「沖田せんせー。このゴミは外っすか?」


 生徒の声に気付いた沖田は、両手に抱えていた掃除用具を手近な机に置いた。その衝撃で埃が鼻の近くまで舞い、その臭いと不潔さに眉を顰めた。


 マスクの定位置を調整しながら、沖田は廊下に顔を出す。


「ああ、今日出たゴミは全て中庭に置いておけばいいそうだ。そこのドアを抜ければ二階からでも中庭に下りられるから」


 沖田が指差す先は、チカチカと頼りない点滅を繰り返す非常口のマークに見下ろされたドアだ。


「りょ〜かい」


 気のない返事をして、生徒はドアを抜けた。沖田の言う通り、その先には草が無秩序に生い茂る中庭が広がっており、錆びて頼りない外階段が草の海に通じている。


 ガチャン! ガシャン! ガガン!


 静寂の廊下を揺るがす轟音。ビクリとした沖田は身構えたが、それが中庭からの音だと気付いてかぶりをふった。いくらゴミとはいえ、放り投げるのはいただけない行為だ。下に人がいたらどうするんだと注意しに行こうと振り返ったが、足下に倒れ込んで来た埃付きのケーブルの束を見、一段落後の注意に切り替えた。


 沖田がいる場所は、旧三条学園高等学校の旧実習棟二階、第一PC室だ。


 この旧実習棟は、二00五年に新実習棟が建てられるまで現役で使われており、内装は古くとも設備や実習室は充実していた。そのため旧実習棟の封鎖に伴い、PC室や図書室、視聴覚室に置かれていた備品などは新実習棟に移動させられた。だが、使えない備品等はほとんどが捨て置かれ、今日まで埃をかぶったままになっていた。そんな旧実習棟に対し、校長先生がついに撤去の御触れを出した。それに伴い、残された備品の廃棄が課題となり、こうして教師や生徒たちを巻き込んだ撤去兼廃棄作業が定期的に行われるようになった。


 今日は沖田が生徒数人を伴い第一、第二PC室、廊下をまたいだ隣にある第一視聴覚室、一階の第一調理室を整理しに来たのだ。


 第一PC室のパソコンは全て運び出されていたが、壊れた機材、デスクや棚は残されているため、積まれたダンボール箱も手伝って室内は非常に狭く混沌としていた。


「さっきの物音は中庭からですか?」


 積まれた机の陰から、壊れた卓上ライトを二つ抱えて現れたのは、今年で二年生になる月河透つきかわとおるという男子生徒だ。


「おそらく階段から中庭に向かって放り投げたんだよ」


「やれやれ、これだから粗暴な奴は……高校生になっても知能は小学生以下ですね」


 卓上ライトをダンボール箱に詰め込みながら、透はあからさまの溜め息をついた。


「それにしても……予想以上に混沌としていますね。普通は業者かなんかに頼むはずでは?」


「予算の関係かもね。だからこうして校則違反者や君のようなボランティアに協力してもらっているんだよ、きっと」


「まあ……旧校舎に入れるわけだし、悪い話ではなかったですけどね」


「ほう? 透くんは旧校舎に入りたかったのかい?」


「ええ、色々と好奇心をくすぐるものがありそうなので」


「それも好奇心をくすぐるものなのかな?」


 沖田はそう言いながら、透が着ているブレザーの右ポケットから顔を出している紙切れを指差した。


「ああ、これはただの学年便りですよ。さっき廊下で拾ったんです。あげませんよ?」


 芝居がかった動きで学年便りを隠した透を見、沖田は両手をあげてみせた。


「好奇心を満たすものが多そうなのは……教室棟と本棟の方ですかね。ここは封鎖が最近ですからつまらない。残っているものは最近のものばかりだし……」


 透の好奇心をくすぐるものがなんなのか沖田にはわからないが、一つだけ同じ考えを持っていることはわかった。ついニヤリとした沖田は、ポケットの中をまさぐる。そこには南京錠の鍵がある。本棟の昇降口や教室棟に入る鍵は持ち出せなかったが、旧実習棟から教室棟に通じるドアの鍵をごまかして持って来たのだ。


 沖田は弾む心を連れて廊下に顔を出した。蛍光灯が頭上でジージー、と唸る以外に物音や人影はない。


「……どうかな、透くんも教室棟を少しだけ見に行くかい?」


 鍵を取り出し、透にも見えるように小さく振ってみせた。


「鍵ですか、生徒を誘うなんて不良教師ですねぇ」


「はは、俺も見たい場所があるんだよ。それで?」


「御供します、お代官様」


「そちもワルよのう。よし、決まりだ。お互い素知らぬふりで行くよ」


 互いに警戒しながら廊下に出る。透が第一視聴覚室横にあるトイレから階段を見張っている間に、沖田は教室棟に通じるドアを塞ぐ南京錠を外した。ガチャ、という前向きな音を確認し、手招きで透に合図を投げた。


 閉め切られた教室棟に明かりは無く、窓はベニヤなどで封鎖されている所為で二人の携帯電話のライトだけが唯一の光量となっている。


「埃っぽいですね……先生はどちらへ?」


「一階。……保って十分が限界だ。それ以上は誰かに目撃される可能性があるから、そのつもりでね」


「了解です」


 沖田が一階に下りて行くのを見送った透は、目的だったドアへ早足で向かった。そこは教室棟の南側にある非常階段を隔てるドアで、内鍵を開けて外を確認する。蜘蛛の巣まみれの非常階段と遠目に見える下校中の三条学園の生徒たち。ほとんど人目に付くような場所ではなさそうだ。そっとドアを閉める。


 侵入の誘いには驚いたが、透にとってはその誘いも幸運だった。これで奇策を弄することなく次の侵入が可能になった。もちろん解錠を気付かれなければの話――。


 ガシュッ!


 しめしめとドアを閉めた瞬間、近くで物音がした。透は殴られたように振り返ったが、揺れる光の中に音を発するようなものは見当たらない。耳をすませ、自分以外の存在が発する気配も探るが、それらしい気配も吐息も感じられず――側にある二年D組の引き戸が微かに開いていることに気付いた透は、反射的に身体を壁に寄り添わせた。


 やぁ……さっきはどこも開いていなかったと思うけどなぁ……。


 縋るように携帯電話を握り締めたまま、透は慎重な足取りでD組に近付いた。旧実習棟の階段を警戒していた時も、侵入してからも追跡者の気配はなかった。沖田が物音の正体とも考えられるが、可能性は低いし、黙って引き戸を開ける必要もない。誰だか知らないが、この状況において黙ったまま人の背後を抜けて行くような輩は気に入らない。


 透は自身を抑制しつつも怒鳴りつけてやろうと勢いよく引き戸を開けて飛び込み――教室内には誰もいなかった。室内を照らしてみるが、秩序良く積まれた机と椅子、落書きされたままの黒板と私物が残る生徒用ロッカーがあるだけで、何者かが隠れているような痕跡は見当たらないうえに、床には大量の埃が群生している。


 自分の勘違い、ただの空耳だったのか。肩をすくめた透は教室から出ようとし――足を止めた。足下で奇妙な違和感がしたため、ライトを当てた。すると、そこには巨大な爪痕が残されていた。


 一瞬、その光景を疑った透だが、すぐに屈み込んでライトを当てる。床に付けられた爪痕は五つ。扇状に広がっていることから、爪痕を残した下手人は人間にようだ。ここが封鎖される前に、記念か悪戯のつもりで作ったのかもしれない。カッターか彫刻刀でも使えば簡単だ。そう思ったが、その推測はあっさりと違うことが判明した。


 触れてみてわかったが、爪痕に埃が積もっていない。他の机や椅子には埃が寝息をたてているほどにも関わらず、この爪痕だけは埃の臥所になっていない。


 さっきの物音……まさか……。


 脳裏によぎる不吉な推測――それを肯定するかのように、頭上から落ちて来た一枚の紙切れが視界を通り抜けた。



 透とは反対に一階へ駆け下りた沖田は、南側にあるトイレへまっしぐらに向かった。歩くたびに舞う埃が運ぶ悪臭に辟易し、手拭いで口を塞ぐ。


 酷い臭いだ……カビ臭さ……とは違うか?


 以前もどこかで嗅いだことがあるような異臭に辟易しながらも、目的地であるトイレに到着した。在校時によく通っていた場所だが、一度だけ当時の校長先生に訪問を見つかったことがある。その時は何とか切り抜けたが、月曜日は学校中が大騒ぎだった。


 沖田は手拭いをポケットに入れ、女子トイレの中を照らす。中にもトイレの周囲にも人影がないことを確認し、三番目の個室に向かう。


 そこはかつての、黄昏の記憶が刻まれた大切な場所だ。当時、彼女に会いたくて何度もここを訪れた。黄昏時、ここの女子トイレを生徒は使わない。小学校として使われていた時も、高校として使われていた時も、そんな暗黙のルールまで存在していた変わったトイレだ。


 告白前のような落ち着かない深呼吸をし、微かに震える手でドアをノックした。一回、二回、三回とノック音を響かせ、わかりきった返事を待った。しかし、どこからも物音は聞こえてこない。


「はぁ……」


 それはわかりきっていた答え。小さな溜め息が告げるように、期待していたのは僅かにも満たないのだが、それでも心の片隅には、もしかしたら、という淡い希望を抱いていた。その希望が今日、たった今、あっけなく瓦解した。母校が廃校になったのは寂しいし、女子トイレに住み着いていた〝彼女〟はどこへ行ってしまったんだろう。


 遡ること数日前の同窓会。懐かしい顔ぶれが揃えば思い出すのは在校時の彼女だった。その行方が話題になり、代表として確かめに来たが、もう引っ越してしまったのだろうか。一番仲良くしていた沖田にとって、挨拶も出来なかったことが悲しい。


「せめて枕元に立ってくれてもいいんじゃないか……?」


 重たい溜め息を吐き出した沖田は、横にある南側階段で二階に戻った。すると、廊下を四方八方に照らすライトが目に入った。


「どうした? ねずみでも?」


「……ちょっとしたイベントがありましてね」


「好奇心をくすぐるものがあったのかな?」


「ええ、見つけましたよ」


 透は胸ポケットを叩いた。片付けの手伝いに見合う見返りを得ることが出来た。つまらない日常(暴力沙汰や物騒なことを求めてはいない)にちょっとした楽しみを見いだすことが出来るだろう。


 さて……準備は整った。次は七月が頃合いかなぁ。


「それは良かった。それじゃあ帰ろう」


 沖田に促され、透は教室棟を後にした。


 内側から施錠される音がして、教室棟は完全なる静寂に支配された。そこに生き物の気配はないはずだが、暗闇の中を何かが蠢いた。


 ガシュッ! ガシュッ! 


 一文字廊下。光の居場所はない深淵の中で、蠢く影があったことを二人は知らなかった。


                  第壱幕 完

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