23《チームA》――JST11時12分
ハートユニットの中に、歯医者のドリルのような甲高い回転音が充満する。冠動脈内部の石灰化部分を削り取るロータブレーターの作動音だ。
真鍋が満足げに言った。
「アドバンサーは完璧に動いています。ユニット自体の振動もほとんど感じない。これなら、手術にかかれます。最初は最小サイズのバーで」
難波がパッケージを開きながら答える。
「1・25ミリになります。他に、1・75、2・50ミリを常備しています」
「分かりました」
真鍋は難波から受け取ったロータブレーターをガイドワイヤーに通していく。
ロータブレーターシステムは、実際に歯科医のドリルを延長したような装置だ。
血管内の石灰化した部分を削るのはバーと呼ばれる部分で、先端のラグビーボール状の金属部品に30マイクロメートル以下のダイヤモンドチップが数千個埋め込まれている。このチップが柔軟性があるドライブシャフトにつながり、駆動される。ドライブシャフトは中空状になっていて、セントラルルーメンと呼ばれる空洞の中にガイドワイヤーを通して血管内に挿入していく。
シャフトを駆動するのがアドバンサーで、小学生の筆箱をいくらか大きくしたぐらいの形状の装置だ。そこに内蔵する小型のガスタービンに圧縮窒素を送り込むことで、シャフトを高速に回転させる。その回転数は最高で毎分20万回に及び、モーターでは作り出せない速さを実現するのだ。アドバンサーの中央のつまみでは、バーを前後させて石灰化部分に当たる力を細かくコントロールすることができる。
またアドバンサーはブレーキも装備していて、バーの駆動中にガイドワーヤーが回転したり動いたりしないようにしっかりと保持する。セントラルルーメンにはカクテルと呼ばれる液体が流され、バー回転時の摩擦熱を吸収する。カクテルは生理食塩水に抗凝固剤のヘパリンなどの薬品を混ぜたものだ。
システムにはその他、各部品を接続するコンソールと、回転数を制御するフットペダルが含まれる。主治医が高速回転するドリルで石灰化部分を削っている際は、助手がコンソールに表示される回転数を読み上げ、血管内に接触している時間を計測する。切削時間は一回につき30秒以下というのが安全性を保つための基準とされている。患者が痛みを訴えたり心電図や血圧などに異常があれば、切削を中止して時間を置かなければならないのだ。
石灰化の形や硬さは人によって異なる。硬すぎてロータブレーターでさえ削れない場合もある。無理をして削ろうとすれば石灰化部分が割れ、血管を内部から突き破る危険もある。治療が可能かどうか、どこまで継続すべきかは主治医が判断を下す。アドバンサーを操作する医師の経験と指先の感覚だけが、治療の成否を決定づけるのだ。その意味では、職人的な勘の鋭さと器用さが求められる治療法だ。
真鍋はその全てを身につけた、日本有数の医師だった。
真鍋は春香に言った。
「患者に再度説明してください。治療中に、今のキーンという音がしますが心配ありません。軽い痛みが持続することがありますが、痛みが長かったり耐えられない場合はお知らせください」
春香が穏やかな声でジョンウンに語りかける。
意識がぼんやりしているようなジョンウンは何事か答えたが、焦点が定まらない目には明らかに恐怖が浮かんでいた。
真鍋が言った。
「では、始めます」
アドバンサーの回転音が急激に高まっていく。
難波が回転数を読み上げる。
「100……120……150……」
数値の上3桁を伝えているのだ。回転数は急速に毎分20万回転に肉薄していく。
真鍋がアドバンサーのつまみを細かく動かしながらつぶやく。指先の感触だけで、石灰化の状況を測ろうとしている。
「硬いな……これは、歯並みの硬さだな……あ、これは患者には通訳しないで……」
春香は無言でうなずいた。その目は、患者のバイタルを表示するパネルから離れない。さらにその横には、リアルタイムでレントゲン映像が表示されている。
難波が問う。
「削れそうですか?」
真鍋の表情は暗いが、指先は細かく動き続けている。その目は、レントゲン映像を注視したままだ。
「難しいところだな……すぐに外科手術に移れるだけの万全の体制があれば、思い切って先に進めるんだが……」
〝この感触〟は、指先が覚えていた。決して忘れないように、真鍋が己の心に刻み込んだ〝戒め〟だった。
真鍋の経歴は心臓外科医から出発した。だがカテーテルを扱う内科的治療の可能性に大きな希望を持ち、転身したのだ。かつて、ロータブレーターを扱い始めた初期、真鍋は同じような硬さの石灰化に遭遇した。患者は、中年の女性だった。その頃はまだ、ロータブレーターの限界を体感したことはなかった。真鍋は疑いも持たずに、バーを押し込んで行った。そして、血管を突き破った。手術は緊急に外科手術に切り替えられ、患者は辛うじて命をとりとめた。
ロータブレーターでも治療できなければ、外科的に開胸してバイパス手術を行う以外の選択肢はない。その意味では、医療事故とは呼べなかった。だが、真鍋の技量が未熟だったが故の緊急事態でもある。真鍋はその時、心に誓った。自分はロータブレーターのプロフェッショナルになるのだ、と。
それ以後〝この感触〟は、真鍋にとっての基準になった。ここから先は、細心の上にも細心を重ねて進めなければならない。撤退も拒んではならない。そう自分に言い聞かせながら、年間100件を超えるロータブレーター手術を重ねて感覚を研ぎ澄まし、技量を高めてきたのだ。
真鍋の目を覗き込んだ難波が心配そうに問う。
「そんなに……? 中止も考えるべきでしょうか……?」
真鍋自身の迷いでもあった。
ここは明らかに、手術可能な限界点だ。外科チームがいつでも交代できる病院でなら、多少の危険も犯して〝成功〟に賭けるだろう。だが、ここにいるのは真鍋たちだけだ。出血すれば、真鍋自身が開胸手術を行うしかない。外科手術の基礎的技量は身に付けているが、すでに専門外のために経験数が多いとはいえなかった。ハートユニット自体は外科手術にも対応しているが、それも最低限の設備でしかない。輸血の用意も万全ではない。
反面、あのアクシデント以降、真鍋は自らの技術を高めることに没頭してきた。経験値は当時の比ではない。自らの感覚と技量を信じるに足る場数を踏んできたのだ。
何よりも、この治療の成否が日本の命運を左右する。安易に撤退の決断を下せば、大越が窮地に陥るだろう。言葉では医師の倫理以外は考慮しないと宣言したが、その責任を頭から消し去ることなど不可能だ。
できることなら、命をかけて必死に戦っている大越たちの力になりたい。日本を救いたい。患者が拉致犯罪の共犯者であり、〝敵対国〟の指導者であっても、助けたい――。
そして、もしも竹内真奈美が解放を待っているなら、自分の力でその願いを叶えてやりたい――。
〝次の一手〟で判断しよう――そう決めて、そっとアドバンサーのつまみをを押し込んだ。と、ふっと抵抗が軽くなった。
真鍋の頬にわずかな笑みが浮かぶ。
「いや、大丈夫だ。今、バーが通った。硬いことは硬いが、幸い石灰化した部分が割れるほどではない。この調子でバーの口径を大きくしていけば、削り切れる」
真鍋の表情は和らぎ、言葉は確信に満ちたものに変わった。
手術はバーを交換しながらさらに30分ほど続いた。そして、石灰化部分を完璧に削り取ることに成功した。困難な部分は無事に乗り切ったのだ。
残るは、難易度がさほど高くはないバルーンによる冠動脈の拡張とステントの留置だ。真鍋と難波は、まるで長年ともに手術をこなしてきたコンビのように、スムーズにルーティンワークをこなしていく。
真鍋が言う。
「バルーンも問題なく膨らんだ。後はステントの留置だ」
難波が、最新世代の薬剤溶出型プラチナクロム製ベアメタルステントを手渡す。治療直後に再狭窄することを防ぐために、あらかじめ薬剤が塗布されている。このことによって、ステントが血管組織と馴染みやすく、異物として認識されて再狭窄を起こすリスクを軽減するのだ。
さらに20分後、ステントはバルーンによって無事に拡張され、手術は終わった。後は器材を患者から取り除き、止血をすればいいだけだ。傷口は穿刺部止血デバイスで縫うので、3時間ほど足を伸ばして安静を保った後なら、自分の足で歩くこともできる。
この手術後の回復の速さが、カテーテル治療の最大のメリットなのだ。手術後の体力低下も限りなく少ない。開胸手術では絶対に実現できない結果だ。
真鍋は春香に言った。
「困難な部分は無事に終了しました。患者に伝えてください。ただし、あらかじめ説明した通り、このまま3時間は安静を保っていただきます」
春香が微笑む。
「母さんにも連絡します」
難波が患者の処置を手早く終え、詰めていた息を漏らした。
「全て、終わりました」
それを聞いた真鍋が、胸に収めていた言葉をようやく口に出した。
「橘さん、お願いがあります。解放された拉致被害者の中に竹内真奈美という女性がいないかどうか、確認していただけないでしょうか? もしかしたら、婚姻によって姓が変わっているかもしれませんが」
春香がうなずく。
「分かりました」
春香は、ユニットの隅に隠れるようにして衛星電話を使い始めた。
その時、ユニット全体が小刻みに揺れた。くぐもった連続的な爆発音が聞こえる。
真鍋がドアを見つめてつぶやく。
「まさか……銃声か⁉」
ハートユニットの外の叫び声が、壁越しにかすかに聞こえる。
「ドアを開けろ! ジョンウンを出せ!」
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