7《チームA》――JST08時42分
キム・ジョンウンは全裸になった上に薄い手術着を羽織り、手術台に横たわっていた。その肥満体が、狭い空間をさらに圧迫している。
一見華奢なパイプを組んだような手術台の体重制限は100キロだが、それを超えているはずのジョンウンにもビクともしない。その『安全率』の高さこそが、日本製品の信頼性なのだ。足先は、ハートユニットのドアを向いている。
ドアから中を覗き込んでいるのは、通訳のニーナと4人の北朝鮮軍人だ。国家安全保衛部の将校と部下たちで、一人は〝中将〟と呼ばれていた。彼らは、名乗りもせずに輸送機に乗り込んできた。今は全員、白い不織布で出来た使い捨ての防塵スーツを着込んでいる。手術中は、空港全体が、ジョンウンの〝近衛兵〟である国家安全保衛部の部隊で警備を固められているという。
機体後部のスロープは閉じられ、外気の進入はない。内部ではすでに1時間近くオゾンを発生させている上に、主要な部分は高濃度のオゾン水で洗浄されている。感染症の危険はかなり小さくなったといえる状態だった。
その間、真鍋はこれから行うロータブレーター手術の手順を詳しく説明した。その説明をニーナが朝鮮語に翻訳し、北朝鮮の軍人たちに伝える。軍人の一人はそれなりの知識を持った軍医だと名乗った。
ニーナが軍医の話を通訳した。ジョンウンの健康状態は安定しており、必要な点滴や薬品の投与も終わって、食事も体内に残っていないという。脂肪で膨らんだジョンウンの腕にはすでに点滴用のチューブが繋げられ、白いネット状の包帯で固定されている。
キム・ジョンウンに手術が必要なことは、北朝鮮側の全員が理解していた。今この場で治療を行わなければならないことも、納得している。
それでも彼らは、『党委員長』に危害が加えられることを恐れている。医療の現場では当然出血があり、外見だけからは内容が分からない薬品も多用する。事故のリスクもある。極端にいえば、ここで暗殺を企てても止める術はないのだ。
だから最低限の安全策として、真鍋は手術手順を詳細に解説した。軍医からは何度も細かい質問をされ、そのたびにさらに詳しい説明を加える。実際にレントゲン装置やロータブレーターを見せながら起動し、機材が発する音や振動をあらかじめ体験させた。彼らの不安を取り除くことは、大越からの要求でもあったのだ。
真鍋には、〝拉致被害者救出作戦〟の全容は説明されていなかった。全員がモンゴルで出国を待っていると説明されただけだ。大越自身が、解放計画の詳細や進行状況を知らされていないようだった。
だが、手術開始の許可が下りたなら、今の段階では北朝鮮の〝裏切り〟はないのだろう。〝ボールがある〟のは日本側――このハートユニットの中だ。
北朝鮮側も手術の結果を確認しなければカードを手放さないだろう。真鍋が手術を成功させなければ、あるいは不安を抱かせただけで、拉致被害者の解放は反故になるかもしれない。万一党委員長を術中死させるようなことがあれば、解放どころか彼らが殺される恐れすらある。
そんな馬鹿な――と笑えないところが、北朝鮮の恐ろしさなのだ。
真鍋は自分に背負わされた責任の重さに、軽い吐き気を覚えた。そこに、北朝鮮への憎しみが加わっている。それでも、医師としての責任は果たさなければならない。
目の前には一人の患者がいる。その疾患の治療に力を尽くすことは、医師の責任だ。それ以外のことは頭から追い出すべきだ――。
そう、自分に言い聞かせた。
キム・ジョンウンは無口で、表情は不安げだった。恐怖が口をつぐませているような様子だ。むろん、手術自体への恐れもあるだろう。真鍋の説明を聞きながら、視線がキョロキョロとさまよう。精一杯首をもたげて、すがるように部下たちの姿を求める。
ロシアの医師からも同じようなカテーテル検査を受けたはずなのだが、慣れてはいないようだ。あまりに狭いハートユニットの圧迫感が緊張を高めているのかもしれない。だがそれよりも、手で触れられる場所に部下がいないことに怯えていることが見て取れる。
真鍋はそう感じた途端に、ジョンウンの恐怖の一端を理解した。
彼は、暗殺を恐れている。自分を狙う銃弾を身を呈して防ぐ臣下が傍にいないことを、恐れている。空港全体を近衛兵と秘密警察で制圧しながらも、安心できないのだ。
部下を恐怖によってコントロールしてきた暴君であるがゆえに、部下の裏切りを恐れるのだ。まさに、〝孤独な王〟の恐怖だ。
真鍋は、医学的な障害も認めざるを得なかった。ジョンウンの全身は、分厚い脂肪の層で覆われている。身長はシークレットブーツを履いても160センチ台なのに、体重は明らかに手術ベッドの耐荷重規格を超えている。大方の日本人のメタボとは比較にならないほどハイリスクな段階にある。原因は、暴飲暴食とストレスだろう。心臓や脳の血管に対しては、もっともマイナスになる要因だ。
手術を進める上で、一般的な体型の患者とは違う技術的な障害が発生する恐れもある。超高肥満度の症例は、カテーテルであれ直達手術であれ、術後死亡率や合併症率がきわめて高くなるのだ。それを説明した際のキム・ジョンウンの顔は、一瞬殺意のような凶暴さを浮かべた。
それでも真鍋は、種々のリスクを全て伝えないわけにはいかなかった。そもそもインフォームド・コンセントは医師としての務めだ。しかも不可抗力の事故が原因で北を怒らせ、拉致被害者に被害が及ぶことは防がなくてはならないのだ。せめて事前に危険を知らせておけば、〝医療事故〟が起きた際でも、北朝鮮側の激烈な反応が少しでも弱まると期待するしかなかった。
その間、輸送機には燃料の補給が行われていた。無論、北朝鮮の軍人の手で、北朝鮮の燃料が入れられるのだ。C130Hに用いられるジェット燃料はケロシン――灯油を主成分として各種の添加剤をわずかに混合したJP―8だが、北朝鮮側の燃料の品質は不明確だった。したがって燃料タンクに継ぎ足される燃料は、自衛官がミニガスクロマトグラフを用いて注入前に品質をチェックした。
ガスクロは気化しやすい物質の成分を詳しく分析する装置だが、現地での給油に備えて予め準備されていたのだ。成分組成から見た中国産のジェット燃料は良質とはいえないが、1回の飛行であれば問題はないと判断された。
その後、防弾ベストを着た5人の自衛官が給油作業を監視し、機体に何らかの妨害工作がなされないかを見張った。彼らは手術が終了するまで、その場を離れるなと命令されている。キム・ジョンウンの手術が成功した後、北朝鮮がその事実が国外に漏れることを恐れるなら、輸送機を乗員ごと破壊しようと企む可能性もある。たとえ強硬手段に出ても、日本で公式の閣議を経ずに実行されたミッションならば『泣き寝入りせざるを得ない』と計算しているはずなのだ。その危険を少しでも減らすためだった。
だが、警備に当たる自衛官は一切の武器を携帯していなかった。北朝鮮の軍事基地内で銃器を見せるのはあまりに無謀だからだ。それは、万一北側が攻撃してくるなら、丸腰で防ぐしかないことを意味している。〝敵〟が銃器を持ち出すなら、〝銃弾を体で遮って死ね〟と命じているに等しい。
それでも隊員たちは、黙々と恐怖に耐えていた。
後部ランプを閉じた今も、彼らは滑走路に立って機体の周囲を警戒している。北朝鮮が相手である以上、〝誠実さ〟を求めるわけにはいかない。無事に日本に帰るためには、欠かせない用心だった。
手術前の説明を終えた真鍋が、ドアの外から中の様子をうかがっている大越に問う。
「これで手順は了解できたはずです。すぐに手術にかかれますが、初めていいですか?」
大越が機内を見回し、うなずく。
「私は初めてもらって構わない」
ニーナが朝鮮語で軍人達に質問を繰り返す。答えたのはジョンウン自身だった。ニーナが翻訳する。
「不安はあるそうですが、早く済ませてくれと言っています」
やはりジョンウンの仕草は落ち着かない。巨体をもぞもぞと小刻みに動かし、足もじっとしていない。緊張しているのだ。
額には、かすかな冷や汗が浮かんでいる。その姿からは、超大国を相手に常軌を逸した〝瀬戸際外交〟を繰り広げ、組織を掌握するために身内や忠臣を次々と粛清してきた冷酷な指導者の胆力はうかがえない。
真鍋は助手に入った難波三佐に言った。
「剃毛してください」
難波がジョンウンの手術着をめくりあげる。縮み上がった陰部が露出した。
途端に北朝鮮の軍人が金切り声をあげ、ユニットの中に飛び込もうとする。〝中将〟と呼ばれていた男だ。アンバランスに大きな帽子をかぶり、カーキ色の軍服に無数の略章を貼り付けていた老人だ。
その老人を大越が背後から抑え、朝鮮語で何かを話しかけた。大越もまた、朝鮮語を理解しているようだ。
ニーナが真鍋に説明する。
「最高指導者の陰部を露出させるのは侮辱だと、怒っています。大越さんが手術に必要な手順だと説明しました」
その手順は、すでに説明している。だが、〝最高指導者〟の目の前では、怒って見せないわけにはいかなかったのだろう。保身に必要なパフォーマンスに違いない。
ジョンウンの機嫌を損なえば、地位を剥奪されるどころか命さえ奪われかねない。老人の目の必死さは、それを物語っていた。逆に、先ほどまで落ち着かない様子だったジョンウンの頬には、満足げな微笑みが浮かんでいる。
これが北朝鮮の処世術だ。
真鍋が大越に向かって言う。
「あなたも言葉が分かるんですね」
大越はうなずいた。
「完璧ではありません。だから万全を期すために、ニーナさんに同行いただきました」
真鍋は肩をすくめて難波に言った。
「続けてください」
難波はカミソリで素早くジョンウンの左腿の付け根の陰毛を剃っていった。右腿には検査を受けた際の痕跡がまだ残っている。短い期間に二度、同じ場所にカテーテルを刺すことは避けたほうが望ましいのだ。陰毛を処理した後は、綺麗に拭った。
難波が言った。
「剃毛、終わりました」
その後、各種の点滴のチューブなどが予め腕に刺されていた針に繋げられ、ヘパリンなどの血液の凝固力を弱める抗凝固剤が注入されていった。全ての準備を終えると、真鍋が言った。
「では、狭心症に対するロータブレーターを用いた経皮的冠動脈形成術を開始します」
真鍋は切開予定の太腿を、イソジン――ヨウ素系消毒薬で消毒する。イソジンを浸した綿球を消毒されたピンセットでつまみ、それをカテーテル刺入予定の場所に塗っていく。陰部の周囲が大量出血でもしたように赤く染まった。
通常、消毒には冷たいイソジンを使用する。しかし、患者は東アジアの鬼門である〝党委員長〟だ。機嫌を損ねただけで、拉致被害者やこの部隊に悪影響が及ぶリスクがある。難波は念を入れてイソジンの加温までしていたが、その生ぬるさに逆に違和感を覚えたのか、ジョンウンの体が不安げに揺れた。
体を動かさないように何度も注意してあるのだが、わがままな〝北朝鮮王朝の王〟に我慢を求めるのは無理なようだった。彼は今でさえ、臣下の誰もが目撃したことのないほどの忍耐強さを発揮しているはずなのだ。
ジョンウンの動きに危険を感じた難波が言った。
「軽く固定しましょうか?」
真鍋がうなずく。ニーナに言った。
「手術中に体を動かされるとリスクが高まります。血管の中でドリルのような装置を動かさなければなりませんから。安全のために、足と腰をベルトで固定したいのですが、了解を取っていただけますか?」
ニーナが翻訳する。ジョンウンはしばらく軍人たちと騒がしいやりとりを行ったが、最終的に軍医がニーナに結論を伝える。
「認めます。ただし、最高指導者の権威を奪わぬように、敬意を持って行動してください、と言っています」
真鍋は思わず吹き出しそうになった。
多くの患者は、固定などせずに手術を受け入れる。手術台に固定されるのに、権威も何もない。軍医はそれを分かっていながら、あえてジョンウンに聞こえるように言葉にする他はなかったのだ。
真鍋が手術台にセットされているベルトを引き出し、ジョンウンの身体を固定していく。
その間に難波は、局所麻酔を準備していた。真鍋は、難波が麻酔科専門医の資格を持っていることを知っていた。
難波は言った。
「ちょっとチクっとしますよ」
ニーナの翻訳がジョンウンに理解されるのを待ってから、麻酔を打つ。そして、次の準備にかかった。
ジョンウンを固定し終わった真鍋が、言った。
「動脈に少し太い針を刺します。痛みは感じないはずですから、体の力を抜いて楽にしてください」
ニーナが翻訳する。数秒後、真鍋はジョンウンの太腿にセルディンガー針の先端を近づける――。
その瞬間だった。
機体の外に何かが爆発するような音が起こった。機体がわずかに揺れる。
ハートユニットを覗き込んでいた軍人たちの間に緊張が走る。彼らは、明らかにその音に〝危険〟を察知していた。
大越が叫んだ。
「真鍋先生! 手術を中止して! 何かが爆発した。この機が襲われるかもしれない!」
背後の自衛官たちの動きが一斉に慌ただしくなる。
真鍋が叫ぶ。
「襲われるって⁉」
「暗殺計画があるかもしれない!」
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