澄んだ池の底に薄っすらと積まれている様な泥
2022年5月7日午前8時30分頃です。
GWは一般的には5日で終わったと言われていますが、昨日の6日もお休みなところが多いので、土曜日の7日と明日の8日までが、実質のGWになっている人も多いと思います。
唐突になりますが、今の私の状態ですが…何もない…に近いかも知れません。あるのは理由が分からない不安な気持ちと悲しみ、「澄んだ池の底に薄っすらと積まれている様な泥」みたいなものです。
本文を書いている途中で、そう感じたので、タイトルも同じにしました。
余りにも澄んでいて何もないので、小魚さえも住んでいない…。チョロチョロと細かいせせらぎから水が注ぎこまれて、にじみ出るように同じ量の水がじんわりと池から外に出て行く…。池の底には全く影響がないほどの水の流れ…薄っすらと詰まった泥が浮かび上がることもなく…ただ、時間だけが過ぎていく…。
毎日、鬱病に発症する前の事を考えます。怒りでもいいから自分を激しく動かす原動力になればと、原因になった人たちの事も考えはします。悔しいとか恨みつらみとか、それでも自分をつき動かす原動力であれば良いかと思うが故ですが、それさえ、前述のように例えれば、1本のマッチを擦って、ボワッと一瞬、火が付いてパッと消える。その程度…。怖さは実際に会っていないので分かりませんが、それさえも通り越してる気がしています。
もう、その人たちが幸せになろうが不幸になろうが「はいそうですか。」…そこまでも思う事ができるだろうかとういう程…。完全に赤の他人になったな…とは思います。死のうが生きようがどうでも良い…。
感情が薄くなりました。全ては「空」である「般若心経」の内容に近いといえば、近いのかも知れません。自分もそれ以外も「空」。完全にその境地であれば良いのですが、そこまでにも至っていない…。
身近な人は幸せであって欲しい…。幸せにするための何かを、証だけも残したいという気持ちだけは根底から崩されていないので…。私に残っている「欲」です。
この言葉も、過去に何度か書いた悪友の残した言葉に近いです。彼は私と違う言い方をしていましたが「俺が1度でも会ったことがある人間は皆、楽しく生きて欲しい」的な言葉でしたが、昔の事でぼんやりとしか思い出せません。その1度でもの中の人間の中に、私を鬱にした人間もいます。だから、似てますが同じではありません…。その方々は楽しく生きていないから…。今後も変わらないと思うからです。自業自得だから、楽しく生きて欲しいとも思ってもいない…どうでも良いになってるから…。
ですから、悪友のようにデカい事は思っていません。幸せになって欲しいのは身近な人だけで良いんです。私の身の丈の合う範囲内でも身近な人だけ…。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」
私が心の師と仰ぐ吉田松陰先生の言葉です。この言葉の意味のように、「死んでも大きな仕事をなし遂げられるという見込みがあれば、いつでも身を投げ出すべきである。生きて大きな仕事をなし遂げる見込みがあれば、いつまでも生き永らえるべきである。」
死して大業が成し遂げられるなら身を投げ出しますが、今は生きて、以前より頭も体も動かなくても進まなければ…大業はなしえないと思っています。こんな状態なので1歩1歩、遅いのは仕方ないです。楽しくもなくなりましたが、過去から思い描いていた「絵にかいた餅」だったゴールが、「現実の餅」に変わって、今、その尻尾が見えてる…。
結果的にゴール出来なかったとしても、諦めたり逃げたりして後悔するよりは…。自分らしい生き方を送れる事だけは間違いありません。
とりあえず、今日はここで〆たいと思います。今回も結局、何を伝えたかったのか支離滅裂な内容になってしまいました。
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