25《チームA》――JST11時28分

 難波が真鍋の前に出るようにして、ドアに進む。その目は、医師から軍人のそれへ鋭く変わっている。

「先生は奥へ。ジョンウンを守ってください。橘さん、レントゲンユニットを移動して楯にしていただけますか。銃撃に備えます」

「はい」

 春香が器材を移動し始める。

 ユニットの中に武器はない。難波はロータブレーターの窒素ボンベを移動してホースをドアに向け、ボンベの上のバルブに手をかけた。

 ドアには、小さな透明窓がビス止めされている。戦地での使用を考慮して、防弾性が高いポリカーボネート製だ。難波は窓を覗いた。だが、機体の後部に見えるのは、後ろ手に縛られた北朝鮮兵と〝中将〟の死体、そして手が出せずに身構えるだけの隊員たちだ。

 大越は、死角に入って〝何者〟かと対峙しているようだ。息を詰めて待つ。銃声は、もう聞こえない。

 難波が叫ぶ。

「大越一佐! 状況を教えてください!」

 かすかな声が聞こえる。

「後藤が銃を奪った。ニーナたちが狙われている」

 なぜか、NPOの後藤が〝反乱〟を起こしたようだ。

「けが人は⁉」

「まだいない」

 後藤らしき声がする。

「ハートユニットのドアを開けろ! 開けなければニーナを殺すぞ!」

 理由は分からない。だが、状況は分かる。ドアを開けなければ通訳のニーナが殺される。後藤は、明らかにジョンウンを殺そうとしている。

 大越の声が聞こえる。

「なぜだ? なぜ君はジョンウンの命を狙う⁉」

 難波には、大越が時間を稼ごうとしていることが分かった。大越が窓から見える位置に進み出るが、すぐに両手を挙げて後ろに下がる。視線の先に、後藤が現れる。ニーナを後ろから抱え込み、拳銃をニーナのこめかみに当てている。

 難波は小声で春香に命じた。

「こっちへ! ドアの陰なら撃たれても銃弾は防げます。ボンベを持って、ドアが開いたらバルブ全開にしてください」

 春香がうなずいて、位置を変える。その間にも、後藤は叫び続ける。

「仕方ないんだ! こうしなければ家族が殺される。奴らの命令には逆らえないんだよ!」

 くぐもった後藤の声は、涙を堪えているようでもあった。

 春香が近くのスイッチを押した。スピーカーフォンで外の音を中継したのだ。ターボプロップのエンジン音が小型のスピーカーから流れる。

 大越が、あえて後藤を刺激するように言った。

『奴らとは誰なんだ⁉』

『北の連中だよ。決まってるだろうだ! 従わなければみんな殺される。俺一人が死ねば、家族はみんな助かるんだ! まだ4歳になったばかりの娘がいるんだ。俺がやらなけりゃ、みんな殺される……』

『君……在日なのか?』

『だからなんだ⁉ それが悪いのかよ⁉』

『君の家族は我々自衛隊が守る。警察と連携して、責任を持って守り通す。だから、銃を置け!』

『自惚れるな! 貴様らの力など、何の役にも立ちやしない。北の細胞を侮るな。奴らはどこにでも浸透している。警察にも、学校にも、役所にも、マスコミにも、宗教団体にも、パチンコ屋にも、町内会にも――もちろん、自衛隊の中にもだ! 何万人という数のスパイが日本中に潜り込んでいるんだ! だいたい、北の核ミサイル技術だって日本から漏れたものばかりだ。国立大学の研究室で働いている在日がロケットや原発の情報を堂々と持ち出しているんだぞ。中には准教授の肩書きを持ってる奴までいる。日本はそれを知りながら、国も警察も手が出せない。見ないふりをして、手を出さない。スパイを規制する法律がないからだ。北の金や女に魂を売った日本人が守っているからだ。北も中共も、日本のマヌケな憲法やお人好しの人権派左翼を利用して工作員をはびこらせてきたんだ。俺の家族も、そんな奴らに四六時中見張られている。奴らは、狙った獲物は絶対に逃がさない。互いに監視し合っているから、組織から抜け出すこともできない。一度指令が下ったら、絶対に逆らえない。俺は、逆らって殺された人間を何人も見ている! 俺自身が、仲間を自殺に追い込んだことだってある! 逆らえないんだ! がんじがらめにされているんだ! いつ、家族が危害を加えられるか……いつ、子供たちに真実が知らされるか……毎日、ビクビクしながら生きていくしかないんだ! 今の仕事だって、自衛隊に食い込むために奴らが用意したものだ。今日だって、奴らの指示で隊と一緒に来るしかなかった。来たくなんかなかった。だけど、そんなことは無理だ。俺たちは、一生逃げられないんだよ!』

 春香が後藤をちらりと見て、問う。

「彼、どこから拳銃を持ち出したの?」

 難波の答えは早かった。顔色は、やや青ざめている。

「多分、背広の下にずっと隠していたんでしょう。コルトM1908のようです。25口径のベストポケットと呼ばれる、隠しやすい小型拳銃です」

「なぜそんなものを持ち込めたの⁉」

 北朝鮮側が持ち込んだドラムバッグには、中将が取り出した銃とサブマシンガン以外の武器はなかった。それは奪って、保管してある。新たな銃の出どころは、後藤自身の他には考えられない。

「NPOが武器を持ち込むとは考えませんでした。搭乗員は皆、顔見知りです。後藤さんとも、5年以上の付き合いになります。武器検査の必要はないと判断しましたので……」

「他にも何か武器があるのでは?」

「さあ……今は、確かめようがありません。ですが、銃が持ち込めたなら他の武器も可能かも……」

 航空自衛隊では通常、基地警備以外には銃器を携帯しない。特に今回のミッションはNPOへの支援が表向きの役割なので、銃の存在は公にはできなかった。だがそれは、あくまでもでも〝表向き〟の話だ。北朝鮮の軍事基地に丸腰で着陸するのは、あまりにナイーブすぎる。最低限の武器を携帯するのは当然で、いかに法の縛りが厳しい自衛隊でもその程度の〝常識〟は持っていた。

 その武器は備品庫のロッカーに隠してあった。乗員分のサブマシンガンとP220・9mm拳銃、暴漢制圧用の閃光弾や催涙弾が数発、そして手榴弾などだ。だがその武器は、通常なら隊員の目に触れることさえない。しかも、ロッカーを開いて武器を取るのは、全滅を覚悟して脱出を試みる場合だけだ。

 むろん、後藤にその場所を知らせる必要はない。知っていたとしても、多数の隊員に囲まれた中で盗むことはできないだろう。だが後藤は、武器を隠して搭乗するスキルを持っていた。当然、その武器を使うこともできる。しかも、たっぷりと時間をかけて自衛隊に〝浸透〟している。

 つまり、訓練された工作員なのだ。

 それが、北朝鮮が敷いた情報網の実力なのだろう。大越の部下の中にも、北に操られているスパイが侵入している可能性すらある。

 大越がさらに後藤を問い詰める。

『もう一度言う。君と家族は全力で守る。これは君にとって、チャンスだ!』

 後藤は叫んだ。

『そんなの、遅いんだよ! 言ったろう、俺はすでに人を殺している。俺の父親も母親も、実際に拉致犯罪の中心にいた。どんな人材が必要なのか北からの指令を受け、条件に合った日本人を探し、拉致実行の際には工作員と一緒に手を下す……。そんな犯罪を犯していたんだ! なのに、生粋の日本人として身分を偽って普通に暮らしていた。戸籍や運転免許を偽装し、日本人に溶け込みながら暮らし続けていた。俺はその子供だ。自分は日本人だと信じて育った。疑ったことすらなかった。だが今の俺は、奴らに支配されている。今更逃げられるはずはない!』

 大越は、後藤をなだめるように穏やかに言った。

『君は、いつ事実を知ったんだ?』

『は?』

『自分の両親が日本人ではないと、いつ知ったんだ?』

『大学に入ってからだ。ある日、宗教の勧誘を装って奴らは近づいてきた。あいつらは、俺の何もかも知っていた。学校の成績も、趣味も、バイト先での人間関係も、付き合っている女も……何もかもだ! 親父が教えていたんだ。俺は生まれたときから、組織の細胞に組み込まれていたんだ! これ以上、こんなのには耐えられない!』

『だから、そこから救い出す!』

 後藤は鼻で笑った。

『何も知らないくせに……。言ったろう? 俺の両親は、拉致の最前線にいた。住んでいたのは、大して広くもない街だ……警察も、事実を掴んでいたらしい。だが、国際問題を起こしたくないとか、確証が持てないとか、政治家がやばい金を受け取っていたとか……国や役人の都合ばかりで、何もできないでいた……。北は、パチンコや覚せい剤で稼いだ金を唸るほど持っていたからな。それに群がった日本人も少なくない。拉致犯罪は、開けちゃいけないパンドラの箱だったんだ。だが、地元の人間は敏感だ……子供を拉致された家族は、俺の親父たちが犯人だと察していた。親父が子供を奪ったと疑っていながら……その親父と街で顔を合わせていながら……彼らは怒りを堪えて普通に振舞っていた。きっといつか、子供は助け出される……日本人の目が覚めて、家族を取り返してくれる……そう信じていたんだろう。警察とか政府とか……日本って国を信じていたんだろうな……。だが俺は、そんなことは何一つ知らなかった。親父が拉致した一人は、同級生だった。毎日顔を合わせていた友達がある日突然姿を消して……俺は何も疑わないまま、その家族を励ましたりしていた。彼らは憎しみを込めた目で俺を睨み……それでも何も言わなかった。そんなことが、何度か起こった……。俺は、不思議に思っただけだ。俺が、何かしたのか……? なぜ、犯罪者を見るような目で見られるんだ……? そんなふうに悩んだよ。だが、自分が……自分の親の正体を知ったとき、全てが理解できた……。俺たち自身が、拉致に手を貸していたんだ……恨まれて当然なんだ……殺されたって文句は言えないんだ……なのに……。俺は、この国の人間じゃない。日本人じゃない……かといって、朝鮮人でもない……自分がない、幽霊みたいな人間なんだよ……。死にたかった……でも、死ねなかった。死ぬことすら許されなかった。奴らが連れてきた女と……俺と同じように幻影の中で育ってきた女と、結婚するしかなかった。そうしなければ、友達や会社に危害が加えられる……だから……。それでも、今は家族だ。今は子供もいる。家族を守りたい。他人の家族を奪ってきた俺でも、自分の家族は守りたい……。そんな俺たちを、あんたらが守るだと⁉ 日本に戻って、どうやって暮らせっていうんだ⁉ こんな俺が、生きていけるはずがないだろうが!』

 後藤は、死を望んでいるようだった。

 大越が言う。

『君は、どんな命令を受けたんだ?』

『患者を、殺せ……ってな。患者が誰なのかは、教えられなかった。でも、もしその患者が日本へ飛ぶことになったら、必ず殺せ。空港に着陸するようなことがあったら、機体を爆破してでも日本の土を踏ませるな……。それが命令だった』

『君はジョンウンを憎んでいるのか? 彼は君の国の最高指導者だぞ? 君はこれまで、ジョンウンの命令で動いていたんじゃないのか? それでも、殺すというのか? 暗殺者の汚名を着せられたいのか?』

『ジョンウンには恨みも親しみも感じない。どうでもいいんだ。誰からの命令か……そんなことも関係ない。クーデターが起きたのなら、それで構わない。奴らが殺し合いたいなら、好きにすればいいさ。北朝鮮は、そういう国だというだけのことだ。だが、命令を下す者には俺の家族を殺せる力がある。今は、クーデターを起こした者がその実権を握っている。だから俺は、その力に従う。それだけのことだ……』

『君は死にたいのか? だがそうすれば、北朝鮮の思いのままになるだけだ。奴らが笑うだけだ。何も変えられないぞ。君と同じ辛い思いをする同胞が増えるだけだ。北朝鮮が憎くはないのか? ジョンウンは、今や、彼らと戦う唯一の切り札なんだ』

『戦う? 勝手にやれよ。俺はもう、どうでもいいんだ! 家族を守りたいだけだ! 俺たちは、がんじがらめなんだ……逃げられないんだよ! だから……娘は……娘だけは守らなくちゃならないんだよ!』

 後藤の言葉は、狂気を孕んでいた。

 大越は応えなかった。後藤がすでに理性を失っていることは明らかだ。狂人は、説得などできない。

 後藤の叫びを聞いていた春香が、難波に言った。

「どうするの? 彼、死ぬ気よ。たぶん、止められない」

 難波がうなずく。

「同感です。大越一佐もそう感じているでしょう。彼の判断に従います。一佐が動いたら、ここを出て後藤を無力化します」

「大越さん、まだインカム付けてた?」

 難波が春香を見つめる。

「なぜです?」

「攻められるかもしれないから。どうなの?」

「装着していました」

 春香はうなずくと、壁に掛けてあったインカムを装着して言った。

「大越さん、黙って聞いていて。パイロットさん、聞こえますか? 機体の後部が敵に制圧されています」

 パイロットの返事が聞こえる。

『機内のカメラで映像は見えています。ただ、後藤がハートユニットの脇に隠れているので、気づかれずに近ずくことができません』

「私が合図したら、思い切り急上昇してください。同時に私たちが飛び出して、後藤を抑えます」

『了解。いつでもどうぞ』

「大越さん、実行して良ければ咳払いで合図を」

 スピーカーから、小さな咳が聞こえる。

 春香が難波を見る。

「準備はいいですね?」

「了解。ボンベのバルブを同時に開けてください」

 春香はうなずくと、言った。

「3つ数えます。パイロットさんも、ゴーで行動を起こしてください。3……2……1……ゴー!」

 すべてが、一瞬で起こった。

 いきなりエンジン音が高まって床が傾く。

 難波がドアを開き、チューブの先を後藤に向ける。

 春香がバルブを開くと、先端から圧縮窒素の〝煙〟が噴出する。

 ニーナが驚くべき素早さで身をよじって、バランスを失った後藤の羽交い締めを逃れる。

 後藤は尻餅をつきながらもハートユニットに銃を向ける。

 その後藤の顔面に、窒素の蒸気が降りかかる。

 大越が機体後部に向かって飛び出しながら、叫ぶ。

「何かに捕まれ!」

 その先には、後部ランプの開閉スイッチがある。大越がスイッチを叩くとモーター音が機内にあふれ、後部のハッチがゆっくり開き始める。急速に気圧が下がって、機内が真っ白に曇る。気温の低下と気圧減によって水蒸気が霧に変わったのだ。

 その中に、銃声が轟く。

 後藤が撃った銃弾はハートユニットのドアを通り抜け、楯にしたレントゲンに突き刺さった。

〝中将〟の死体と、彼を殺した北朝鮮兵が機体の外に吸い出される。縛られたままの北朝鮮兵は何事か叫びながら足をばたつかせ、落下していった。

 傾いた床の上で、大越が後藤に飛びかかる。

 他の隊員たちは、それぞれ手近な場所に捕まって体を支えていた。自衛官としての訓練は受けていても、医官やメカニックたちは格闘には馴染んでいないのだ。咄嗟の格闘には飛び込めないようだった。

 大越と後藤が、もつれながら床を転がる。その先のハッチは、さらに開口部を大きく広げていく。後藤の手から、拳銃が落ちる。大越が倒れたまま、拳銃をハッチの先の空中に蹴り出す。そして、床の隙間に指先を入れて体を支え、インカムに叫んだ。

「もっと上昇しろ!」

 さらに床が傾く。まるで、機体が垂直に立ったような感覚が襲いかかる。

 膝をついて上体を上げた後藤が、ポケットから何かを取り出した。後藤は、笑っていた。重荷から解放されたような、屈託のない爽やかな笑いだ。

 大越が叫ぶ。

「手榴弾だ!」

 自衛隊のM26、直径57ミリの卵型の手榴弾だった。元はアメリカ製だが、ライセンス取得によって国産化されている装備品だ。

 後藤は言った。

「みんな、ここで死んでくれ」

 後藤は、手榴弾のピンを抜いた。

 動いたのは、ニーナだった。

 後藤に向かって走り、その顎を蹴り上げる。同時に身を翻し、機体の側面のパイプを掴んだ。両足が中に浮く。

 のけぞった後藤が、後部に転がる。そして、ピンを抜いた手榴弾とともにハッチから落下していった。

 手榴弾が、空中で爆発する……。

 大越が叫んだ。

「機体を水平に!」

 エンジン音が弱まり、床の傾きがまっすぐに変わっていく。大越が掴まっていた床を離して機体後部に向かう。スイッチを押すと、後部ランプがゆっくりと閉まっていった。

 春香が、ハートユニットを出て大越のもとに歩み寄る。

「これ以上、邪魔はないでしょう。プランZの目的地を確かめて」

 手術直前、大越たちがファイルの表紙を剥がして出てきた封筒にあったプランZには、『目的地を変更する。安全を最終的に確認した後に、同封の指示書を開封して目的地を確認せよ』と書かれていたのだ。中には目的地を記した封書があった。そのため、ジョンウンの手術が終了するまで開封を待っていた。

 彼らの判断は、正しかったようだ。

 大越がうなずいて、インカムに指示する。

「指示書を開封しろ。最終目的地を教えてくれ」

 と、インカムの中で副パイロットが息を呑む気配が伝わった。開いた封書の指示が意外な場所だったらしい。

『まさか……』

 大越が問う。

「どこだ? 千歳ではないんだろう?」

 副パイロットが言った。

『ウラジオストクです……』

 大越も虚を突かれてうめいた。

「は? なぜ、ジョンウンをロシアに……?」

 春香がニーナを見つめた。そして、ニーナが驚くべき俊敏さで後藤を排除できた理由を理解した。高度な軍事訓練を受けていなければ、不可能な身のこなしだったのだ。

「お母さんったら、何を企んでるのよ……。ニーナさん、あなた、ただの通訳じゃないんでしょう? 目的地を知っていて参加したの?」

 ニーナはあっけらかんとした笑みを浮かべて、肩をすくめた。

「それは、国家機密」

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