ステージ2

5《チームA》――JST07時59分

 ジョンウンの治療が拉致被害者の解放の鍵だと説明された真鍋が、うめくようにつぶやいた。

「私にそんな重い責任を負えというのですか……? 一介の医師に過ぎないのに……」

 真鍋は、北朝鮮の拉致犯罪に深い憤りを覚えてきた。かつて愛した女性が拉致されたらしい事実を知って、その憎しみは一般の日本人よりはるかに強いと思っている。彼女は、真鍋の子供を孕んだまま誘拐された恐れさえあるのだ。

 真鍋はそれまで、密かに自分を責め続けていた。彼女が姿を消した原因は妊娠にあり、真鍋から逃げようとしたのかもしれないと思い悩んでいたからだ。医師として学ぶことばかりだった真鍋たちは、常々『結婚はもう少し先にしたい』と話し合っていたのだ。

 真鍋は妊娠の可能性を告げられたときに、結婚を決意した。そのまま共に暮らしていれば、拉致は防げたかもしれない。拉致自体は真鍋の責任ではないが、そんな後悔がずっと彼の心の重しになってきた。

 その悩みを忘れ、喪失感を埋めるために、真鍋は医学に没頭した。知識を深め、技量を高めることに集中していなければ、心の均衡が保てなかった。結果、真鍋は先端技術を貪欲に吸収し、いつの間にかカテーテル治療のエキスパートになっていた。一面では、拉致犯罪が真鍋を第一人者に押し上げたともいえる。だからといって、許せることではない。過去に戻って拉致犯罪が防げるのなら、現在の地位など捨ててもいいとさえ思ってきた。

 その非道な犯罪を行った国の指導者を、治療しなければならないのだ。それだけでも、気持ちは穏やかではいられない。一方で、治療が無事に終われば拉致被害者は解放されるかもしれない。逆から見れば、失敗すれば彼らに危害が加えられる可能性もある。

 それほど重い意味のある治療を、ハートユニットという不完全な設備で行えというのだ。

 成功させる自信はない。この患者を助けたいという熱意もない。

 だが今、拉致被害者を救えるのは真鍋だけだ。結果がどちらに転ぶにせよ、手術を拒否すればその時点で彼らから祖国に帰還する希望を奪うことになる。かつて愛した女性や、その子供まで北朝鮮に骨を埋めさせることになるかもしれない――。

 真鍋の苦しげな表情を見た大越は、小さくうなずいた。

「あなたにこのような要請をすることは間違いだと、総理をはじめ関係者は皆、理解しています。ですが、時間が限られているのです。仮に充分な時間があったとしても、あなた以上にふさわしい人材はいません。お願いします。拉致被害者たちを――いや、日本を救ってください」

 真鍋は尋ねた。

「拉致被害者は、すでにモンゴルで解放されているんですか?」

「現地に到着したことは確認できましたが、解放されるのは手術が終わってからになります」

 真鍋は、聞かずにはいられなかった。

「被害者の名簿とかは、お持ちですか?」

「いえ、ここにはありません。ですが、105名の解放が予定されていて、全員がモンゴルに到着したことは確かめられています。でなければ、我々にミッション継続の命令は下されません」

「竹内真奈美という女性……旧姓かもしれませんが、彼女が、あるいは彼女の家族が解放リストにあるかどうか確認できないでしょうか……?」

 大越は、真鍋が〝知り合い〟が拉致された可能性があるために『救う会』の講演会に出席していたことを知っていた。

「その方が、あなたのお知り合いなんですね?」

「そうです……」

 真鍋の目から苦渋の深さを読み取った大越には、それがただの知り合いには思えなかった。

「無線封鎖を続けないといけませんので、すぐには無理ですが、できるだけ早く確認を取ります。あなたは、ご自分ができることに全力を尽くしていただきたい。その方が解放を待っているとしても、あなたが手術を成功させなければ良い結果が得られないかもしれません」

 大越が言っていることに間違いはない。真鍋が逃げ出せば、105人はおそらく還らない。竹内真奈美が含まれているなら、彼女も還らない。

 断るという選択肢は真鍋には残されていなかった。

 そもそも医者の仕事は、患者が誰であれ、治療をすることだ。政治に利用されたからといって、目の前に連れてこられる患者を見捨ててはならない。

 腹を決めた真鍋は言った。

「分かりました。仕事には責任を持ちます。ですが、条件があります」

「条件?」

「医師としての立場を明確にしておきたいのです。冠動脈の石灰化の状態は人によってまちまちで、形も硬さも違います。治療の困難さも千差万別で、私でも手が出せない場合が少なくありません。しかも、ハートユニットではレントゲンなどのナビゲーション装置も限られています。ロシアから引き継いだデータが信頼できるとしても、細部を読み取ることには限界があります。実際にカテーテルを入れてみて、私の指先の感触で確かめる他ありません。無理をすれば、内部から血管を破りかねない。この設備で治療できるかどうか、今の段階では何の確信も持てません。ですから、あくまでも通常通りの手術をさせていただきます。私が継続不可能だと判断したら、その場で中断します。異論は受け付けません。後はあなた方が対処してください。いいですか?」

 大越がわずかに緊張を緩める。

「それで構いません。だからこそ、豊富な経験を持つあなたに来ていただいたのです。ですが、繰り返しになりますが、全力を尽くしてください」

「当然です。医師ですから。相手が拉致の加害者であっても、手を抜いたりはしません。私も、被害者は救い出したいですから。ですが……」真鍋の背後では、技師の春香が大越の話を残らず聞いていた。関係者の他に聞かれて構わない内容だとは思えない。「この話、彼女に知られてもいいんですか?」

 真鍋の視線が春香に向かう。

 春香は壁に向かって機械類の調整を進めている。

 大越が言った。

「構いません。彼女は機が飛び立つまで、このユニットを出ません。飛び立つ時は、すべてが終わっているはずです」

 春香が振り返って真鍋に微笑みかける。

「自衛隊と我が社は高度な守秘義務契約を結んでいます。思想信条、身元調査、人格検査も全てクリアしています。話してはいけないことに関わるのは、これが最初じゃありませんから」

 大越がうなずく。

「ツシマ精機さんとのお付き合いは医療機器だけではありません。彼らしか製作できない各種のセンサーや計測機器などは、日本独自の兵器の性能アップに欠かせませんので。自衛隊を陰で支えてくれる大事な仲間です」

 春香が自分と同じように〝巻き込まれた〟一般人だと考えていた真鍋は、不意に激しい不安感に襲われた。

「じゃあ、NPOの後藤さんも、自衛隊とは守秘義務契約とかがあるんですか……?」

 後藤までもが、いわば自衛隊の〝身内〟ならば、何も知らずに覚悟もないまま北朝鮮まで連れて来られたのは、自分一人だということになる。激しい孤独感が湧き上がる。

 大越は言った。

「彼はあくまでもNPOの代表者です。物品の供与などで自衛隊がボランティアに協力しているだけです。ただし彼は、これまでに何度も我々と〝行動を共にした〟実績があります。自衛隊の制服を着ていては行けない危険な場所でも、NPOなら入れるチャンスがあります。国内に余計な反発を起こさないために、身分を隠して情報収集を進める場合もあります。あくまでも、法が認める範囲内で日本の国益を守るための方便です。そんな場合に彼のルートを使って、アフリカや中東に人員を送り込んだことが数回あります。我々も彼らには備品の供給や渡航の手はずを整えるなどの便宜を図っていますから、ギブ・アンド・テイクの関係といえます。その意味では、秘密は守っていただいています。今回後藤さんに同行を依頼したのは、ハートユニットの提供があくまでもNPOの活動による人道援助だという体裁を保つためです。万一このオペレーションが公になることがあれば、自衛隊はハートユニットの提供と運搬を行っただけだという説明で押し通します。つまり、このオペレーションの責任者は、公式には後藤さんだということです。実際には、機内に座っている以外の仕事はありませんがね」

 真鍋の恐れは的中していた。この機内の人々は、自分が〝オペレーション〟の一部にされていることを知り、あるいは知らないまでも納得している。作戦の詳細は教えられていなくても、自衛隊と運命共同体だという意識を持っているはずだ。何の心構えもなく参加した――いや、参加させられた真鍋とは違う。

 真鍋はつぶやいた。

「なんだか、みんなに裏切られたみたいな感じだな……」

 だが今は、真鍋がオペレーションの中心だ。長く自分を苦しめてきた拉致犯罪に終止符を打てる可能性まで得られた。

 真鍋は、ふと思った。

 自分は、巻き込まれたのではない――。

 運命が、自分を選んだのだ。自分と、自分が愛した女を苦しめてきた拉致犯罪に、決着を付けるために――。

 今、戦う権利が与えられているのは、自分だけだ。知識と技術と魂の全てを投じて、立ち向かうべき時なのだ――。

 と、足元に軽い揺れを感じた。エンジン音が変わる。着陸したのだ。

 真鍋は手術台に手をついて体を支えた。しかし着陸後の急減速でわずかに体を引っ張られる。振動は予測していたより大きかった。パイロットの力量に疑問が浮かぶ。

 その不安げな表情を読んだ大越が言った。

「タイヤを滑走路に吸い付け、わざと車輪をたたきつけるように着陸させるのがベテランの定石です。横滑りを防止するためです。軍用機では、滑らかに着陸するのはかえって危険になります」そして、付け加える。「真鍋先生、あなたも手術が済むまではハートユニットを出ないようにお願いします。万一の場合に、あなたの身の安全を確保するためですので」

 真鍋は思わず応えた。

「万一、って……」

 あり得るのだ。

 日本と北朝鮮は戦争をしているわけではないが、対立関係にある。国交がないということは、平和条約を締結していないということでもある。しかも北朝鮮は武力を――核ミサイルを恫喝の手段にして、大国に一歩も譲らない独裁国家だ。

 そのトップを手術しようというのだ。万一の事態が起きれば、真鍋自身にもその結果が跳ね返ってくる。ましてやキム・ジョンウンは自分の叔父さえも処刑した気性の荒い独裁者だ。まさかとは思うが、真鍋自身が〝処刑〟される可能性も、荒唐無稽だと笑い飛ばすことはできない――。

 真鍋は不意に、自分が崖っぷちに立たされていることを実感した。

 機体の軽い振動がしばらく続き、そして止まった。

 大越は振り返ってドアを開くと、言った。

「手術着に着替えてください。看護師として、隊の医官が付きます。これから簡単に機内の殺菌を行います。このドアは、開けたままで手術を行いますので」

 真鍋は抗議した。

「それは危険です。ただでさえ感染症が懸念される環境なのに――」

「北朝鮮側からの要求なのです。党委員長の護衛として、4人ほどの軍人が機内に入ります。ハートユニットは狭すぎて中に入れないので、代わりにドアを開けたままで中の様子を確認させろと言うのです。これは断れませんでした」

 真鍋はわずかに考えてから言った。

「ならば、彼らには不織布のつなぎを着させてください。衣類に付着した細菌やウイルスを少しでも防ぎたいので。あなたの部下も同様に」

 大越がうなずく。

「その手筈は終えています。部下があらかじめ準備を済ませています」

 その言葉の通り、ドアの向こうに見える乗員はすでに白い防塵スーツに身を包み、小型のオゾン発生装置を何台か配置し始めている。一見すると、化学テロの処理現場を連想させる光景だ。低濃度のオゾンガスを発生させて機内を殺菌している。

 オゾンは三つの酸素原子が結合した酸素の同素体で、強力な酸化力を持つ。分子との反応性が極めて高く、酸素原子が他の分子を切断することで、強力な殺菌作用を発揮する。しかも反応後は酸素に戻り、過剰な量でなければ人体への悪影響はない。食品工場や病院などでも広く使われている殺菌装置だ。ハートユニットでも、電源を入れると同時に作動しているはずだ。

 真鍋はため息を漏らし、ユニットの奥に向かった。そこには手術着などが準備されている。さらには、オゾン水の発生装置も準備されている。手指消毒用の機材だ。

 真鍋は、自分が作ったハートユニット用のマニュアルの手術開始手順を思い出しながら、手指を消毒してスクラブ――手術の際に着る術衣に着替えた。狭い室内では窮屈な作業だが、最低限のスペースは確保されている。さらに帽子とマスク、そして使い捨てのラテックス手袋をはめれば手術可能な態勢になる。

 その間に、春香も術衣を身につける。さらに助手となる医官がユニットに入った。真鍋も何度か会ったことがある、航空機動衛生隊の難波三佐だ。

「真鍋先生、よろしくお願いいたします。いよいよ、ハートユニットの初陣ですから」

「初陣……ね。正直、まだ早すぎると思うがね」

「私も同感ですが、このような緊急事態に間に合ったのは先生のご指導のおかげです。必ず成功させましょう!」

 言いながら、難波も素早く準備を整えた。

 と、機体の後方でモーター音が起こった。後部ランプ――車両や人員を収容するための扉がスロープ状に開いていく。途中まで開いた段階で、その先に黒塗りの大型セダンが止まっているのが見えた。滑走路の所々には、凍りついた雪が残っている。車の周囲には、すでに数人の軍人が滑走路に立っていた。その中の一人は、荷物で膨らんだプーマのドラムバッグを提げている。

 彼らの真ん中にいるのは、何度もテレビで見た人物だ。憎しみを込めて――。

 髪を刈り上げにした肥満体の男――キム・ジョンウンに間違いなかった。

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