3《チームA》――JST07時53分

 真鍋には、苦い記憶があった。

 医師として独り立ちした頃、チームに加わった女性研修医が不意に姿を消したのだ。当時独身だった真鍋は、必死に彼女の痕跡を追った。彼女から、冗談めかして『妊娠したかもしれない』と告げられた直後だったからだ。

 彼女は、医師としての責任感と使命感に満ちていた。なのに、身の回りのすべてを何も変えずに、姿だけを消した。普通、人は自分の意思で生活を変える時、身の回りを整理するものだ。他人に見られたくない物や、パソコンの中の知られたくない情報を破棄したり、隠したりもする。自分の部屋や職場に、何らかの徴候を残す。彼女の部屋の洗濯機の中には、洗い終わった衣類がそのまま残っていたという。

 その研修医の家族や友人たちも、几帳面な彼女の性格にはそぐわないと口を揃えた。そして皆、彼女が前兆もなく〝蒸発〟した理由には思い当たらなかった。誰もが『心から望んでいた医師としての人生を始められた彼女は、希望に満ちていた』と語った。姿を消す理由など、ないはずだった。真鍋を含めた関係者全員が、彼女を失った深い喪失感に心を苛まれた。

 そして10年が過ぎた。その間真鍋は、彼女が姿を消したのは自分のせいかもしれない、妊娠したのは本当かもしれないと疑い続けた。だが、彼女の消息は一向につかめなかった。若い真鍋にとって、10年は長すぎた。いつしか彼女を忘れ、結婚し、子供に恵まれた。そんな時に、その女性研修医が『特定失踪者』リストに載ったことを知ったのだ。

 特定失踪者は、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者を指す言葉だ。公安警察に捕らえられた北朝鮮スパイの情報から、それらしい女性医師がいる可能性が濃厚になったのだ。

 北朝鮮が国際的に立ち遅れている分野の職業人を集中して拉致したことは、すでに明らかになっている。失踪前に『医師』『看護師』『機械技術者』『印刷工』といった職業に従事していた者が多い。日本に潜入した工作員が事前に詳しい情報を集めて対象者を絞り込み、極めてシステマチックに組織を運営して〝誘拐〟を行った証拠でもある。特に医療関係者は狙われていたようだ。印刷工は、後にスーパーKと呼ばれる偽100ドル紙幣の製造に関わったとも疑われている。

 事実を知った真鍋は、自分が彼女を〝忘れてしまった〟ことを悔やんだ。彼女を救うために何の行動も起こさなかった、いや、起こせなかった自分を責めた。以後、罪滅ぼしをするかのように、拉致被害者の救出活動に深い関心を抱いてきた。『拉致被害者を救う会』の講演会などにも時間が許す限り参加して最新情報を集め、ブルーリボンバッジも外したことがない。

 そのバッジに気づいた大越とも意気投合し、講演会で偶然に顔を合わせることも少なくなかったのだ。

 真鍋は、大越も自分と同様に北朝鮮の野蛮な犯罪を憎んでいると信じていた。

「あなたは、私が北朝鮮をどれほど憎んでいるか知っているはずだ!」

 だが、大越は怯まない。

「あなたこそ、私がどんな仕事をしているか知っているはずです。命令が下れば、全力で任務を遂行する。それが自衛官です。そしてあなたは、医師です。私は、医師としてのあなたに仕事をお願いしています。それをご理解ください」

 だがそう言った大越の目には、わずかな迷いが見て取れた。命令されたからといって、気持ちに整理がつくとは限らない。大越自身が、葛藤を抱えているのだ。

 真鍋は反射的に食い下がった。

「だが――」

 そして、言葉を呑み込んだ。大越の言葉が胸に突き刺さっていた。

 医師は、人の命を救うために存在する。そのために、力を尽くす。救う相手が誰なのかは、本来関係はない。治療を求めているのが北朝鮮の人間だからといって、放置して構わないという理由にはならない。それが拉致とは無関係な者かもしれないなら、なおさらだ。

 真鍋としばらくにらみ合った大越は、かすかに微笑んだ。

「その話は、また後で。この場で簡単に結論が出せる問題ではありませんから」

 そして大越は、反対側の座席へ向かった。副官の韮澤二等空尉の横に座る。ニーナは真鍋の側の端に座ってベルトを締めた。

 真鍋は、怒りを鎮めるために目を閉じ、深呼吸を繰り返した。数分後、気持ちを落ち着けて目を開くと、機体が大きく旋回していることに気づいた。目的地が近いようだ。機体の反対側に座る大越に目を向ける。

 大越もまた、真鍋の視線を意識していた。真鍋が自分を責めていることは分かっている。拉致犯罪を憎む気持ちは、真鍋と変わらない。ある意味では、真鍋よりも強いともいえた。戦う能力を持ちながらそれを交渉の手段にできない自衛隊の無力さに、悔しさを堪え続けてきたからだ。

 だが、憲法に縛られた〝腕〟では、武力行使はできない。それが、誘拐された自国民を救出するためであっても、行動は起こせない。実力行使とは無縁な機動衛生隊の指揮を任されていても、その無力感を忘れたことはなかった。

 だが今、無力なはずの自衛隊の、最も武力と無縁だった自分に命令が下った。この作戦を成功させられれば、事態が変わる。その先鋒に、立たされているのだ。

 これが自分の運命だったのだと思わないわけにはいかない。運命によって、チャンスが与えられた。チャンスを生かせるかどうかは、大越や真鍋の能力にかかっている。逃げるわけにはいかない。

 と、大越のインカムに操縦室からの通信が入った。作戦の開始を告げる、待ちに待った連絡だ。大越は不意に、かすかな武者震いを感じた。

 隣に座った韮澤に体を寄せてささやく。

「今、コックピットが千歳基地の通信を傍受した。『明日予定していた千歳救難隊の山岳地訓練は中止する』だ。〝鍵が合った〟と確認できた」

 離陸してからずっと厳しい表情を崩さなかった韮澤が、わずかに微笑む。

「やりましたね。連中、嘘はつかなかったわけだ」

 だが、大越の頬は緩まない。

「やっと最初のハードルを越えただけだ。この先、いくつハードルを跳ぶことになるのか……」

「ですが、今まで見ることすら不可能だったハードルです。我々にチャンスが与えられたことは間違いありません」

「そうだな……」そして大越がベルトを外して席を立つ。搭乗者に向かって声を張り上げる。「これからこの機体は着陸体制に入ります。ベルトをしっかり締めてください」

 大越はベルトをきつく締める搭乗者をチェックしながら、再び真鍋の元に歩み寄った。

 真鍋は大越に尋ねた。怒りを表情に出さないことに成功している。

「今まで旋回していましたよね。何かを待っていたんですか?」

 大越は真鍋の耳元に顔を近づけて言った。

「その通りです。別働隊からゴーサインが出ました」

 真鍋は、ずっと考え続けていた疑問を口に出した。腹の中の静かな怒りが、にわかに高まる。

「別働隊って……これは軍事作戦なんですか? 私たちは民間人です。自衛隊の医療活動には協力してきましたが、そんなものに巻き込まれる理由はない。しかも、よりによって北朝鮮に連れてこられるなんて……。すぐに日本に帰していただきたい」

 大越は、最終段階まで目的は明かさないように命令されていた。だがこれまでのハートユニット開発や救う会の活動を通して、真鍋の実直な人柄を信頼していた。心から北朝鮮の拉致犯罪を憎んでいることも知っている。しかも、真鍋は最高の技能を持つプロフェッショナルだ。

 一方で、真鍋が今、自衛隊の秘密主義に怒りを抱いていることは間違いない。隠し事を続けられて怒りが昂じれば、真鍋の能力は削がれるだろう。真鍋の技術を充分に引き出せなければ、作戦が失敗する危険が高まる。プロに最高のパフォーマンスを要求するには、フェアに対応するのが当然だと結論を下した。

 穏やかに、しかしキッパリと言う。

「あなたが望んでいた願いが実現するとしても、ですか?」

「私の望み⁉ 何ですか、それ⁉ 私が北朝鮮に望むのは、拉致被害者の解放だけ――」真鍋は不意に言葉を呑み込んだ。「まさか……それができると?」

 大越が力強くうなずく。

「これが一種の軍事作戦であることは認めましょう。国家の根幹に関わる事態です。残念ながら詳細は今しばらくお伝えできませんが、あなたの医療技術が作戦の成否を決めます。ですが、これだけは断言します。これは、人命救助を目的にしたオペレーションです。あなたが治療を成功させることで、100名以上の命が救われる可能性があります。あなたが救いたいと願ってきた人々の命です」

 真鍋がぽかんと口を開く。すぐに我に返って答える。

「医療技術って……。それがどうして拉致被害者と関係があるんです?」

「そちらは、別働隊が対応しています。あなたは、この機内で患者の治療を行っていただきたい」

「は?」

「北朝鮮軍の徳山(トクサン)空軍基地に着陸後、すぐに患者が搬送されてきます。その場で治療して欲しいのです」

 意外な答えだった。

 先ほどまでは患者を日本に移送すると言っていた。なのに今は、その場で手術しろという。何らかの事態が変わって対応が変えられたのかもしれない。

「予定が変更されたんですか?」

 大越は厳しい目で真鍋を見返している。

「というより、手術の許可が下りたというというべきでしょう。最悪の場合、患者を強制的に連れ去るオプションも組まれていました。その危険は冒さずに済みました」

 心臓手術を必要とする患者が誰であれ、そんな病人を〝連れ去る〟のは無謀だ。その行動やストレスが、症状を悪化させかねないことは容易に想像できる。ここが敵対的な他国であれば、なおさらだ。

 だが、手術をするにしても問題は多い。ハートユニットには多くの心臓血管手術を行える機材が装備されている。だが、実際に使用されたことはまだない。機材の多くは一般の手術室で使用されて安全性が確認されている汎用品を組み合わせているが、極めて狭いユニットの中でそれらをどう操作できるはまだ未知数だ。治療の核となる最新式のレントゲン装置の使用例も多いとはいえない。真鍋はその試験のために、佐渡に行くのだと説明されていたほどだ。

 なのに、試験さえ完全ではない機材でいきなり治療を施せという。患者が誰かも、どんな症状なのかも分からない。

 真鍋は思わずつぶやいた。

「そんな、無謀な……」

 大越は言った。

「患者のデータはすべてハートユニットのコンピュータに転送されています。これからそれを見て、治療計画を立てていただきたい」

「今すぐに、ですか?」

 大越がうなずく。一歩も譲る気配は見せない。

 真鍋は仕方なくベルトを外して、席を立った。機体の振動に足がふらつく。

 大越が素早く真鍋の腕を掴み、体を支えた。

「揺れにはすぐに慣れます。パイロットは優秀ですから、着陸時の振動もさほどではないはずです。軍用機としては、ではありますが。ベルトは、ただの用心です。ただし、北朝鮮の空軍基地の滑走路が自衛隊基地ほど整備されているとは期待できませんが……」

 言いながら、真鍋の背を押していく。二人は機体前方のハートユニットのドアに向かった。

 ドアには小さな窓が付けられている。その中は、灯りで照らされていた。ユニットの電源がすでに入れられている。窓の奥で人影が動く。誰かが装置を操作しているのだ。

 真鍋はドアを開いて、20センチほど高くなっているハートユニットの床に上った。

 中でコンピュータ類を操作していたのはツシマ精機から派遣された女性技師だった。真鍋が目をつぶって怒りを鎮めていた間に、起動を開始していたようだ。

 技師が振り返って真鍋に会釈する。

「出発が慌ただしくてご挨拶がまだでしたね。わたし、京都のツシマ精機でハートユニットの開発をしている橘春香(たちばなはるか)と申します。真鍋先生のご活躍は常々伺っていました。ご一緒できて感激です」

 大越に押し込まれるように奥に進んだ真鍋がうなずく。

「あなたがユニットの開発を?」

「5人のチームを指揮していました。装置の操作や構造は熟知しています」

 大越がユニットに入ってドアを閉めた。

「さすがに3人も入ると窮屈な感じがしますね……」

 真鍋が振り返って言った。

「医師と看護師と技師が1名づつで患者を囲む体制です。最低限のサイズと言っていいでしょう」

 確かに広いとはいえなかった。

 中央には患者を横たえる手術台がある。コンテナのフレームと一体化したレントゲン支持装置が取り付けられているために、体を傾けなければ先に進めない場所もある。外科的手術に移行する際は、レントゲン本体を取り外してスペースを空けなければならないほど余裕は少ない。

 だからこそ、患者を迎える前に数々の試験を繰り返しておかなければならなかったのだ。3人の連携が取れなければ、この狭い空間で手術器具を安全に扱うのは難しい。

 だが、橘春香と名乗った技師は見事に装置を操作し、側面に取り付けられた70インチほどのモニタに画像を表示していた。真鍋の側からは手術台を挟んでいるが、画面はくっきりと見えた。このモニタには、レントゲンで透過した画像をリアルタイムで映し出すことができる。

 大越が言う。

「これが患者の心臓です」

 そこには心臓の血管に造影剤を注入するモノクロ動画が映し出されている。真鍋の目が、その瞬間に医師のそれに変わった。じっと画面を見つめる。

 真鍋は独り言のように言った。

「動脈硬化がひどく進んでいるね……血管内腔の壁不整(へきふせい)が強い。左冠動脈主幹部と、左前下行枝の高度狭窄だ。タンデムリージョンで分岐角度も厳しい。ステントはトライしたのかい?」

 タンデムリージョンとは、同一血管に連続する病変だ。通常、心臓外科の第一人者ならば、血管造影を一瞬見ただけでステントの有無はわかる。だが、真鍋は念のためにその情報を確認した。

 自分の病院で行った検査データなら、機材の調整具合や微妙な癖を含めて的確に判断を下せる。血管の走行と角度を見て、カテーテルがたどり着けない、たどり着いてもステントを入れられない、あるいはステントを入れても拡張させられなさそうだといったことを短時間で読み取る自信がある。

 だが、この映像は日頃馴染んだメーカーのデータ形式と明らかに違う。病変部の陰影に誤差があれば、小さな、しかし重大な欠陥を見落とす恐れもある。どこのどんな設備で検査を行ったも分からないまま、断定的な意見は言いたくなかった。そもそも左冠動脈は走行の個人差が大きく、読影が難しいので、判断には時間をかけるものだ。

 大越が答える。

「いや。その情報はありません」

「だろうね。ってことは、白い影は石灰化で……病変長28ミリ以上だろうな……動脈硬化の程度は非常に重篤だ。患者の年齢は?」

「30代半ば」

 真鍋は一瞬言葉を詰まらせた。

「……まるで、60代の画像だな……」

 大越がうなずく。

「ここ数年で急激に太った肥満体です。過度の喫煙も報告されています。しかも、常に激しいストレスにさらされています」

 真鍋が春香に言った。

「血液検査のデータはありますか?」

「モニタに表示できます」

「お願いします」

 と、動脈硬化を起こした血管の画像の傍に、別のウィンドウが開いて40行ほどの文字列が表示された。列の末尾には見慣れた単位がついた数値が並んでいる。だが、項目は日本語ではない。アルファベットに近いが、左右逆転したものや普段目にしない文字も混じっている。

 キリル文字だ。

 真鍋がつぶやく。

「ロシア語……ですか?」

 大越が言った。

「患者は、ロシアから送り込まれたスタッフによって精密な検査を受けました。約1ヶ月ほど前のことです」

「なぜその時に治療しなかったんですか?」

「試みましたが、担当した医師が治療の継続を拒否したんです。ロシア本国でなければ治療は続けられない、とね。北朝鮮内で医療ミスを犯せば命が危ない。その恐れを回避したかったんでしょう。しかし、患者の病状は切迫し、狭心症の症状も頻発するようになりました」

 真鍋は春香に言った。

「他にも検査画像があったら見せてください」

「分かりました」

 モニタの画面が小分けされ、何種類かの画像が一斉に表示される。

 真鍋にはその周囲に書き込まれている説明文は読めなかったが、何の目的で調べた画像かは一目で理解できた。同時に、頭の中に患者の病状が描かれていく。画像から読み取れる症状を、大越に説明していく。

「冠動脈の狭窄度、特に左室――全身に血液を送り出す部位を潅流(かんりゅう)する左冠動脈主幹部、左前下行枝(ぜんかこうし)のタンデムリージョンはいずれも高度狭窄ですね。左室の壁運動低下も読み取れます。すでに陳旧性心筋梗塞があるか、血流低下によるものか……しかもスローフローですね。冠動脈微小循環も障害され、心筋梗塞ハイリスクの状態といえます。すぐにカテーテルか直達手術で血行再建しないと、心筋梗塞か致死的不整脈を起こす危険が高いでしょう……。しかもDM(ディーエム)――糖尿病で、脂質代謝異常、高尿酸血症、肥満……ですね。腎機能にも問題が大きい。冠動脈造影で少しは分かりますが、心膜脂肪も厚くて心臓の拍動が制限されているようにも見えます。心膜脂肪の肥厚は心筋梗塞リスクファクターになります。すでにバルーンも試しているんでしょうね?」

 心臓に血液を供給する冠動脈が血栓などで詰まれば、酸素が不足して心臓の筋肉が壊死し、結果として患者も死亡する。数十年前なら、外科手術で心臓を露出させて、太ももなどの血管と入れ替える『バイパス手術』が唯一の治療法だった。手術自体が大掛かりで、多大な危険が伴うものでもあった。その治療法を根底から変えたのが、カテーテル手術だ。

 カテーテル手術では、太ももなどに小さな穴をあけて動脈からカテーテルと呼ばれる細い管状の治療器具を血管へ通し、各種の器具を送り込む。カテーテルの中にはガイドワイヤーと呼ばれるさらに細い針金が通っていて、この針金に沿って動脈の異常のある部分に器具を届けるのだ。

 基本的なものがバルーン治療だ。ガイドワイヤーを伝ってカテーテルを通し、血管のコブのようなプラーク――粥腫(じゅくしゅ)などにより血管が狭くなっている部分へ、細くしぼんだ風船(バルーン)を送り込む。そこでバルーンをふくらませることで、血管を広げて血液の流れを良くする。

 バルーンカテーテルでは動脈に詰まっている血栓を取り出す『血栓摘除術』も可能だ。カテーテルを血栓のある部分の先に送り込んでからバルーンをふくらませて、カテーテルを引っ張って血栓を引きずり出す治療法だ。

 さらに血管が再び詰まることを防ぐために、多くの場合ステント留置療法が行われる。

 ステントはチタンなどの金属でできた網目状の細い筒で、それをバルーンにかぶせて動脈の狭くなっている部分に通す。治療が必要な位置でバルーンを膨らませると、内側から押されてステントの直径が広がる。その後、バルーンをすぼめて取り除き、ステントを広げた状態で動脈の狭くなった部分に残す。動脈を内側から支えることができて、血流が正常に戻るわけだ。

 近年ではレーザーを使った治療法や、カテーテルを用いて心臓本体の不整脈の原因となっている部分を焼灼するアブレーション治療も一般化してきている

 これらのカテーテル手術は局所麻酔を行って体に小さな穴をあける程度の傷ですむので、胸部を切り開いて肋骨を切断する心臓外科手術に比べて回復も桁違いに早く、患者への負担が圧倒的に軽い。

 大越がうなずく。

「安全な圧力の範囲内では、バルーンが膨らまなかったそうです。そこで、カテーテル治療の継続は断念されました」

 動脈硬化などによってできる冠動脈内部のプラーク――狭窄部分は、初期には柔らかい。だが食生活などの生活習慣によってカルシウムが不足がちだと、それを補うために骨などからカルシウムが溶け出す。結果、血液中のカルシウム量が過剰な状態が続き、本来柔らかいはずのプラークの内部に沈着して石灰化していくのだ。

 カルシウムの不足が過剰なカルシウムを生み出すという『カルシウム・パラドクス』と呼ばれる現象の一つだ。石灰化は別名『骨化』とも呼ばれるが、その硬さには個人差がある。硬いものなら骨以上で、歯に匹敵するものも稀ではない。石灰化の結晶が大きくなりすぎると、時にプラークを突き破り血管内に達し、急性心筋梗塞などを引き起こす危険も大きくなる。

 石灰化していても硬度が低いうちであれば、バルーンを膨らませる圧力で内側から砕き、ステントを留置することは可能だ。石灰化が偏っていれば、カルシウムが沈着していない柔らかい部分を広げることもできる。だが、血管を取り囲むように石灰化していれば、バルーンの圧力だけでは広げられない。無理をすれば血管ごと割れ、緊急の開胸手術が必要になりかねないのだ。

 真鍋は、患者は最高度の医療機器で検査を受けていると判断していた。冠動脈造影画像の高精細画像、病変に対し多様な角度から適切に撮影されていることから、高度な設備や技師の技量が読み取れるのだ。そこでステントが入れられなかったのなら、患者の病状は相当悪化していることになる。

「そこまで石灰化が進行しているということですね」

「ロシア側の担当医の詳しい所見も来ています」

 大越の言葉に合わせて、春香がワード文書をモニタに表示する。これも、ロシア語だ。

 真鍋は、目的地が北朝鮮であるにもかかわらず、ロシア人のニーナが通訳として選ばれたことを納得した。

「これは……ニーナさんを呼んできてくれますか?」

 春香がうなずいてユニットの外へ出る。

 真鍋が続ける。

「文書の内容を詳しく読まないと分かりませんが……おそらく、ロータブレーターでの手術を指示しているんでしょうね。だから私をここに?」

 大越がうなずく。

「その通りです。ロシア側はロータブレーターの操作に習熟した医師までは手配できませんでした。北朝鮮にも最新の機材はあるようなのですが、やはり熟練した医師がいない。あなたをこの国の病院の手術室に連れて行ったところで、初めての環境では安全性が担保できない。折衷案がハートユニットでした。開発者はカテーテル手術のエキスパートであるあなたですから、機材も安全に使いこなせるはずです。そう、期待しています」

 真鍋は重い溜息をもらした。

 大越は医療技術を簡単に考えすぎている――。

 確かに、ハートユニットは心臓の血管治療ができる〝手術室〟を目指して設計された。後方散乱X線式レントゲン装置に代表される、画期的な技術もふんだんに注ぎ込まれている。だが今は理論的に可能だというだけで、現実にできるかどうかは実験さえされていない。スタッフの訓練も一切行っていないのだ。

 真鍋は苛立ちを隠せずに言った。

「カテーテル手術の中でも、ロータブレーターは特に熟練を必要とします。指先のわずかな感触に頼って操作しなければならない、職人技のようなものです。未熟な者が操作して失敗すれば、患者の冠動脈を突き破るリスクもあります。緊急時に備えて、いつでも外科手術に移行できる体制がなければ、安全とはいえません。それをいきなり、こんな環境で……」

 ロータブレーターは、血管内の石灰化した部分を強制的に削り取る〝ドリル〟のような治療器具だ。極小のラグビーボール状の金属に人工ダイヤモンドをコーティングした〝ヤスリ〟をカテーテルの先端に付け、それを毎分2万回転前後の高速で回転させる。そのヤスリで石灰化した部分を内部から削っていくのだ。

 削りカスは赤血球以下のサイズになるために血液中に残っても害がない。またヤスリは硬いものしか削ることができず、本来の血管の柔軟な部分に触れても傷つけることはない。

 それでも器具の操作には細心の注意が求められる。内側から血管を破る可能性が常に伴い、緊迫感も増す。リアルタイムで表示されるレントゲン画像とカテーテルを通じて感じられる指先の感触から、石灰化部分の形や厚さ、硬さなどの状況を的確に見極めなければならない。力を加えなければ石灰化部分は削れないし、加え過ぎればそれが割れて血管を破壊してしまう。わずかな手応えだけを頼りに進めるしかない、最高度の巧緻性が要求される手術なのだ。

 真鍋は年間100例を超えるロータブレーター手術を行っている、日本有数のエキスパートだ。それでも――いや、それだからこそ、この環境で安全な手術ができるとは思えなかった。

 大越が言った。

「それでも、やっていただかなければなりません。患者の命は危機に瀕しています」

「最初の予定通り、この飛行機で日本に運べばいい。私の病院なら、確実に治療できると約束します。もちろん、一から検査をやり直す必要はありますが」

「それは作戦が失敗することを覚悟した上での、最終手段です。賭けと呼んだほうが正しい。それが簡単にできるなら、初めからそうしています。患者は国外に出られない――いったん出れば、戻ることが難しい人物なのです」

 その言葉から、真鍋は患者の正体に確信を持った。

「患者とは、キム・ジョンウンですね?」

 大越は、きっぱりとうなずいた。

「あなたにとって、一番手術したくない患者であることは分かっています。ですが、お願いします。日本を代表するテクニックを誇る医師として、一人の患者に向き合っていただきたい」

 それは、真鍋の最も〝弱い〟部分を突く一言だった。

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