6《ウランバートル》――JST08時12分
男が4階建ての雑居ビルの屋上から、向かいのクリムゾンスター・ホテルを見つめていた。余裕を持って作られた片側3車線の幹線道路を間に挟んでいる。ホテルの背後の山並みが、朝日に照らされ始めていた。広大な草原を吹き抜けてきた風は、肌を切りつけるほどに冷たく乾いている。
男の名は、ボルジギン・ナラブジャムソ。中国の内モンゴル自治区に生まれ、人民開放軍に家族全員を拷問され、殺された。彼自身は、右手の指を2本を失いながらモンゴルへ脱出した。モンゴルへ来てからはこの国の習慣で名を先にして、ナラブジャムソ・ボルジギンと名乗っている。
10年以上前のことだ。
家族がなぜ拷問されたのか、理由は今も分からない。ウイグル自治区やチベットでは現在でも、たまたま暴動やデモや抗議行動の場に居合わせただけで命を奪われるという。彼の家族は軍人を怒らせたのかもしれない。軍人は、虫の居所が悪かっただけかもしれない。だが、家族が中国軍に反抗したことや、反乱軍に協力したことは一度もなかったと確信している。
人民開放軍兵士に理由を求めるのは、意味のないことなのだ。
ナラブジャムソの傍らに、中年の女性が立っていた。東洋系の顔立ちだが、モンゴル人とは雰囲気が違う。
明るいカーキ色のダウンジャケットを着た彼女が、モンゴル語で言った。
「いよいよだね。あんたの協力には感謝するよ。こんなに短い時間で、よくあれだけの仲間を集められたもんだ。結局、何人揃えたんだ?」
「さあ? だが、充分だろう?」
「充分すぎる――かもね。だけど、子供たちまで用意してくれていたのはありがたい」
「みんな、金が欲しいからね。家族を養わなければないんだ。噂を聞きつけて手伝わせろとねじ込んできた連中も多い。私は、朝鮮語を話せる人間を集めろと声をかけただけだ。奴らの鼻を明かせるなら、それだけで生命を賭けるという者もいる。ここは俺たちの国だ。奴らの勝手にはさせない」そして、傷だらけのGショックに目を落とす。「そろそろ部下が配置できた頃だ。だが、本当に士官を人質に取れるのか?」
「あんたたちが望むなら、ね。人質にしたところで身代金になるかどうかは分からないよ。なにせ、中国軍のことだからね。でもまあ、不足分はこっちで都合できると思う」
「あんたが言うなら、信頼しよう。だが、たとえ金にはならなくても、不満は言わない。我々は常に頭を押さえ付けられてきた。かつてはソ連に国土も言葉も宗教も歴史も、何もかも奪われ……奴らが去ったと思えば、中国が資源を求めて札束で殴りに来た。今では国を三つに切り刻まれ、中国に奪われた内モンゴル自治区の仲間たちは虐殺され、もはや戦う力さえ残ってはいない。ロシアのモンゴル自治区でも厳しい迫害を受けている。それでも、誇りはある。かつてはアジアを、世界を支配した民族だ。今はこの国が、我々の誇りを取り戻せる唯一の場所だ。戦える機会が得られるなら、躊躇はしない」
ナラブジャムソは、言葉通りの苦難を乗り越えてきた男だ。今ではモンゴル国内での地下組織の中心的な存在になっている。
国家としてのモンゴルは、中国に対抗できる立場にはない。経済力が圧倒的に違うからだ。中国へ資源を輸出できなければ国家運営がままならない。
現在では中国に石炭を輸送する鉄道網が、中国資本によってゴビ砂漠に整備されつつある。だがその軌道は従来のモンゴルの鉄道より狭く、にも関わらず中国の基準に合わせなければ融資を受けられない。鉄道の運用が複雑になることを我慢してまで中国の資本を迎えなければならないのが現状だった。そうして中国の浸透を許すことが、国民の反発を産んでもいる。モンゴルの国民感情の底流には反中国、そしてニューカマーである韓国の横柄さへの憎しみがマグマのように渦巻いているのだ。しかも、中国が経済的な困窮を隠せなくなるにつれモンゴル側の利益も縮小し、マグマの圧力は噴出する寸前まで高まっていた。
北朝鮮とはソ連時代からの朋友関係が保たれているが、それが地下経済の温床になり、国際社会からは非難されている。反面、その繋がりが北朝鮮との交渉に生かされる場面も少なくはない。日本も拉致問題の政府間交渉に、第三国としてモンゴルを選んだことがある。
本来自然と一体化して生きてきたモンゴル人たちは、控えめで穏やかだ。その気風は、日本人と通じるものがある。だが彼らが怒りを露わにするときは、勇猛で容赦のない戦士と化す。まさに、火山の噴火のようなものだ。そんな彼らが憎しみを掻き立てられるのは、それだけの理由があるからだ。
女が諭すようにつぶやく。
「だけど、もう一度念を押しておく。相手が相手だから、危険がないわけじゃない。下手をすると、命を落とす。この場では溜飲を下げることができても、後々禍根を残すことになるかも――」
ナラブジャムソは手を軽く上げて女を制した。
「みんな、自分のしていることは分かっている。自分の行いに責任を取る覚悟もある。金は必要だが、それだけが目的じゃない。我々はチンギス・カンの末裔たる民族だ。モンゴル人を甘く見るな、ということだ」
ボルジギンという姓は、チンギス・カンにさかのぼる家系を示す。
「だが、なるべく人は殺さないでほしい」
「迷惑か?」
「子供たちには見せたくない。人の命を奪えば、自分も大きなものを失う」
「誰が言った?」
「あたしの親父だよ」
「そうか……だが、それは中国人たちに言って欲しかった。奴らは、平然と殺す。人を切り刻むことを楽しむ。その肉を喰らうことにさえ、罪悪感を感じない。そうやって殺しても、何も変わらない。私はそれをずっと見せつけられてきた。そして今も、仲間たちが殺されている。中国国内のモンゴル人は、民族浄化されようとしている。モンゴル人だけではない。ウイグルでも、チベットでも事情は変わらない。男たちは国の外へ出稼ぎに追い出され、女たちは漢族に犯される。産まれた子供はろくな教育も受けられない。自分が何者なのかも分からず、アイデンティティーを失っていく。抵抗すれば殺される。暴動を起こせば……いや、数人が集まって世間話をしていただけで、テロリストの汚名を着せられて処刑されていく。そうして、民族としての誇りを失っていく……奪われていく……。恐怖によって心を縛られ、魂を――自分が自分である拠り所を、奪われていく……」
女は、怒りを押し殺しながら語り始めたナラブジャムソを見つめた。そして、ナラブジャムソの腹の中で渦巻く怒りを吐き出させるために、あえて刺激するように言った。
「あんた、それを自分の目で見てきたのかい?」
怒りは、判断力を鈍らせる。行動を粗暴にさせる。これから数時間は、冷静に状況を判断して的確な対応策を打っていかなければならない。冷徹な頭脳が必要だ。
頭を冷やすために、いったん自分の気持ちを見つめ直させたかったのだ。
ナラブジャムソは乱暴なだけの反政府主義者ではない。現実を直視し、歴史を学び、国際政治の力学を理解した、真のリーダーの資質を備えた男だ。ナラブジャムソが先頭に立っているからこそ、女は彼が率いる地下組織との連携を選んだのだ。
ナラブジャムソは女が挑発していると気づいていながら、誘いに乗るかのように静かに語り始める。
「私が見たのは、私の両親が虐殺された現場だけだ。だが、あれからたくさんの仲間と巡り合った。皆、中共の弾圧を逃れて命からがらこのモンゴルにたどり着いた者たちだ。親を殺された子供、妻を奪われた若者、そして数々の戦いを生き抜いてきた年老いた戦士たち――。彼らが語ることは、みな同じだ。中国共産党は、我々の敵だ。中共が生まれてからの歴史は、悲惨な弾圧の積み重ねだった……。」そして口調が、小学生を前にした教壇の歴史教師のように変わる。だがその底流に流れる憤りに、変化はない。「内モンゴルでは文化大革命で30万人以上が逮捕され、10万人が殺された。その土地はかつて、日本が満州国を打ち立てた場所だ。その頃、モンゴル人と日本人は仲が良かった。様々な民族とも共に力を合わせて、豊富な資源を元に製鉄や重工業を基盤とした近代国家を打ち立てた。満州は教育レベルも高く、帝國大学まで置かれていた。凄まじい勢いで発展する満州を見た世界は、一様に感嘆の声を上げたという。だから中共は、その国を奪い取りたかった。そのために日本が敗れた後、教育を持った者は『日本刀をぶら下げたモンゴル人』として粛清された。教育があれば騙されない。それが邪魔だったからだ。今では内モンゴルの80パーセントは中国から送り込まれた漢民族だ。当時の日本人は文化大革命を絶賛したようだが、現実は知識人の絶滅を図った大量虐殺だった。偽りの歴史を作り上げ、プロバガンダに利用する……中国の指導者が延々と繰り返してきた、血なまぐさい真の歴史だ。侵略される隣国はたまったものじゃない。ウイグルもまた、踏みにじられた。中共は96年まで地表で核実験を行っていた。人が住む場所の、すぐ近くでだ。チェルノブイリの事故は86年だ。それ以後も平然と核爆発を起こしていたんだ。20万人近くが死に、シルクロードは核汚染ロードに変わった。日本人だって、直接の被害を受けている。放出された核物質は、偏西風に乗って大量に飛ばされたはずだ。黄砂は、核物質で汚染されている。その総量は日本の原発事故で放出されたものより多いだろう」
ナラブジャムソは常々、部下になった若い兵士たちに同じ話を聞かせていたのだ。その意味ではまさに、若者たちを導く教師だった。
それまで黙っていた女も、思わずうなずく。
「西日本には、福島より放射線量が高い場所がいくらでもあるっていうからね……」
「中国はそうやって害毒を振りまいてきた。しかも、人民にパンツも履かせずに作った核爆弾を世界を恫喝する手段にした。チベットも同様で、すでに100万人以上が虐殺されたそうだ。なのに誰も、その無法な行為を止められなかった。止めようともしなかった。今はともかく、中共は金を持っていたからな。その金は奴隷化させられた中国人民が、日本の経済援助と技術協力で増やし、蓄えたものだ……。中国に、人間はいない。いるのは、人間の形をした怪物とエサだけだ。怪物は、土地も生き物も、ただひたすら食い尽くす。エサになりたくなければ、怪物になるしかない。怪物は、無数のエサを喰らって肥え太っていく。さらなるエサを求めて、共喰いを始める。そしていずれ、国の外に巣を作って世界を喰らい始める……。その背後にアメリカを始めとする白人社会の企みがあったとはいえ、中共という怪物を卵から孵して育てたのは、あなた方日本人だ。日本こそが、中共に資本と技術とマンパワーを注ぎ込んだ〝母親〟だ。ドイツもイギリスもアメリカも……世界はそのチャイナマネーに目が眩み、現実から目を背けていた。今やっと、彼らの一部は中国の凶暴さに気づきつつある。だが、もう遅い。もはやモンゴルで我々を救えるのは、我々だけだ。今、闘わなければ、滅ぼされる……。それでも、なのか? それでも、殺すなというのか?」
女は、じっとナラブジャムソの目を見つめる。鬱積した思いを吐き出して冷静さを取り戻したことが見て取れた。
「それでも、だよ。あんたなら、分かるはずだ。いや、そこまで悲惨な現実を見てきたあんただからこそ、分かるんじゃないのか? 何人、何十人、殺してきたんだい? 殺して、幸せになれたのかい? 何を得られたんだい?」
ナラブジャムソはじっと自分の右手を見つめて、黙り込んだ。その手には小指と薬指が根元から、ない。
と、屋上にナラブジャムソの部下が姿を現す。
「ナラブジャムソ。敵を5人、確認した」
ナラブジャムソは、現実に引き戻されて振り返った。
「こちらの動きに気付かれてはいないか?」
「もちろんだ。主に各部屋に仕込んだ盗聴器を使って調べたからな。5人とも、やはり中国兵だと判断していい」
「中国人が、北朝鮮軍に監視を任せるはずがないと思っていた。お互いに、腹の底からは信用していない連中だからな。他に監視はいないのか?」
「今も索敵を続けている。だがおそらく、これで全部だと思う」
「気を抜かずに、捜査を続けろ。命令したら、一気に制圧するように。一人も取り逃がすなよ」
部下がうなずいて再び姿を消す。
ビルの屋上からは、クリムゾンスター・ホテルの部屋が見渡せる。カーテンが引かれた窓の多くに、まだ灯りがついている。ここ数年、誰も見た記憶がない風景だ。カーテンには、部屋の中の家族の影が映ることもあった。
その窓を、こちらのビルの階下に潜んだ〝敵〟がチェックしているはずだった。〝人質〟たちが逃亡しないかを確認しなければならないからだ。他の部下からの報告によれば、彼らは壁越しに人体の熱を感知する赤外線カメラやガラスの振動で会話を聞くレーザー盗聴装置まで持ち込んでいるという。
今も中国兵は、朝鮮語で交わされる家族の会話を、おそらく内容も分からないまま聞いているに違いない。知られても構わない内容だけを話すようにという指示も、行き渡っている。
ナラブジャムソたちは、北朝鮮と中国の連合軍が敷いた監視体制を完全に把握したのだ。いったん事が起きれば、無力化するのは難しくない。
女があらためて言った。
「中共に手を出して、組織は無事でいられるのかい?」
北朝鮮の背後に中国共産党が潜んでいることは、初めから誰一人疑ってはいない。
ナラブジャムソが声を漏らして笑う。
「そもそも監視役は軍服を着た兵隊じゃない。昨日の昼間から、このビルの空き部屋を借りるのに走り回っていた工作員だ。札ビラを見せびらかす成金を装っていたんだから、山賊に身包み剥がれても自業自得じゃないのか? しかも、なんだか分からないが金になりそうな機械もごっそり持ち込んでやがる。こっちは学のない不良遊牧民だ。身代金がぶん取れそうな人質は見逃さない――ま、そんな筋書きだよ」
女も笑う。
「悪党だな」
と、女が持つ無線電話が振動音を立てた。胸ポケットから短いアンテナがついた衛星携帯電話を抜く。
「あたしだ」
かすかに漏れる男の声は、日本語を話している。
『蜃気楼が出た。船の準備はできたか?』
「港でエンジンを温めてある」
『では、これから乗船を始める』
「あいよ」
女はナラブジャムソに言った。
「さあ、始めよう。忙しくなるよ」
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