4《首相官邸》――JST07時59分
私服姿の統合幕僚長が総理の耳元にささやいた。
「鍵が合いました」
傍の官房長官の目が鋭く光る。
報告を受けた総理は盗聴を警戒して、声を落とした。
「そうか……本当に、動き始めたのだな」
NSCの会合が開かれる会議室は、表向き万全の盗聴防止策を施してある。だが、長年スパイ対策を怠ってきたこともあって、誰もそれを確信できないでいるのだ。何年か前も、屋上に〝落下〟したドローンを見逃すという失態を演じている。日本政府の保安体制がまだ小学生並みだということは、誰もが認めざるを得なかった。
総理の表情は複雑だった。
膠着状態が続いてきた拉致被害者奪還のオペレーションが、ようやく現実に開始されたのだ。だがそれは、偶然の結果に過ぎない。関係する各国の国内事情や力関係に〝一瞬の空白〟が生まれ、そこにキム・ジョンウンの発病が重なったからだ。トランプで組み立てた城のように、わずかな風が吹いただけで全体が瓦解する危険の上に建っている。どこか一箇所のバランスが崩れるだけで、拉致被害者――実質的な〝人質たち〟の命が奪われかねないのだ。
それでも、賭けるしかなかった。
一見強固に思えるキム・ジョンウン体制が、実際は行き詰まっていることは分かっていた。度々暗殺計画が企てられ、大掛かりな粛清も続いている。この不安定な体制を延命させることは不利益だと判断した日本政府は、経済制裁の強化や朝鮮総連の事業への圧力を強めてきた。それでも、北朝鮮は容易くは潰れない。
だが、事態は唐突に動いた。
北京の代表部のトップだった北朝鮮幹部が妻や娘と共に姿を消し、在中日本大使館側と接触して日本へ行くための手続きを行ったのだ。彼らはキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長とその家族の専用医療施設を管轄する保健省Ⅰ局の出身者で、キム委員長の健康に関する医薬品や医療設備の調達、導入問題を担当していた。
そして彼らから、キム・ジョンウンが日本の心臓カテーテル専門医の治療を強く求めていることが明かされた。代償として、拉致被害者の解放も考慮しているという。彼らは実質的に、ジョンウンが送った密使だったのだ。その極秘情報は、ロシアルートを通じても確度が高いと裏付けされた。
このチャンスを掴むべきか、長期戦を継続すべきか――。
NSCの独断で極秘裏に行動を起こすことは、国内に大きな波乱を起こす。それでも、天から与えられたチャンスは見逃すわけにいかなかった。時間がかかればかかるほど、拉致被害者やその家族の苦難も増していくのだ。残り時間は限られている。
だから、総理は決断した。
危険に満ちた極秘計画を決行した事実が明るみに出れば、政権の座から引きずり降ろされる。計画が途中で頓挫し、日本には実害が及ばなくても、だ。それを避ける唯一の方法は、拉致被害者を無事に取り返すことだけだ。
行動を起こさなければ、失敗もしない。経済政策だけに専念していれば、政権が崩れる恐れも少ない。だが拉致被害者の奪還は、総理が政治家を目指した原点であり、ライフワークだと心に誓った案件だ。本気で政治家を目指した目標だ。
譲ることは考えられなかった。
かつて、父親の秘書として政治活動を始めた頃、総理は『娘を北朝鮮に拉致された』と訴える家族と出会った。彼らは、娘が拉致されたという手紙を握りしめ、警察や外務省を駆け回って救出を訴えていたが、門前払が続いて意気消沈していた。手紙は、同様に拉致された男性が命懸けで書いたものだった。それが、奇跡的に彼女の両親の元に届いたのだ。両親は最初、藁もすがる気持ちで野党党首に手紙のことを訴えたが、『拉致などあり得ない』と相手にもされなかった。唯一彼らの話を正面から受け止めたのは、今の総理だけだった。
拉致問題は、そこから動き始めた。
日本が誇りを持った独立国であるなら、自国民を他国に〝誘拐〟されたまま放置するわけにはいかない。目を背けるのは、テロに屈することと同じだ。どんな犠牲を払ってでも解決しなければならないというのが、総理の信念だ。極論すれば、拉致問題の解決のために総理の椅子が必要だったのだ。たとえ政権を追われようとも、進むしかなかった。
官房長官は再三再四、政権崩壊の危険を強調したが、総理の意志は一度も揺らがなかった。総理の覚悟の強さを確かめた官房長官は、以後は一切異論をはさまずに、作戦の調整と準備に2週間を費やした。
政権を担う者たちにとって、あまりに短い準備期間は嵐のように過ぎ去った。だが、官房長官が通産大臣秘書だった時代に知り合った〝ある人物〟に個人的にコンタクトを取ったことで、極秘裏にかなり高い精度の奪還作戦が構築されていた。
官房長官にとっても、危険な賭けだった。最悪の事態に陥った時は、総理とともに政治生命を絶たれ、あるいは法で裁かれることまで覚悟していた。そこまでしなければ、他国に不当に連れ去られた国民を救出できないのが〝この国〟の有り様だったのだ。
このチャンスを見逃せば、拉致被害者を取り返すことは永遠にできない――長年拉致問題の解決に腐心してきた総理たちは、それを一度も疑ったことはない。
せめてあと1日、どこからも〝風〟が吹かないことを祈るしかなかった。
外務大臣が執務室に入った。
「遅れて申し訳ありません。記者どもを追い払うのに手間取りまして」
官房長官が外務大臣に尋ねる。
「ご苦労様です。うまく誤魔化せましたか?」
外務大臣が席に付きながらうなずく。
「官房長官おかげです。ですが、あんな嘘をついていいんですか? あなたの評判がガタ落ちになります。特に、女性人気が地に落ちますが……?」
官房長官が笑う。
「賭け、ですからね。リスクを冒さなければ結果を出せない時もあります。賭けに勝てれば、〝女性問題〟など吹き飛びます。そもそもが、でたらめな造り話ですから」
官房長官は今、〝愛人〟に任せた〝飲食店〟に多額の政治資金をつぎ込んでいるという噂に巻き込まれていた。だがその〝愛人〟は、実際には官房長官が世話になった実業家の娘で、単なる知り合いでしかない。その事実を証明できるカードを揃えた上で、官房長官は意図的にその偽情報を週刊誌にリークした。むろん、〝愛人〟役を背負わされる本人に了解をとった上で、だ。
マスコミの耳目を、清廉潔白だといわれていた官房長官の不祥事に集めることが目的だった。彼らがそれを信じれば、夜通し官邸に政権の中心人物が集まっていたことが不自然に見えない。
NSCの緊急会合が――いや、単なる会合ではなく、初の〝実戦指揮〟が行われていることは、絶対に悟らせてはならなかったのだ。ただでさえ不安定な要素が多い作戦を、マスコミの興味本位の報道で撹乱されては成功などおぼつかない。そのために一時的に〝傷〟を負うことなど、官房長官は意に介していなかった。
官房長官が外務大臣に問う。
「そちらにはまだ報告は入りませんか? リストの内容は確認できたのでしょうか?」
わずかにうなずいた外務大臣がスマートフォンを取り出す。
「もう一度確認してみましょう」自衛隊仕様の、セキュリティを強化した国産端末だ。スマホに話しかける。「私だ。小野田から連絡は入ったか? 状況はどうなっている? ……分かった。引き続き、連絡は密に頼む」スマホを背広の胸ポケットに戻して官房長官に向かう。「たった今、最終確認を終えたと連絡が入ったところでした。事前に提出されたリストとは齟齬もなく、各家族で部屋に入って休息を取り始めたそうです。チームAにも連絡が行きましたので、行動を開始したはずです」
官房長官がわずかに不安を見せる。
「北朝鮮側の〝随伴者〟たちの様子はどうです?」
拉致被害者をモンゴルのホテルに空輸してきたのは、70名もの北朝鮮軍兵士と秘密警察幹部だと伝えられていた。その人数は当初の予定をはるかに超えていたし、北朝鮮側から増員の報告は一切なかった。ホテルに入った彼らが非武装であることは日本側の警察の担当官たちも確認している。だが、北朝鮮が約束を破ったことは事実だ。人数に物を言わせて何かを企んでいる可能性は少なくなかった。
モンゴルに武器が存在しないわけではないのだ。手に入れる気があるなら、ロシア製でも中国製でも、あるいはアメリカ製の武器を使ってさえ密かに武装することはできる。北朝鮮軍がこの先どんな行動を取るかは予断を許さない。それほど、彼らの腹は読みにくい。常識が通用しない国家なのだ。
答えたのは自衛隊制服組のトップである統合幕僚長だった。今は目立たないように、グレースーツを着ている。
「我々もご指示を受けた通り、法に触れない範囲で可能な限りの対応策を講じています。あらかじめ現地に入った駐在員が協力者を組織して、想定外の事態にも柔軟に対応できるよう準備しています。北朝鮮徳山空軍基地でのオペレーションも開始されている頃です。北朝鮮のカードを確認するという第一段階はクリアできましたから、次はこのオペレーションを成功させることが鍵になります」
キム・ジョンウンの心臓疾患を日本の専門医が手術することが、拉致被害者解放の条件だった。条件には本来、手術の成否は含まれていない。だが、ベストの医師でも、慣れない環境での手術には大きなリスクが伴う。ましてや使用する設備は自衛隊が新たに創作した特殊なもので、実用試験も充分ではないと伝えられていた。万一不測の事態が発生し、外科手術への移行を迫られた場合は、最悪の結末も想定しなければならない。
キム・ジョンウンが死にでもすれば、モンゴルの北朝鮮兵たちがどんな行動を起こすか分からない。NSCとしては、その瞬間に首相官邸に向けて核ミサイルが発射されることまで想定しなければならなかった。無論、可能な限りのミサイル迎撃体制は取られているが、そもそもが不十分な装備がどこまで機能するかは誰にも予測できない。
全てはオペの成否にかかっている。
拉致被害者と日本政府の命運は、北朝鮮に送り込んだ一人の医師の腕に委ねられたのだ。
と、防衛大臣のジャケットの胸ポケットでスマホがバイブ音を発した。壁際に寄った大臣がスマホを取る。
「何だ?」
あらかじめ、不要な電話は取り次がないように指示を徹底させている。連絡が入ること自体が、緊急性を物語っている。
緊迫した表情で話を聞いていた防衛大臣が、総理に近づく。
「米軍がまた説明を求めてきました。今度は、国防長官直々です」
総理がわずかに舌を鳴らす。
「やはりヒギンズまで話が届いたか……ま、覚悟はしていた事態だ。で、今度は何と言ってきた?」
米軍は、いち早く自衛隊の輸送機の〝異常な飛行〟を察知していた。『米日防衛協力の指針』いわゆる『ガイドライン』の改定により、今では東京都心の防衛省庁舎の地下にある中央指揮所に米軍幹部が常駐している。アメリカ側には『今回の北朝鮮への飛行は、民間のNPOによる人道支援への協力に便乗して、北朝鮮空軍基地の情報を収集することが目的だ』と説明している。当然、それだけで納得する相手ではない。ミサイル迎撃体制の強化は単なる訓練だと言い張ったところで、鵜呑みにするはずはないのだ。
「得られた情報は全て共有すると言ってあるんですが、こちら側に別の意図がないかと疑っています。ある程度作戦を明かしましょうか?」
総理の決断は素早かった。織り込み済みの事態だったのだ。
「いや、まだ同じ説明を繰り返しておきなさい」
「核への対応には、アメリカ側にもある程度時間が必要ですが……」
「手は打ってあるし、手術が成功すれば問題はない。私は、真鍋という医師の技量に賭けたいんだ。厚労大臣はじめ、知り合いにはどんな医師かを確認した。誰もが、手術を受けるなら主治医は彼にして欲しいと答えた。人望も厚いし、何より実績がある。今の段階では、アメリカの都合でかき回されたくはない」
横の官房長官がかすかに笑いを含みながら言う。
「国務省もへそを曲げますが?」
「彼らがまともな仕事をしていれば、拉致問題ははとっくに片付いていたかもしれないんだ。口を挟まれるいわれはない」そして、防衛大臣に命じる。「曲りなりにも日本は主権国家だ。曲りなりにも、ではあるがな。非武装の自衛隊機一機でNPOを援助したからといって、文句を言われる筋合いはない――そう付け足しておきなさい」
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