ステージ4
21《チームA》――JST10時34分
キム・ジョンウンには改めて鎮静剤が打たれていた。同時に、カテーテル手術の準備が進められていく。
春香がコンピュータを操作しながら言った。
「
と、ハートユニットの下部から微かなモーター音が聞こえた。
機体の振動に合わせて細く揺れていたユニットが、一瞬で静かになる。それは、ツシマ精機が改良型機動衛生ユニットのために新たに開発した装置の効果だった。
ハートユニットはC130Hに積み込まれた直後に、コンテナの全ての角をワイヤーで機体に連結されていた。振動軽減装置はそのワイヤーを巻き上げてユニットの底を20センチほど持ち上げる。機体の中にユニットを〝吊り下げる〟形になるのだ。ワイヤーには振動を吸収する機械的なダンパー――振動吸収器が取り付けられている。それでも機体の動きは、時にダンパーの能力を上回る。その際にはユニット本体の解析装置が移動量と加速度を計測し、ワイヤーを反対方向に細く動かして振動を打ち消す。その動きの幅は最大15センチまで可能だ。その結果、機体が不意の振動に襲われてもユニット自体はほぼ静止した状態を保てるのだ。
ただし、装置の効果はまだ実験室でしか検証されていない。実際の輸送機での使用は、今回が初めてだった。むろん真鍋も、この装置がどれほどの効果を発揮するかデータは持っていない。それでも、いきなり〝実戦〟に挑むしかなかった。
その間、真鍋と難波が素早く手術の準備を進めていく。
難波が、X線に写らないように作られたカテーテル用カーボン電極をジョンウンに貼り付けていく。真鍋は剃毛した部分を再度消毒し、カテーテルを挿入する場所に局所麻酔を射つ。
難波が血圧トランスジューサ、フラッシュライン、へパリン溶液、造影剤などを三方活栓に接続し、準備していく。素早く血圧トランスジューサを三尖弁の高さにセットしてゼロ点調整ボタンを押し、カテーテル挿入前の12誘導心電図を記録する。
難波の手際良さに安堵したような表情を見せた真鍋が、次の作業に移る。
真鍋がジョンウンの太腿の動脈の位置を指で探りながら言った。
「脂肪の層が厚いな……動脈はどこだよ……これか……? よし、見つかったぞ……」
カテーテル手術のルーティンワークが開始される。皮膚を切開して血管を露出することなくカテーテルを血管内に挿入する方法を行なっていくのだ。
まず、動脈にセルディンガー針を挿入する。セルディンガー針は針先が平坦な外套針(カニューラ)と、取り外し可能で鋭利な内套針、そしてチューブを安定させて挿入をスムーズにするためのスタイレットによる三重構造となっている。カニューラにはテフロンやポリ塩化ビニルなどの柔軟なプラスチック素材が用いられる。
この針をいったん皮下組織まで刺入し、垂直に立てた針先で動脈の拍動を確認する。次に動脈の走行方向に合わせて針先を傾け、動脈の前後壁を穿通させるように勢いよく突き刺す。血管を貫いたら内套針とスタイレットを抜去し、ゆっくりと外套針を引き抜いてくる。針先が動脈の内腔にまで抜けてくると、動脈血が勢いよく外套内に逆流してくる。これで針先が動脈に入ったことが確認できる。すばやく少し針を倒して血管内に数センチ押し進める。こうすることで柔らかい素材でできたカニューラを動脈の中に通すことが可能になる。
次に様々な種類のカテーテルを通す入り口となるシース――カテーテル操作が容易になるように血管内に留置する器具を挿入する。最初にカニューラに短いガイドワイヤー――弾性に富んだ鋼線に細い針金を螺旋状に巻いたものを挿入していく。ワイヤーが血管内に通ったらカニューラを取り除き、軽くねじって大腿動脈に押し込んでいく。シースは血液が逆流しないような構造になっている。
シースの留置によってカテーテルの〝入り口〟が確保されたら、次にその〝通り道〟を構築する。動脈の中に長いガイドワイヤーを挿入していくのだ。
ガイドワイヤーの先端の約3センチの部分には鋼線の芯が入っていないので、血管の進路に沿って柔軟に屈曲する。動脈を損傷する危険を減らしながら押し進めていくことができる仕組みだ。直径は0・8ミリ程度で柔らかく、表面はテフロンでコーティングされているので血管内部を傷つけにくく、血液の凝固も防ぐ。
真鍋はガイドワイヤーを巧みにコントロールしながら血管の中に差し込んでいった。血管の分岐点ではリアルタイムでレントゲンの映像を確認しながら、ワイヤーを挟んだ指先を細かく回して進行方向を調整する。ガイドワイヤーの先端が冠動脈の中を進んでいく。
通常、大腿の付け根からしばらくはガイドワイヤーとカテーテルを一緒にして一気に進めていくが、レントゲン透視装置の視野は狭いので、視野の外にはずれる。空間の制限がない大病院ではベッド全体をワイヤ先端を追いかけるように動かしていくのだが、ハートユニットでは春香が画面を見ながらレントゲン自体を移動して画像を調整した。
石灰化した狭窄部分の少し手前で、真鍋は言った。
「ガイドワイヤー入りました。まずは急性心筋梗塞に対しての血栓吸引を行い、血栓を取り除き次第ロータブレーターでの石灰化部分の除去とステント留置を行います」
難波が問う。
「バルーンカテーテルでの血栓摘除術は取らないのですか?」
真鍋は頭の中で、すでに複数の治療法を検討していた。
「カテーテルを通過させる際に血栓を押し込んでしまうとまずい。遠位部に完全閉塞を作り、梗塞になる危険があります。石灰化の最新CTデータがないから確実性が担保できないんです。バルーンで引き出すより、吸引した方が安全で確実でしょう」
「了解しました」
血栓吸引は、血栓吸引用のカテーテルを血管が閉塞している部分まで進め、もう一方の端から注射器(シリンジ)などで吸引する治療法だ。シリンジを引っ張ると血液と一緒に血栓が吸引でき、危機的な虚血を回避することができる。
通常は吸引した血液をメッシュに出して血栓が取れたか調べ、改めて血栓を吸引した部分の血管を造影する。造影して血管が閉塞していた部分に再び血流があれば成功だ。しかし、もともと血管が狭まっていれば、再び閉塞するリスクが高い。ジョンウンの場合は強度の石灰化が確認されている。すぐにカテーテルによる冠動脈形成術に移行することになる。
難波が血栓吸引カテーテルのパックを開きながら言った。
「ガイドワイヤールーメン長20mmのショートタイプですが、ハートユニットに常備されている吸引カテーテルはこれだけです」
「了解。問題ありません」
真鍋は差し出されたカテーテルの先端部をつまむと、ガイドワイヤーに通してからシースに差し込んでいく。そのまま細いチューブを押し込んでいけば、ガイドワーヤーに沿って先端部が血栓に届く。真鍋は先端部のマーカー――レントゲンにはっきりと映る部分をモニターで確認しながら、カテーテルを進める。難波がカテーテルの後ろを支え、真鍋のペースに合わせて繰り出していく。
術者の技量を完璧に発揮させるためには、助手の手際良さが不可欠だ。指先の感触に全神経を集中する医師のリズムを、絶対に阻害してはならない。過不足なく同調し、〝存在を感じさせない〟ように存在しなければならない。それが、助手の技量だ。
ガイドワイヤーがカテーテルと一緒に入りすぎないように尾部をつかまえ、術者と連動させる。術者がガイドワイヤーを操作するときはすばやく手を緩める。術者がガイドワイヤーを引き抜いたらすぐワイヤを受け取ってヘパリン加生理食塩水のバットに浸し、付着した血液を洗う。そしてまた術者が使うタイミングを数秒前に予測して、術者に手渡せるよう待ち構える。カテーテル内の凝血を洗うためのヘパリン加生食を入れた注射器を、すぐに手渡せるよう手元に用意しておく。作業の動線が最短になるよう、凝血を捨てるビーカー、フラッシュ用ヘパリン可生食のビーカー、ふき取りガーゼ、ヘパリン可生食のバットを作業台に配置する――など、受け持つべき作業も多い。術者がストレスなくスムーズに作業できるように助手が用意できるかどうかは、開始直後に分かる。
難波は極端に狭いハートユニットの中で、その大役を完璧に果たしていた。
ジョンウンの意識ははっきりしていないはずだが、不意に激しく身を捩ろうとした。カテーテルが血管内を進む際には痛みを感じないのが普通だが、何かの違和感があったのだろう。ベルトで固定していなければ、事故につながりかねない。
普段の手術であれば、真鍋は患者に話しかけて落ち着かせていた。だが、朝鮮語を話せなければそれもできない。素早く作業を終えるしかない。
と、春香がジョンウンに話しかけた。朝鮮語だ。意識が朦朧としているジョンウンと二言三言交わし、鼻を覆う透明な酸素マスクを準備する。
春香が言った。
「呼吸が苦しいそうです」
真鍋は言った。
「ありがとう。言葉、話せるんだね」
「この程度なら」
「何かあったら、サポートを頼む。ここじゃ、通訳を入れるスペースはないからね。患者を安心させてやってくれ」
言いながら、真鍋は難波がカテーテルの端にセットしていたシリンジを顎で示す。難波が手渡したシリンジを受け取り、ゆっくりと血液を吸い出していく。
難波が血液の濾過フィルターを差し出しながら言った。
「フィルターはここに」
真鍋がかすかに微笑む。
「血栓、吸ったよ」
「分かるんですか?」
「指先の感覚でね。数をこなしていれば、そうなるものさ。造影剤の準備を。これで緊急事態は回避できた。落ち着いて石灰化の除去にかかれる」
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