8《ウランバートル》――JST08時43分
北朝鮮の士官が本国からの緊急連絡を受けて、6階の〝貴賓室〟でくつろぐソ・ギョン中将のもとに走った。
「中将! 党委員長が徳山航空基地で何者かに襲われた模様です!」
中将がニヤリと笑う。
「始まったか……。ではこちらも、行動を開始する。各部屋の人質たちを至急連れ戻せ」
「は! 日本から来た担当者たちはいかがいたしますか⁉」
「それは中国に任せろ。あいつらは、日本と交渉できる人質を欲しがっている。『混乱から救い出したんだ』とか何とか言って恩を売って、死んだも同然のAIIBの金づるにでも引きずり込む目論見だろう」
ホテルに入った北朝鮮軍人の半数以上は、中国瀋陽軍区――強引な組織改編によって〝北部戦区〟と名称を変えた地域から送り込まれた兵士だった。瀋陽軍区は、北朝鮮軍内の親中派組織と連携して、今まさにキム・ジョンウンを亡き者にしようと行動を起こしたのだ。
「了解いたしました! 直ちに人質回収作戦を開始いたします!」
素早く敬礼した士官が、部下に命令を伝達するために貴賓室から走り去る。
ソ中将と行動を共にしていた副官もほくそ笑んだ。
「今度も小日本どもの鼻を明かせるようですね」
ソ中将が部屋の備え付けてあった最高級の紹興酒をグラスに注ぐ。
「お前も飲め。ジョンウンが消えれば、ようやく我々の時代が来る。今までのように日本の手足を人質で縛り続ければ、金はいくらでも湧いて出る。一足先に、祝おうではないか」
これまではジョンウンの警備が厳重すぎて、親中派グループの暗殺計画は何度も失敗し、企てた者はことごとく処刑されてきた。実行犯の家族や親類までを惨殺する苛烈さが、さらなる暗殺計画を躊躇わせていたのだ。ジョンウンを排除することができるのは、警備厳重な〝王宮〟から外に出ざるを得ない手術の最中しかなかった。
日本人拉致被害者の解放は、ジョンウン派が〝王〟の治療のためにやむなく申し出た交換条件だった。ロータブレーターを完璧に扱える医師が必要だったに過ぎない。ジョンウン自身、治療が成功しさえすれば日本との約束など破っても構わないと考えている。『家族を含めた拉致被害者を全員日本へ引き渡す』という異例な好条件を提示したのは、最初から解放する気などなかったからだ。
だからこそジョンウンは、拉致被害者の〝警護〟と称して大量の軍人をモンゴルに送り込めと命令した。手術成功の一報を受け次第、再び拉致被害者を拘束して自国に取り返すことが目的だ。
一方で、軍のあらゆる場所に浸透していた親中派は、北京政府が望む北朝鮮の姿を正確に理解していた。中国にとって、北の核武装は本質的に許し難い。北の核が日本やアメリカを狙っているうちは利用価値があっても、いったん関係がこじれればそれが中国本土に打ち込まれる危険があるからだ。ジョンウンが中共のグリップから離れようともがきはじめた今、彼らの怒りと苛立ち、そして恐怖は極限に達している。国際常識を物ともしないジョンウンの発想は、北京政府にとってさえも制御できない、危険な〝暴れ馬〟となっていた。
しかも、北京政府――いや、習近平が中国のすべてを管理できていない点が問題をさらに複雑にした。軍改革以前の中国は大きく7つの軍区に分かれ、それぞれが独立した国家のように振舞っていた。外部からは中央集権的な〝人民開放軍〟に見えていても、実際は自由気ままに利益を貪る独立採算制の〝商売敵〟でしかないのだ。その巨大な利権集団であった陸軍から権力を奪うことが習近平一派の目論見だったが、いかに軍のトップを入れ替えようが末端は動かない。むしろ権益を侵された軍が逆に習近平暗殺を企てる可能性が日に日に高まっていた。政治局常務委員7人の中での抗争が軍へのグリップを曖昧なものにして、総書記肝いりで始められた軍改革を血みどろの茶番劇に変えているのだ。
中でも瀋陽軍区と北朝鮮の関係は特別に深い。朝鮮半島が日本の一部だった時代、瀋陽軍区は満州という独立国だった。日本が〝作り上げた〟近代国家として、朝鮮半島と一体化して運営されていたのだ。さらに第二次大戦戦後の朝鮮戦争時、北側への〝支援〟のために血を流したのも瀋陽軍区の部隊だ。彼らの関係は『血の紐帯』とも呼ばれ、その強さは国家の方針を超えることすらある。彼らが協力して新たな〝満州国〟を再興しようとしているという観測は、何度否定されても消滅したことがない。
経済的な結びつきも緊密だ。北朝鮮の資源は瀋陽軍区を経由して国外へ輸出され、その収入が双方を潤していた。北が貧困に喘ぎながらも核開発を行って来られた理由の一つが、瀋陽軍区からの〝裏援助〟にあるのだ。瀋陽軍区にとっても、北の核は有益だった。万が一中国が分裂して争うことになれば、いつでも北朝鮮と同盟関係を結んで、北京や上海を核で恫喝することが可能になるからだ。
だからこそ共産党幹部は、軍を再編してその危険を排除しようとした。だが、たとえ幹部を挿げ替えても長年の結びつきは簡単には消えず、既得権益を侵された現場の軍人たちを不満を高めるばかりだった。それでも彼らの目的は今回に限って奇妙に一致し、作戦が動き出した。
北京政府は、ジョンウンを排除して中共の傀儡政権を打ち立てたかった。旧瀋陽軍区も、緊密な結びつきを保っていたチャン・ソンテクを排除したジョンウンを危険視していた。そして北朝鮮軍内の親中派も、ジョンウンの〝狂気〟に恐れを抱いていた。
ジョンウンの心臓病がその三者の思惑を撚り合せる触媒となり、暗殺計画は太く大きな流れとなった。
北朝鮮の親中派――親瀋陽軍区派は、ジョンウンの〝人質回収計画〟に随行する軍人たちを身内で固め、モンゴル国内に入ってからは密かに中国軍を引き入れた。同時に北朝鮮国内で、ジョンウン暗殺計画を準備した。しかも、単に暗殺するだけではなく、その責任の全てを日本に転嫁する策略を張り巡らせていた。
その作戦が開始されたのだ。
ジョンウンを排除できるなら、治療など必要ない。拉致被害者も解放する必要はない。ジョンウンが指示した〝人質回収計画〟に便乗して圧倒的優位な兵力を使い、北朝鮮へ連れ戻せばいい。そのまま全員が死ぬまで国内に閉じ込め続ければ、彼らが見聞きした内部情報が国外に漏れることはない。日本政府と交渉する〝人質カード〟としても、より威力を発揮する。
そもそもこの拉致被害者解放プロセスは、極秘裏に行われてきた。存在を知るのは両国のトップの一握りと現場に赴く者たちだけだ。ジョンウンの病状悪化が引き金となって急ごしらえで設定された秘密交渉であり、日本と北朝鮮の両国には基本的に公式な記録は残されない。国家の最高指導者の健康不安を世界に知らせないためという口実で、北朝鮮が〝残さないこと〟を強く要求したからだ。
モンゴルのホテルに拉致被害者が集められた〝事実〟は、記録上〝存在しない〟といっていい。一方で、徳山空軍基地には、自衛隊の輸送機が着陸した記録が残る。明確な映像記録を残すように、〝ジョンウン襲撃部隊〟には厳命が下っている。つまり北朝鮮は、『日本が最高指導者を殺害するために徳山空軍基地に侵入して軍事行動を開始した』と主張する根拠を手に入れたのだ。
無論、世界はそんな話を信用しないだろう。軍事関係者は皆、自衛隊が憲法に縛られて身動きできないことを知っている。それでも、日本を非難する材料にはなる。ジョンウンが自衛隊機の中で死ぬだけで、世界有数の経済大国から金を引き出す道具になる。『賠償がなければ拉致被害者の解放はあり得ない』と強弁する口実が得られるのだ。
しかも彼らの目的は、それだけではなかった。ジョンウンの〝死に方〟に、さらに大きな意味を持たせようと企んでいたのだ。中国軍が立案した策略が完璧に成功すれば、日本をさらにコーナーへ追い詰めることができる。北朝鮮が日本より優位に立ちながら、堂々と中国の傀儡政権を打ち立てることができる。国際世論を説き伏せながらそれを実現できる〝仕掛け〟を、彼らはすでにジョンウン襲撃部隊に仕込んでいた。
日本は、その策略の中に自ら飛び込んできたのだ。
ソ中将たちにとっての関心事は、もはや〝勝つか、負けるか〟ではなかった。〝日本から奪い取る戦利品を、どれだけ膨らませられるか〟だったのだ。
と、副官が衛星携帯電話で緊急連絡を受ける。
「なんだ?」
ホテル内に散った部下からの報告だった。小さなスピーカーから雑音混じりの声が漏れる。
『大変です! 部屋に入ったはずの日本人たちが消えています!』
副官のほくそ笑んだような表情が凍りつく。
「なに⁉ どういうことだ⁉」
『各部屋の人数は揃っていますが、みんなモンゴル人に入れ替わっているんです! 日本人たちと服を交換して、人質のふりをしていたようです! 子供達まで、全員モンゴル人のようです!』
「人質はどこに行った⁉」
『分かりません――』
ソ中将が副官の携帯を奪い取る。
「日本の外務省員たちはいるのか⁉」
『彼らも消えています!』
「中国兵は何をしている⁉」
『それも分かりません! 姿が見当たりません!』と、スピーカーから銃声が聞こえた。カラシニコフの連射のようだ。『戦闘が始まっています! あ、こっちにも――ぎゃあああ!』
再び銃声が響いて、通信は途絶えた。
ソ中将は副官に命じた。
「部屋を出るぞ!」
何が起きたかは理解できない。だが、自国の兵士や中国兵が何者かに襲撃されていることは疑いようがない。勝ちを確信したのは間違いだった。日本側も、何らかの対抗策を準備していたのだ。
今まで、いいようにあしらってこられた軟弱な日本が、不意に牙を剥いてきたのだ。本気になった時の〝日本軍〟の強さは、彼らの脳裏に染み付いた最大の恐怖だ。
どんな反撃を仕掛けてきたのかは、理解できなかった。だが、決断は早かった。北朝鮮の人間は皆、危険を察知して身を守る感覚だけは研ぎ澄まされている。
ソ中将が先頭に立って、見かけだけは重厚な合板製のドアを押し開いて廊下に飛び出す。2機あるエレベーターが両方故障していることは知っていた。足早に階段へ向かう。ホテルの外へ脱出しようとしたのだ。
できなかった。
廊下を曲がると、階段の降り口に10人ほどの男たちが下着姿で後ろ手に縛られ、猿ぐつわをはめられ、跪かされていた。
ソ中将は、彼らの顔に見覚えがあった。北朝鮮軍の制服を着て人質たちの警備に当たっていた中国兵だ。計画では、ソ中将が指示を送れば、彼らが一斉に人質たちの奪還に動き出すはずだった。だが今は、制服を奪われ、拘束されている。つまり、制服を奪った者たちが、それを着て北朝鮮兵に〝化けて〟いるのだ。
ホテルはすでに、何者かに制圧されてしまっている……。
ソ中将の顔から、一気に血の気が引く。
縛られた兵士たちの横の階段から、思い思いの着古された服を身にまとった男たちが現れ、中国兵の背後から銃を向ける。一目で、貧しい遊牧民だと分かる。そして明らかに、過激派の集団だ。
その中にナラブジャムソがいた。
一人の若者が壁に向かって、ペイントスプレー缶で赤いハーケンクロイツを吹き付け始めた。『赤い鉤十字』――ネオ・ナチとも呼べる、反中国を掲げる民族主義的地下組織だ。モンゴル人の純血主義を貫くためと称して、暴力的な行動を取ることも珍しくない。
ソ中将の大きすぎる帽子を見たリーダーらしい人物が、笑った。
「やはりここにいたな、頭でっかち」
ソ中将の傍の副官が、カラシニコフを素早く彼に向ける。だが、次の瞬間には全身に銃弾を浴びて吹き飛ばされていた。銃声が廊下に響き渡る。
ソ中将が身をすくめる。
過激派の一団が進み出て、リーダーが副官の血まみれの死体から銃を奪った。銃にもまた、大量の鮮血が飛び散っている。それを、背後にいた青年に渡す。
「お前が撃て」
命じられた青年は、微かに震えながら銃を受け取った。怯えている。だがその目には、決意もある。
自分がやらなければならないのだと、覚悟を決めている目だ。唇を噛んで銃を握りしめ、振り返る。銃口をゆっくり、下着姿で恐怖のうめき声をあげる中国兵たちに向ける――。
それを見たナラブジャムソが、素早く青年の前に出て銃を奪った。
過激派のリーダーらしき人物が食ってかかる。
「こいつに撃たせろ! 目の前で母親と妹を凌辱されたんだぞ!」
ナラブジャムソはふんと鼻で笑った。奪った銃で、縛られたまま金切り声をあげて命乞いをする中国兵たちの額を次々と撃ち抜いていった。一人に一発ずつ、確実に命中させていく。
その表情には、何の感情も浮かんでいない。銃を握った腕だけが、正確無比な機械のように一定のリズムを刻んでいく。
止める間もなかった。引き金にかかった手に指が欠けているのを見て、リーダーが息を呑む。
「あんたが、あの伝説の男なのか……」
ナラブジャムソは無表情のまま、中国兵を全員射殺した。そして、目を丸くしていた青年に穏やかに語りかけた。
「血糊を浴びるのは、私の役目だ。お前は未来を見ろ。綺麗な手で、モンゴルを作り直せ。お前の役目を果たせ。日本人が、きっと力を貸してくれる。日本人は、モンゴル人を馬鹿にしたりしない。努力する人間を決して見捨てない。共に汗を流してくれる。お前が日本人を裏切らなければ、いつまでも友人でいてくれる。俺は爺さんから、そう教えられた。お前の手で、かつての満州国のような輝きを、もう一度祖国にもたらしてくれ」
そしてナラブジャムソは、ソ中将の前にカラシニコフを投げだした。ズボンの背中に刺した拳銃を引き出すと、ソ中将の両足のひざを撃ち砕く。
倒れてうずくまったソ中将が痛みに顔をしかめながら、うめく。
「何をする……」
ナラブジャムソは笑った。
「北朝鮮とは、これまで何とか折り合いをつけてきた。弱い者同士の助け合いだ。だが、貴様らがまだ中国と組み続けるなら話は別だ。貴様はここから動けない。動脈は外したから、数時間は死なない。いや、死ねない。生きて中国に捕まれば、お前らが中国兵を殺した罪を着ることになる」
「なぜ、そんな馬鹿な真似を……?」
ナラブジャムソは答えなかった。
振り返って階段を駆け下りていく。過激派たちが後に続く。
手抜き工事のせいでヒビだらけになっている廊下に、副官の死体から溢れた鮮血が広がり、染み込んでいく。あたりに響き渡っていた銃声が去り、嘘のような静けさが訪れる。立て続けの銃声を聞かされた中将の耳には、全ての物音は消え去ったかのように感じられた。血糊の匂いに、壁のペイントのシンナーの臭いが混じった。
そのまま、数十分が過ぎる。階下からは時折くぐもった銃声が聞こえたが、それもしだいに途切れ途切れになっていった。
ソ中将は死体の山を呆然と見つめながら、悔しそうにつぶやいた。
「なぜこんな事に……? なぜ、我々が敗れるのだ……? 計画は、万全だったはずなのに……。なぜ、テロリストなどに邪魔されなければならないんだ……」
最後に聞こえたのは、爆発音だった。
ソ中将は、それに似た音を聞いた覚えがあった。キム・ジョンウンの前で派手に行われた軍事演習での、戦車の一斉射撃だ。爆発音は、それほど大きかった。その爆発音は、何度も、何度も続いた。
そして、ホテルが崩れていった――。
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