14《チームB》――JST10時05分

 田中恵子と紹介された女が、衛星電話を切った。根本にささやく。

「機体に仕掛けられた爆発物は、無事に除去できた」

 根本の目の厳しさは変わらない。

「被害は?」

「軽微。爆弾を外すために機体の一部を切り取った。大穴が空いたんで、あまり高空には上がれないようだ」

「飛行に障害はないんだね?」

「応急処置だが、問題ないだろうと言っている」

 現状を確認した根本の頬に、かすかな微笑みが浮かぶ。

「厳しい状況だったんだろうな……。よくやってくれた」

「現場の指揮官が優秀なんだよ」

 警察の大森が身を寄せてくる。

「何か起きたのか?」

 根本は答えようとしなかった。

 代わって恵子が言った。もう、事実を隠す必要はないと判断したようだ。

「北朝鮮の徳山空軍基地で、ジョンウンを乗せた輸送機に爆弾を仕掛けられた。だが、無事に解除して、現在日本に帰投する途上だよ」

 大森がつぶやく。

「ジョンウンの治療はもう終わったのか?」

「いや、まだだ。輸送機に同乗している」

「まさか……ジョンウンを日本に連れて来る気か……?」

「数時間後には、日本に到着する予定だ。到着後は病院へドクターヘリで緊急輸送する手配をしてある。機内でも治療は可能だが、より充実した設備で安全に行いたいからね。ただ……当初は千歳に帰投する予定だったが、若干の変更がある。千歳案は目くらましのダミーとして使う」そして恵子は声を落とし、大森に身をすり寄せた。「あたしたちのプランが北朝鮮側に漏れている恐れがあるんだ。中国側が打ってきた手が、あまりに的確で素早いからね。ホテルの警備強化だとか、厳重すぎる監視体勢だとか、空軍基地の襲撃とか……まるで最初からジョンウンを国から追い出して拉致被害者を奪い返すことを前提にしているような手際の良さだ。多分あいつら、日本側の内部から詳しい計画を聞き出して、その裏をかく作戦を練ってきている」

 大森は驚いたように、声をひそめる。

「と、言うと……?」

 恵子は言った。

「あたしは、小野田から漏れたと疑ってる」

 大森が息を呑む。

 外務省の小野田は、バスの〝乗客〟たちへの説明のために前方に移動している。後部で交わされる彼らの会話には気づいていない。

 バスは、舗装路を外れて埃だらけの脇道に入っていく。揺れが激しくなり、会話の声も聞き取りにくい。

 だが恵子は、さらに声を落とした。

「だから、輸送機の帰投地を新潟空港に変更する」根本も身を乗り出した。「この件は、小野田には絶対に知られないようにして気をつけてほしい。日本国内にいる北朝鮮のスパイたちに情報を漏らされて、また妨害されるとまずいからね」

 根本は呆然と恵子を見つめながらも、小さくうなずいた。だが、あらゆることに秘密主義を貫いていた恵子が、あっさりと極秘であるべき事柄を打ち明けたことに驚いていた。

「本当に小野田さん自身がスパイだと……?」

「まだ断定はできないけどね。同じ程度の情報を握っている者は、官邸にも何人かいるから。小野田が〝穴〟だとしても、意識もしないまま情報を抜かれていただけかもしれない。買収やハニートラップは中国朝鮮の得意技だからね。今は、ほんのわずかな疑念でも取り除かなければならないんだ」

 恵子が大森に極秘事項を明かすのは当然のことでもあった。警察官僚には今後、ジョンウンの身柄を守る責任も負わされることになる。変更先の新潟空港の警備は、制服の自衛隊だけで行うわけにはいかない。自衛隊と民間が共用する施設だから、警官でなければ目立ちすぎる場所も多いのだ。大森が事実を知らなければ連携もスムーズにはいかない。

 大森がうなずく。

「了解した。本国と連絡が取れ次第、警備を強化するよう手配しよう。だが、こうまでして通信を制限する必要があるのか?」

 恵子が言った。

「不自由だが、仕方ない。着陸地の変更を知られたらまずい。この国を出るまでは、どうしても北朝鮮や中国に通信を傍受されたくない。モンゴルにいるうちはまだ安全とはいえないんだ。モンゴル軍に拘束される恐れがある。いくら中共を嫌っていても、奴らの金がなければやっていけない国だからね。命令に逆らうこともできないのさ。こっちがどう動いているのかを掴めなければ、向こうも迂闊には動かないはずだからね。迎えの機内には、盗聴困難な通信機を準備している。この国を飛びたちさえすれば、安全に日本と連絡できるから。速やかにジョンウンを迎え入れる準備を整えてほしい」

「君の衛星電話は使えないのか? セキュリティーは万全なんだろう? 警備の手配は早いほうがいい。人員の配置にはそれなりの時間がかかるんだ」

 恵子は済まなそうに言った。

「まずいことに、バッテリーが切れた。モンゴルの電気は停電ばかりで品質が悪くて、うまく充電できなかったんだ。大丈夫、すぐに飛行機に乗れるから」

 電源が切れたというのは嘘だった。

 大森にも、それが分かった。警官は、嘘を見抜くのが仕事だ。エリートコースを無難に進んできた大森でさえ、その程度の〝勘〟は鍛えられている。それでも、深くは追求しなかった。正体不明の女が何を考えているのか、予測もできなかったからだ。

 大森はうなずいた。

「任せてもらおう」しかし、窓の外の草原に目をやると顔が曇る。「だが、このバス、どこに向かっているんだ? 幹線道路を外れたようだが……」

「ちょっと寄る場所がある。大丈夫、目的地は空港だから」

 と、小野田がバスの揺れによろめきながら、彼らの元にやってきた。手には、携帯ラジオを持っている。スピーカーからかすかな日本語が聞こえる。

 ボイス・オブ・モンゴリアの日本語放送だ。

 小野田が血走った目で根本を睨み付ける。

「大変なことになってるぞ! キム・ジョンウンがついさっき、平壌市内の遊園地で視察を始めたと言っている。BBCやCNNの記者たちを引き連れて動画まで放送までしているそうだ。どうなっている⁉ 自衛隊がジョンウンを手術をしているっていうのは嘘なのか⁉」

 キム・ジョンウンは間違いなく、現在は日本国の保護下にある。心臓病の治療を行うために、自衛隊の輸送機で日本海上を飛行している。

 根本が息を呑んで恵子を見る。

「どういうことなんだ? あなたはまだ何か大事な情報を隠しているのか?」

 だが、恵子は動揺を見せない。むしろ、わずかに微笑んでいるようだ。

「おやおや、敵さん、さっそく次の手を打ってきたか。なかなか優秀じゃないか、海外メディアまで動かすとは……。連中、今度はどんな策略を繰り出してくる気かね……?」

 その声は、まるでゲームを楽しむ子供のようだった。あるいは、小さなカエルを飲み込もうとするマムシの舌なめずりにも聞こえる。

 ジョンウンはここ数ヶ月、公開の場には一切姿を現していない。式典などに出席するのは朝鮮労働党中央委員会副部長の重責を担う妹のヨジョンばかりで、それも姿を現すのはほんの一瞬だった。国際的にも、健康不安説が高まっていたのだ。

 北朝鮮に駐在する記者にとっては、久々に姿を現した最高指導者は重要なニュースになる。撮影さえ許可されるなら、衛星携帯電話で動画を送ることはたやすい。

 大半のマスコミは、ジョンウンが一時期足を不自由そうにしていたことを指摘し、糖尿病か痛風を患っていると報じている。多くの情報機関は、政治的な実務に長けたヨジョンが実権を握っているのではないか――ジョンウンはすでに病床にあるのではないかとまで疑っていた。それでも、北朝鮮の体制が直ちに崩れることはないという意見が根強い。

 その根拠こそが、ヨジョンの存在だ。彼らの父親であるジョンイルは、ヨジョンの〝才能〟を高く評価していたという。ヨジョンが男子であれば、国を率いていたのは間違いなくヨジョンだったろうともいわれる。従って、仮にジョンウンに万一のことがあっても、北朝鮮が一気に崩壊する恐れは少ないというのだ。

 一方で根本たちは、他国の情報機関が知らない確実な情報を握っていた。ジョンウンは今、日本に向かう自衛隊機の中にいる。それが本人であることは、この計画がジョンウン本人からの申し出によって動き出したのだから疑いようがない。

 ジョンウンは重篤な心臓病を患っており、それを治療できるのは神がかり的な技量を持つ日本の医師しかいない。しかもロシアから譲られた詳細な医学データは、機内に入った人物のものと完璧に一致していると報告されていた。

 ならば、今、記者たちを引き連れて生存を誇示し始めた〝北朝鮮の最高指導者〟は一体何者なのか……?

 影武者以外の可能性はない。

 ラジオから漏れる声が聞き取れる。

『……キム・ジョンウン氏の一行は、間もなく視察予定の遊園地に到着する予定です。長い間健康状態を不安視されていた北朝鮮の最高指導者は、このような劇的な形での登場で世界中の不安を払拭いたしました――』

 小野田も、不安げな表情を浮かべる。

 男たちの目が、恵子に集まる。

 根本が言った。

「あんたの計画は大丈夫なんだろうな……?」

 恵子は、冷たい笑みを浮かべていた。

「当然さ。ジョンウンは日本側の手にある。姿を見せたのは影武者に決まってる。それなら、こっちの計画に織り込み済みだよ。大方、記者どもにせっつかれて、〝ジョンウン〟も姿を見せないわけにいかなかったんじゃないのか? そもそも、あたしたちの役目は、このバスの〝乗客〟を無事に日本へ連れ帰ることだ。彼らさえ取り戻せるなら、正直なところ、ジョンウンがどうなろうが、北朝鮮がどうなろうが、知ったことか」

 小野田がうめく。

「そんな、投げやりな……」

「だが今は、こっちにできるのはディフェンスだけだよ。ボールは、向こうにあるんだから」

「影武者は想定済みだって、本当なんだろうな? 北や中国が何か企んでいるなら……こっちの計画に悪影響はないのか?」

 恵子の頬から笑みが消えた。

「奴らが何かを企んでいるのか正確に見抜くには、もう少し様子を見なくちゃならない」

 根本がつぶやく。

「しかし、ジョンウンを日本で爆殺してその責任を負わせようとしている一方で、国内で影武者を誇示するんじゃ効果は帳消しだ……。奴ら、何を考えているんだ……?」

 小野田が小声で叫ぶ。

「爆殺ってどういうことだ⁉」

 根本が言った。

「今、ジョンウンを乗せた輸送機が日本に向かっています」

「何だって――?」

 そして小野田は言葉を失った。

 大森が言う。

「やっぱり、日本海で殺すつもりなんじゃないか?」

 恵子が、わずかに考え込む。

「だったら、飛び立ってすぐにミサイルを撃ち込めばいい。そもそも、徳山基地で殺すことだってできた。とはいっても、確かに理屈は通らないね……。なんだってこのタイミングで、影武者の姿を晒したんだろう……? ……あ、そうか。期待通りにジョンウンが日本で死んだときは、『姿を見せたのは影武者で党委員長の行動を隠す側面援護だった』と言い訳はできるか……」

 根本が問う。

「そういう〝逃げ〟はできるが、わざわざ姿を見せる必然性があるか? どう見ても不自然だ。ジョンウンが日本で手術することは誰も知らないんだから、ただ黙っていれば言い訳すらいらないじゃないか」

 恵子もうなずく。

「どこかに、黙っていられない事情があるんだね。やっぱり、何か〝悪さ〟を仕込んでる。攻め込んでくる準備を着々と進めてるわけだ。ま、こっちが取れる手段は全部打ってある。向こうの出方を待つしかないよ。待つにしても長いことじゃないから。今、焦ってドタバタしているのはあっちの方さ」

 根本は小さくうなずきながらも、しかし言わずにはいられなかった。

「あんた……なんでそんなに、楽しそうなんだ?」

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