10《チームB》――JST09時31分

 クリムゾンスター・ホテルがモンゴルでの交換場所に選ばれた表向きの理由は、中国資本で建設されたことだ。北朝鮮の陰に身を隠した中国軍を油断させる効果は低くない。しかも、設備の不備が原因で宿泊は常に少なく、決行直前でも容易に〝貸切〟にできる。あらかじめ建物の細部まで調査して対策を練る時間も、充分に得られるのだ。

 だが裏に隠れた本当の理由は、モンゴル政府がいつ倒壊しても構わない――むしろ、さっさと壊してしまいたい目障りな建築物だと、腹立たしく感じていたことにある。

 クリムゾンスター・ホテルがモンゴルから消えることは、中国の影響力が弱まること意味する。政府間の裏交渉では、その跡地に日本の資本が新たなホテルを建設することも合意されている。

 安全で快適な美しい宿泊施設が生まれれば、世界各国からの投資の呼び水にもなる。何よりも信頼が置ける日本の企業や観光客がモンゴルの価値に注目する。いずれは日本政府と全面的に手を結んで21世紀の〝満州国〟を打ち立てたい――それはモンゴル政府の秘めたる野望でもあったのだ。

 その願いの象徴――クリムゾンスターの崩壊が、現実となっていた。

 3台の観光バスがゆっくりと走り出す。最後尾の窓から見える風景の中で、クリムゾンスター・ホテルの最上階が炎を吹いて崩れるのが見えた。爆発音の大きさから考えると、ホテル全体が倒壊しないのが不思議なほどだ。いかに〝中国製〟ではあっても、最低限の強度は備えていたという事実が、むしろ意外だった。

 バスの最後尾の席では、外務省や警察関係者が怯えたように身を縮めている。彼らには、一体何が起きたのか全く理解できていなかった。

 最初の異変は、突然ホテルの自室に現地の過激派らしき集団が乗り込んできたことだった。日本のNSCから『北朝鮮での作戦に齟齬が生じた』という警告を受けたのと同時だった。

 そもそも彼らは北朝鮮国内で何が行われていたのかを知らされていないし、〝齟齬〟の内容も判明していない。それだけでも対応し難い事態なのに、なぜかいきなり自分たちが〝襲われ〟たのだ。

 抵抗する余地はなかった。

 過激派たちは、皆、銃を手にしていた。彼らは日本人たちの背中に銃を突きつけて部屋から追い出した。周囲を警戒しながら念入りに無人であることを確認し、廊下へ、そして階段へと下っていった。最終的には広い調理場を抜け、その下のボイラー室へと追い立てられた。

 だがそこには、さらに下へ伸びる階段があり、コンクリートを打ちっ放しにした防空壕のような空間へと続いていた。点々と裸電球がぶら下げられた、薄暗く狭苦しい通路だ。

 羊の群れのように追われる日本人たちにはそこが何のために作られたのか、どこに続いているのか、全く分からなかった。急き立てられて息切れを覚える頃になってようやく、上りの階段に出た。さらに階段を上がっていく。

 その先には観光客相手の小さなおみやげ屋があった。ドアを開くと、いきなりカラフルでエキゾチックな人形や工芸品であふれた狭い店の中に出たのだ。

 店のウィンドウの外の路地には、3台の大型観光バスが止まっていた。

 クリムゾンスター・ホテルが建っていたブロックの反対側に出たようだ。

 バスの間から根本誠が姿を表す。店のドアを外から開けながら、先頭に立っていた小野田に命じた。

「最後尾のバスに乗ってください」

 足早で歩き続けて息を切らせた小野田が歩道に出て言った。

「君……君がこんなバスを準備したのか? 一体、何のために?」

 と、遠くにかすかな銃撃のような音が聞こえた。

 根本がうなずく。

「過激派のテロから逃げるためですよ。拉致被害者は全員、もうバスに乗って身を隠しています」

 大森が驚いたように言った。

「全員? あの通路を通ってか? 100名以上いるんだぞ。一体、いつの間に……?」

 根本が急かす。

「とにかく、バスに身を隠して。すぐに移動を開始します」

 バスに向かいながら、小野田が問う。

「こんなことは計画にはなかった。本国に連絡を取って上司の指示を仰がねば――」

 小野田が取り出した衛星携帯電話を、根本が素早く奪い取る。

「そんなことを言っている場合ですか⁉ ホテル全体が過激派に襲われているんです。彼らの目的は、日本人じゃない。北朝鮮の軍人に化けている中国兵に攻撃を加えているんです。拉致被害者が巻き込まれないように手を尽くすのがあなたの責任でしょう⁉」

「電話を返せ!」

 根本は小野田をにらみつけた。

「しばらくは、誰とも連絡を取らないでいただきたい。大森さん、あなたもです。中国側に傍受されると隠密行動が台無しですから」

「なんの権限があって私に命令するんだ⁉」

「拉致被害者解放の舞台設定をNSCから任されました。それでは不充分ですか?」

 根本は確かに、小野田たちが来るはるかに以前からモンゴルで準備を進めていた。NSCの命令がなければあり得ないことだ。

「それはそうだが……だが、なぜ我々が銃で脅される? なぜ我々が過激派に追い立てられなければならないんだ⁉」

「彼らは、日本人を自分たちの争いに巻き込みたくないんです。過激派のせいで日本人が死ねば、噂が広がって投資が細ります。モンゴルの利益にはなりません。だから、戦闘が激化する前にこうして逃げ道を準備してくれたんです」

 小野田が振り返って土産店の中を覗き込む。彼らを追い立てた過激派地下組織は、すでに姿を消していた。

 小野田がバスに乗り込みながらつぶやく。

「だが、これからどこに向かうんだ?」

「もちろん、空港です。取引は、すでに終わっています。日本は、北朝鮮の要求に応えた。だから全員、日本へ帰ります」

 バスの通路に上がると、確かに座席は拉致被害者と日本の職員たちで埋まっていた。皆、息を潜め、外から姿を見られないように伏せて頭を抱え込んでいる。

 その間を、彼らは奥の席へ向かった。後部に座っていた見知らぬ中年女性が、携帯電話のようなものに話しかける。

「出発だ」

 その女性と根本は、アイコンタクトを交わして小さくうなずき合った。

 バスが動き始める。路地から大通りに出ると、背後にクリムゾンスター・ホテルが見えた。同時にホテルの最上階が炎を吹き上げ、大きな爆発音が立て続けに起きる。バスの窓が爆風でかすかに振動した――。

 最後尾の席について背後を見つめる大森が、呆然とつぶやく。

「何が起きているんだ……?」

 隣に座った根本が改めて説明する。

「地元の過激派地下組織――『赤い鉤十字』がホテルを襲ったんです。彼らは、中国軍に激しい憎しみを抱いています。どうやら、ホテルに集結していた北朝鮮兵の多くが、実は中国軍人だという情報を得ていたようです」

 根本が差し出した携帯電話を受け取った小野田が、うめいた。

「それはこちらでは暗黙の了解だったことだが……どこから情報が漏れた? なぜ、ホテルを破壊する? 中国軍人は、それほど恨まれているのか?」

 根本は鼻で笑うように言った。

「過激派の行動原理など、理解できません。モンゴルで情報がどう流れているのかも分かりません。ただ、モンゴルの情報機関は北朝鮮と常に人的交流を行っています。そこから北の情報が入ってきても不思議ではありません。情報機関が汚れ仕事に過激派を利用することも普通のことです。過激派にスパイを潜り込ませているかもしれませんし、機密情報をリークすることでコントロールすることもできるでしょう。ですが、モンゴルで中国人が嫌われているのは疑いようのない事実です。モンゴル人を家畜のように扱う中国人の横暴は、近年は許容できる限度を超えています。ある意味、彼らが激突することは避けがたい状況にあったのです。だからこそ、クリムゾンスター・ホテルには建築当時から地下に抜け道があったのです。もともと中国共産党の幹部や軍人が利用するはずの施設でしたから、万一襲われた時の脱出用に作られたのです。日本で有名なモンゴル人力士が、この国の中央情報機関の大物の家系でもあります。そんなつながりから、日本人をまず退去させるという好意的な対応策を取ってくれたのでしょう」

 黙って根本の説明を聞いていた大森が厳しい口調で言った。明らかに、非難している。

「当然、偶然ではあり得ないな。君が仕組んだことか?」

 根本がとぼける。

「何のことですか?」

「なぜ、都合よく3台ものバスが待ち構えている? 君が全て手配したのだろう? 過激派組織と結託していたんだろう? ホテルが襲われることも、承知していたのだろう? いや、君が襲撃を指示したんじゃあるまいな⁉」

 根本が、不意に冷たく鋭い視線を大森に向けた。

「だとしたら、どうだと言うのですか? 私たちは今、中国と北朝鮮の軍隊を相手にしているんですよ。最も狡猾で野蛮な組み合わせだ。彼らの言葉を信じて、誠意を尽くせというのですか? 正論を主張してさえいれば、彼らが従うとでも思っているんですか? 私は、万一の場合に備えていたまでです。その万一が、現実になった。それだけのことです」

「だが――」

 根本の口調が厳しさを増す。

「あなたがたは、北朝鮮が『引き渡しは中止だ』と言ってきたら、どうするつもりでしたか? 実際に、あのホテルは北と中国の軍人で溢れていました。彼らが銃を持ち出してきても、あなたは拉致被害者を取り返す覚悟がありましたか?」

 大森が胸を張った。

「もちろんだ」

「どうやって? 今までのように、話し合いで、ですか? それでも埒が開かなければ、もう一度話し合おうと追いすがるんですか? それとも、何兆円もの税金を渡して土下座するんですか? 日本側からは外務省と警察の職員しか来ていないことを、彼らは知っています。武器を取って戦える自衛官すらいないことを調べ尽くしています。自ら憲法で手足を縛った日本には、戦う意思もない。だから彼らは拉致被害者を、もう一度拉致しようと企んでいたんですよ。私たちの目の前から! ニヤニヤと薄笑いを浮かべて、これ見よがしに武器を誇示しながら! それでもあなたは、同胞を救い出せると言うんですか⁉ どうやって⁉」

「それは……」

「あなたは、武器を持った北朝鮮兵の前からどうやって日本の国民を取り返すつもりだったのですか⁉」

 小野田が加わる。

「北朝鮮軍が非武装であることは確認した」

 根本はうなずいた。

「確かに、双方のボディーチェックでは武器は見つかりませんでした。ですが、あなたは彼らを信じられるんですか? あのホテルはもともと中国の持ち物です。最初から武器を隠しておくことはたやすいし、事実そうしていました」

「確認したのか?」

「もちろん。2日前に、従業員を装って潜入しました。拳銃やカラシニコフからロケット砲まで、ごっそり隠していましたよ」

「なぜ言わなかった⁉」

「言ったら、あなた方はどうしました。北朝鮮に抗議するんですか? 取引を中止して、ようやく訪れたチャンスを無駄にするんですか? あの連中が、口先だけの脅しで怯むと思いますか?」そして根本は、口調を荒げた。「何度騙されれば分かるんだ⁉ 相手は北と中共なんだ。まっとうな交渉で拉致被害者が取り返せるなんて、甘ったれるんじゃない! そんな抗議をしたら、取引そのものがご破算になりかねない。我々の目的は、北のご機嫌を取ることじゃない。拉致された日本人を奪還することだ!」

 小野田は言葉を失って、視線を落とした。

 代わりに、がっくりと肩を落とした大森が言った。

「だが、どうやってこんなに大人数を移動できたんだ?」

 根本の怒りは、一瞬で収まっている。

「クリムゾンスター・ホテルの部屋が、道路の向かい側の雑居ビルから監視されることは予測してました。そのためにあえて、拉致家族を休ませる部屋を道路側に限定したのです。で、北の見張りはそのまま放置しておきました。ホテルの中では、密かに中国兵を一人ずつ倒して、地下組織のメンバーとすり替えていきました。見張りが入れ変わったフロアでは、拉致被害者の家族の確認が終わって部屋に入った順に、現地の仲間と衣類を交換して入れ替わったんです。家族のデータはあらかじめ手元にありましたから、それに似た現地民を集めて最初から部屋に送り込んでいました。外からカーテン越しに監視している兵士は、部屋の中で動き回る人数が合っていれば家族が入れ替わっているとは思わないでしょう。で、目立たないように監視の隙を見ながら、一家族ずつ部屋を抜け出してバスに移動しました。ホテルの細部まで知り尽くした従業員を味方に付けたからこそできたトリックです」

 もはや大森は、根本を責めるような気配は見せなかった。

「なるほど……だが、今、北朝鮮では何が起きているんだ? 拉致被害者解放の交換条件として何らかの作戦が進行していることは知っている。だが、内容は私たちにも漏れて来ない。その計画が狂った、という情報が入った途端に襲われたんだが……」

「もう話しても構わないでしょうね……」

 そして根本は、北朝鮮徳山空軍基地で行われていたキム・ジョンウンの心臓病治療計画を明かした。

 大森がつぶやく。

「まさか、北に自衛隊を送り込むとは……」

「あくまでも、NPOの人道的医療支援という建前です。実際に、武力を行使できる部隊ではありません。ですが、北朝鮮相手の交渉が初めから順調に進むとは思っていませんでした。予定の変更に備えて、あらかじめこのような手段で強引に拉致被害者を奪還したのです。仮に北に送った部隊が全滅したとしても、彼らだけは取り返さなければなりませんから」

「そんな……。彼らは、死ぬ覚悟で……?」

「むろん、犠牲は避けたい。民間人の命まで危険に晒すことになりますから。ですが党委員長の重病を治療しようというのです。最悪の場合を想定しないわけにはいきません」

「ホテルの兵士たちはどうなった?」

「さあ? 彼らを襲ったのは、実際にこれまで中国に反抗してきた地下組織のメンバーです。どうするかは、彼らに任せます。人質になりそうな士官は、生かしておいて身代金を要求するんでしょうね。そこは、我々が関知すべきことではありません」

「しかし、あれほど破壊されたのでは、ホテルはもう使い物にならないんじゃないか……?」

「元からガラクタですから。モンゴル政府高官には、日本で力士をしていた人物がいます。彼が日本の資本と話をつけていて、あのホテルを建て替えることになっています」

「だからクリムゾンスターを選んだのか……」

 根本は小野田に言った。

「小野田さん、モンゴル政府は表向き我々に協力したわけではありません。北朝鮮や中国との関係を壊さないためにも、そのような手段は絶対に取れません。ですが、モンゴル政府に目をつぶってもらった行動は数多くあります。作戦を隠し通すために、ちょっとした〝お目こぼし〟が必要だったのです。彼らは、本質的には日本の味方です。経済力が大きい今の中国には逆らえないから、従っているまでです。本来、中国共産党はモンゴルの〝敵〟なのです。外務省はくれぐれもそれを忘れないでください。モンゴルはこれまで以上に中国の激しい圧力に晒されることになるでしょう。日本は、モンゴルを見捨てないでください。少なくとも資金面で追い詰められることがないように、必ず支えてやってください」

「努力はするが……」

 根元の声が低く、冷たく変わる。

「結果を見せてください。万が一にも外務省がモンゴルを切り捨てて中国のいいなりになるようなことがあれば、私は個人的にあなたを制裁します。命があるとは思わないように」

 小野田の顔がこわばる。

「貴様……外務省を恫喝する気か!」

「恫喝ではありません。事実を伝えているに過ぎません。処分するのは外務省ではなく、あなた個人です。手を下すのは防衛省ではなく、私個人です。誰にも知られずに標的を消す能力が、私にはあります。ちなみに、処分はあなたのご家族や愛人から始めます。くれぐれも、単なる脅しだなどと勘違いしないように」

 恐怖に目を見開いた小野田が、言葉を呑み込む。

 代わって大森が言った。

「聞き捨てならないぞ。君は人の命をなんだと思っているんだ」

「大陸では、人の命など大した価値はありません。中国軍に反抗的な姿勢をとれば、その場で射殺されても文句は言えない。それでもモンゴルの友人たちは、我々に力を貸してくれた。彼らは、命を捨てる覚悟を持っています。新たな国を興そうと必死だからです。だから我々も、命を持ってその覚悟に応える。無論、あなたもあなたのご家族も標的に含まれます。今回の作戦は全て極秘です。日本に不利な情報をリークするようなことがあれば、私はためらいません。警察庁の手綱は、しっかり握っていてください。上司への報告も充分に内容を精査して、余計なことは絶対に漏らさないように。情報を持たない人間を処分する必要はありませんから。特に、警察幹部と親中派の議員などとの繋がりには注意してください。私に彼らまで殺させないようにお願いします」

 大森もまた、黙り込むしかなかった。

 バスが街から離れていく。

 と、携帯で指令を出した女性が立ち上がって、車内の全員に聞こえるように言った。

「みんな、もう普通にして大丈夫だよ。でも、まだ日本に着いたわけじゃない。なるべく静かに、目立たないように、ね」

 途端にざわめきが広がった。一斉に体を伸ばし、安堵のため息を漏らしたのだ。

 女性が立って、根本に歩み寄る。

「根本さん、北から連絡が入った。車は荷物を乗せたまま帰ってくる」

 根本の目が厳しさを増す。

「やはり、向こうで波乱があったか……。まあ、一筋縄で行く相手ではないからな。で、次のプランは?」

「Fだ」

「最悪、かもしれないな……」

 男たちの目が、初めて見るその中年女性に向かった。

 大森がつぶやく。

「あんた……誰だ?」

「根本さんの古くからの友人さ。腐れ縁でね」

 根本が言う。

「田中さん……田中恵子さん、とでもしておきましょうか。彼女の素性は詮索しないように。これも処分の対象になります」

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