2《チームB》――JST07時52分

 一見石造りの重厚な建物に見える6階建てのクリムゾンスター・ホテルに、100人を超える人々が集まっていた。およそ40組の北朝鮮拉致被害者とその家族だ。彼らの多くは深夜に長時間旅客機に揺られ、ホテルに着くと同時に事情聴取を受け、一睡もせずに夜明けを迎えた。ホテル側の好意によって、温かい食事が充分に用意されていたことが唯一の救いだったともいえる。

 クリムゾンスター・ホテルは、モンゴルとの関係を深めようと目論んだ中国資本よって5年ほど前に建てられた。ホテルの正面――大通りに面する部分は、きらびやかで美しい。豪奢で、壮麗と言っていいかもしれない。少なくとも、外見だけは――。

 そのホテルは、ビジネスで訪れる中国人富裕層や軍関係者をもてなすために、わざわざ中国本国から大量の石材を運んで造られたのだ。だが開業以来一日として、宿泊客からの不満が絶えたことがない。風呂の湯が冷たい、トイレが流れない、壁が剥がれ落ちる、屋根から水が漏れてくる、隣の部屋の物音がうるさい――。

 それが、中国の建築物なのだ。外見だけは立派だが、内部は〝オカラ工事〟そのものだ。建築材料や工程をごまかすことで浮かせた資金を党幹部への賄賂に回すことは、中国の常識だ。

 結局、クリムゾンスター・ホテルは中国の団体客しか宿泊しなくなり、そしていつしかその団体客も足が遠のいていった。今の常連は中国や韓国から流れついた売春婦たちで、何も知らずに泊まった数少ない客を奪い合う戦場になっていた。今では中国本土のゴーストタウンと同じように、中国語で〝鬼城〟と陰口を叩かれる存在にまで堕ちている。

 一階ホールが人々で溢れるのは、本当に久しぶりのことだった。

 その人々が、それぞれに割り振られた部屋に戻り始めてから1時間が過ぎた。人いきれと話し声で溢れていた広間が次第に静かになり、広々と見えてくる。30卓以上並べられた丸テーブルに残って聞き取り調査を続けているのは、一家族だけだ。

 日本側の強い要請で、ホテルは二日間、完璧な〝貸切〟状態になっていた。本来のモンゴル人従業員は最低限しか出勤せずに、無人に近くなったホテルに人々が集められたのだ。それぞれの家族が休憩を取る客室に用意された食事は、日本から持ち込まれたインスタントヌードルや電子レンジで温められるレトルト食品、菓子類だ。

 それらは、モンゴル政府の了解のもとに日本政府が準備を整えた環境だった。

 ホールの壁際では、数十人の北朝鮮の担当官と兵士が目を光らせていた。人数が多すぎて名前さえ紹介されなかった者たちだ。その他にも、約50名の兵士がホテルの各所に配置されているという。総勢20名の日本からの一団がホテルに着いて初めて判明した事態だった。

 日本の担当者は、ほとんどが外務省職員と警察庁の人間だ。なのに北朝鮮側は多くの制服軍人を送り込んできた。当然、約束とは違う。しかも事前の打ち合わせをはるかに超えた多人数だ。だが、もはや交渉はポイント・オブ・ノーリターン――引き返すことができない地点を超えてしまっている。ミッションを進める以外に、日本側にできることはなかった。

 北朝鮮側の代表者である朝日国交正常化交渉担当大使のペク・ハンニムや、国防委員会から権限を与えられたという国家安全保衛部――いわゆる秘密警察に所属するソ・ギョン中将らは、日本側の代表者に軽く挨拶をしただけで早々に自室に引きこもっていた。日本側は、彼らが自室に入ってから一歩も外に出ていないことを確認している。そこで母国と連絡を取り、何かを企んでいるのではないかとも疑われた。

 だが、それを確認する方法はない。少なくとも、このホテルを〝待機場所〟に指定したのは日本側だ。内閣官房長官から直々の指示があり、いち早くモンゴル入りした自衛隊の防衛駐在官がセッティングしたという。人数で勝る北朝鮮側が敵対的な行動を起こすとしても、多少は日本側が有利なのだと思うしかなかった。

 北朝鮮の兵士たちは皆、非武装だった。見かけ上は、事前の了解事項を守っている。だが、武器は隠して運ぶこともできる。国家の意思として爆弾テロや偽札作りを行ってきたのが、北朝鮮だ。日本側には、彼らの言葉を鵜呑みにするほどナイーブな人間はいなかった。

 日本の関係者には、否応無しに緊迫感が漂っていた。万一北朝鮮側がその気になれば――あるいはこの場にいる誰か一人でも緊張に耐えかねて異常な行動を起こせば、全員が北朝鮮兵に射殺される危険さえある。

 北朝鮮とて、他国の領土に派遣した軍人が日本人に危害を加えれば、国際的な孤立をさらに深めることは百も承知しているはずだ。一方で、中国の〝庭先〟ともいえるモンゴルで何が起きようが、最も恐れているアメリカが手出しできないことも読みきっている。大国の思惑を天秤にかけたうえで挑発行為を繰り返してきた、強かな国の真骨頂だ。北朝鮮は一見、理性的な判断ができない〝狂った〟国家のように見せかけながら、その裏では常に冷徹な計算を働かせている。

 あらかじめ渡されていた拉致被害者リストとの照合を終えた外務省職員が、アジア大洋州局・北東アジア課朝鮮半島担当の小野田政孝のテーブルに報告に来た。

「私の担当分はリストの照合を終えました。驚いたことですが……北朝鮮側は一切嘘は言っていないようです。面談では死亡者に関する情報も数多く得られましたが、今のところ北からの報告と矛盾する点はないように見えます」

 小野田は、長い溜息をもらしてつぶやいた。

「長時間の聴取、ご苦労だった。最後の家族が部屋に入るのを確認したら、君も休んでくれたまえ。あ、彼らには声をかけるまでは部屋を出ないように改めて念を押すように。多分、北朝鮮の兵士が廊下を監視するだろう。武器を持ち出す可能性も否定できない。ここまで来て小競り合いを起こせば、取引を台無しにしかねない。失敗したら、私たちも国には帰れなくなるからな」

「了解しました」

 職員が去ると、小野田は再びため息を漏らす。

「本当に全員を解放するとは……風向きは一瞬で変わるものだな」

 隣に座っていた警察庁の代表である大森淳も、小さくうなずく。大森はついさっきまで外務省職員と共にリストのチェックと聞き取りの総合評価を行っていた。感慨深げにうなずく。

「岩のように動かなかった北朝鮮が、まさか、ですよね。一体、どこからこんなに強い風が吹いたんだか……。何より、彼らが嘘をつかなかっただなんて……。まるで、手のひらを返したようです……しかも、あんな夜中から……」

「北朝鮮の中には、拉致被害者の解放に反対する勢力もあるのだろう。おそらく、彼らの目を避けるために深夜に移送することにしたんだ」

「それは理解できます。ですが、そこまでする理由が分からないんですよね……」

 大森の目が、3メートルほど離れた壁際に立って作業をじっと見守っていた根本誠に向かった。〝強い風〟の正体を知っている者がいるとすれば、根本の他には考えられなかったのだ。

 自衛隊の防衛駐在官として中華人民共和国に赴任していた根本は、今回の〝任務〟の係官として、兼轄するモンゴルに派遣されていたのだ。1年前までは韓国に駐在し、北東アジアのエキスパートとして活躍していた男だ。

 急遽モンゴルの首都、ウランバートルに向かえと命じられた小野田たち一行は、その根本から拉致被害者の身元確認を要請された。到着した時はすでにホテルの手配も終え、被害者たちはモンゴルに移送され、確認作業を始められる状態が完璧に整えられていた。

 全ては根本が現地で手配した。今回の拉致被害者解放ミッションの実質的責任者が根本であることは、疑いようがない。なのに小野田たちは、これまで根本の存在を知らなかった。拉致問題対策本部での会合などでも顔を合わせたことはないし、名前を聞いたことすらない。これまで表舞台に立ったことがない防衛駐在官が唐突に指揮を取り始めたことが、心底意外だった。

 その背後に、長期政権を実現しつつある総理大臣の強い意志があることが感じられる。

 根本には、彼らの会話が聞こえていたはずだ。だが、大森の無言の問いには答えなかった。一瞬視線を合わせはしたが、手元のリストに目を落として無表情を崩さない。

『第1回解放リスト』に記載された名前の数は100を超えた。その中には、日本側が最重要視していた12人の政府認定拉致被害者全員と、拉致が濃厚だとされる特定失踪者の多くが含まれる。一人一人には個別の書類が用意され、最新の顔や全身の写真、身長や体重などのデータ、医療記録などが記されていた。それらの書類が数日前に、〝ある条件〟と引き換えに日本政府に送られてきたのだ。

 特定失踪者の総数は500名から900名と、管轄する組織によって見方が大きく異なる。その他にも、『地上の楽園』と偽った帰国事業によって北朝鮮に渡った日本人妻も少なくない。帰国を願う日本人が100名で全てではないという認識は共通している。それでも、これまで3桁の被害者が解放されたことはない。政府はこの第1回解放がきっかけとなって、拉致被害の全貌が明らかになることを期待している。

 リストの何人かは『死亡』と記載され、時期や死因が詳細に書き込まれていた。その個人情報は、あらかじめ日本の〝情報機関〟が掴んでいた内容とほぼ一致していた。彼らと接点を持つ拉致被害者の話とも矛盾を生じない。大森が『北朝鮮が嘘をつかなかった』と言ったのは、これまで拉致被害者奪還に取り組んできた者たち全員に共通した驚きだった。

 北朝鮮は、拉致被害者とその家族を一括して日本に返す約束を、誠実に履行したのだ。中には拉致被害者同士の結婚で誕生した家族のみならず、北朝鮮の〝市民〟との家族も含まれている。

 まずはいったん日本の地を踏む。そして数ヶ月後、双方の係官が同席した上で彼らの意向を確認し、その意志に従ってその後の国籍を確定する――。それが、今回の拉致被害者奪還計画の大まかな流れだった。

 何よりも意外だったのは、北朝鮮がその条件を自ら打診してきたことだった。しかも、誰一人予測できない時期に、だ。

 韓国は大統領のスキャンダルを引き金にした混沌状態が続いている。しかもその混乱は明らかに北朝鮮の政治工作によって助長されている。究極の目的が北主導による国家統一であることは、関連国の情報担当者の共通の認識だった。現在、北朝鮮の経済は苦しくとも、それなりの安定を保っている。世界を恫喝するための核兵器技術も着実に進歩し、外貨の稼ぎ頭にも成長している。キム一族が国を治める体制を恒常化するという野望は、これまでにない成果を見せているのだ。

 北朝鮮の〝悲願〟が完成間近だというのに、なぜ宿敵の日本に譲歩するのか? 何が北朝鮮を弱気にさせているのか――?

 関係者の誰もが抱いた疑問だった。

 これまでの常識からすれば、あり得ないことだ。拉致被害者は北朝鮮にとって、富める日本から大金を引き出す切り札だ。本当に経済が困窮した時に使う、〝人質〟だともいえる。同時に、北朝鮮のウィークポイントでもあった。

 彼らの多くは、日本に〝浸透する〟北の軍人の教育係にされていたからだ。そればかりか、拉致被害者の一人がキム・ジョンウンの母親であるとか、スイス時代に世話係を任されていたとかの撹乱情報がまことしやかに飛び交ったことさえある。噂の真偽はともかく、彼らが対日本工作の機密情報に触れていることは疑いようがない。

 彼らが解放されれば、北朝鮮の恥部は世界中に拡散されてしまう。〝キム王朝〟の絶対的権威を損なわないためには、何があっても防がなければならない事態なのだ。だからこそ彼らは今まで、拉致被害者の調査報告書さえ言を左右にして提出を拒んできた。なのに、唐突に北の方から拉致被害者の解放を申し出てきたのだ。

 何かが背後で動いている――。

 それは間違いないが、膠着した事態を何が動かしたのかは、小野田にも大森にも知らされていなかった。

 そもそも拉致被害者奪還には様々な政治的思惑や官庁間の駆け引きが絡み、日本側も一枚岩で取り組んできたとは言い難い。議員や警察官僚の中には、できれば触れずにうやむやにしたいと願う者さえいる。拉致問題をほじくり返さないことで〝傷を負わずに済む〟立場の者も多いのだ。拉致問題対策本部でも、情報の共有がスムーズではないと感じる担当者がいるほどだ。外務省主導の組織の中で、縦割りの弊害が完全に取り払われたとはいえない状態が続いていた。交渉が暗礁に乗り上げていることは、全員の了解事項だった。

 それでも小野田たちは、状況に薄日が差していることを数週間前から感じ取っていた。ロシアからの働きかけが急激に活発になったためだ。

 ロシア大統領が総理大臣との会談の際に、『我々なら北朝鮮を説得できる』と提案してきたという。無論その事実は極秘扱いで、拉致問題対策本部でもトップのほんの数人しか知らされていない。それを知った幹部たちは、突然のロシアの申し出を訝り、半信半疑で情報収集に走り回っていた。

 確かに一時期、ロシアは北朝鮮に急速に接近していた。ロシアにとって、日本海、そして太平洋への出口となる不凍港、羅津港が魅力を持つからだ。ウラジオストクに次ぐ港を切実に欲していたのだ。実際に港湾や鉄道の整備にはロシアの資金が大量に投入されているし、これまでの110億ドルの借金のうち100億ドルの棒引きも行われている。

 ただし、羅津港の使用権は中国にとっても重要で、一方では中国資本による鉄道や高速道路の整備も着々と進んでいる。北朝鮮はその地政学的な優位性によって、中露を駆け引きに巻き込んで双方からの利益を吸い上げていたのだ。それは、中国の〝属国〟であった北朝鮮を真の〝独立国〟へ変える試みだとも評価できたし、古来からの〝事大主義〟を踏襲した〝習性〟に過ぎないとも言えた。

 いずれにしても現在の北朝鮮は中国の意向を無視して核とミサイルの実験を繰り返して、独自の路線を突き進んでいる。両国間の〝不仲〟はすでに見せかけではなくなっていた。北朝鮮の核は、北京へも届くのだ。中国の体制が不安定になって内戦が勃発するようなことがあれば、北朝鮮がどう介入してくるかは予測もできなかった。

 中朝の亀裂が世界中の目に晒されたのが、ジョンウンの叔父であるチャン・ソンテク一派の粛清だった。

 チャンは北朝鮮を中国と同じ開放路線へ導きこうと目論んでいた。そのために中国と深い関係を築き、同時に大きな利権も手にしていた。一方では日本に対しても密かに情報を漏らし、関係の正常化を図っていた。日本と中国を天秤にかけながら、穏便な経済活性化を目指したのだ。だがそれは、チャンの権力の肥大化を意味する。同時に〝キム王朝〟の衰退につながる。

 それを恐れたジョンウンは、処刑という強硬手段で反逆の可能性を断ってしまった。今では、チャンの妻でありキム・イルソンの娘でもあるキム・ギョンヒ――実の叔母まで毒殺したという情報さえ流れている。

 それは必然的に中国との関係を弱め、結果として〝キム王朝〟の国庫からは資金が流出する一方となった。中国という金づるを失ったジョンウンは、止むを得ず周辺各国との関係を築き直そうと動いた。かつての李氏朝鮮王朝のように、大国の間を右往左往するコウモリ外交に陥り始めていたのだ。

 だからこそジョンウンは、拉致問題解決のための日朝交渉を開始してストックホルム合意を取り付けなければならなかった。日本からの巨額な経済援助を引き出すために――。

 しかし北朝鮮が日本に近づき始めると、中国の態度も変化した。表向きはジョンウンへの厳しい態度を保ちながら、中朝国境では貿易量が増大していったのだ。韓国からもまた、日朝の交渉を妨害するかのように、不確かな情報がリークされ始めた。

 その流れを、前アメリカ大統領の〝苦し紛れの決断〟が加速した。ISISの台頭を阻止しようとするアメリカは、〝地上部隊〟として強力なイランの革命防衛隊を利用した。その対価として譲歩が必要となり、それまでは否定し続けていたイランの核開発を、〝開発速度を遅らせる〟ことを条件に容認してしまったのだ。イランに核技術やミサイルを提供しているのは、北朝鮮だ。その結果、北朝鮮へ安定的な資金流入が続くこととなった。

 その資金が、中国にさえ通告を行わない〝唐突な水爆実験〟を成功させた。爆発規模が小さいことから一部では原爆の小型化を目指したものだと見られているが、実際の目的は劣化したプルトニウムを処分しながら〝生物だけを殺す中性子爆弾〟を開発することだった。この技術は、いずれイランへ売られる。同じく北朝鮮の核技術を供与されているパキスタンへも流出する。そのパキスタンへ資金を与えているのは、イランとの熱戦の構えをみせ始めたサウジアラビアだ。中東が北朝鮮製の核ミサイルを奪い合っているのが現実なのだ。

 ジョンウンの金庫は潤った。

 今では、北朝鮮の金庫にはドルが溢れているとまでいわれている。だからこそ、馬鹿馬鹿しく見えるようなスキー場やリゾート施設の開発が平然と行えるのだ。

 金さえあれば、日本に頼る必要はない。いつかまた国庫が空に近づいたときに、〝人質〟を交渉の切り札にすればいい。それまでは、拉致問題は中途半端なままで拒否し続けていれば構わない――それが現在のジョンウンの考えだと、日本側は判断せざるを得なかった。中国経済が急速に悪化した今でも、基本的な見方に変更はない。

 一方のロシアは、クリミアやウクライナの紛争で世界から糾弾され、制裁を受け、孤立化を深めた。中東への影響力を誇示して失地を回復しようと目論んではいるが、常識を覆す原油安による経済的な苦境に追い込まれている。だが反面、追い込まれたが故に自国の産業を育てる必要に迫られ、これまでなかった自動車産業などが開花し始めてもいる。

 ロシアに対して融和的な発言をするアメリカ大統領の出現が、近代化の加速を促した。今は苦境に甘んじていても、産業基盤を整えて資源輸出国家から脱却すべき時だと決断した。幸い、日本の総理とは意思の疎通が良好だった。ロシアは、日本の資本と技術を極東地域に導入し、国家を〝脱皮〟させる長期計画を描いたのだ。

 無論、従来の石油や天然ガス資源による収入を諦めたわけではない。現にヨーロッパや中国とは従来通りのエネルギー資源をテコにした外交を繰り広げ、国家の地位を保つことに腐心している。北極海やシベリアでの新たな資源開発も意欲的に進めている。それでも人口減少に悩むロシア東部にハイテク産業の基盤を興すことは、じわじわと侵食を続ける中国や北朝鮮の脅威を跳ね返す最大の手段になる。だからこそ、日本の資本と技術の導入は必須だった。

 そう腹を括ったロシア大統領は、日本の総理にもう一枚の切り札をさらした。

 大統領は直接、北方二島と国後、択捉の一部地域の返還と、全島での共同自治を打診した。その代償が、極東ロシア開発への全面協力、そして海底のメタンハイドレートの共同開発だった。日本にとっても検討に値する条件だ。だがその当時は、総理はその申し出に反応しなかった。

 できなかったのだ。

 中国の南シナ海進出という新たな不安要素は現れたが、長期化するウクライナ紛争を巡って国際世論はロシアに厳しい。めまぐるしく変化する中東でも緊迫した綱引きが続いている。特にアメリカ政府の態度は頑なで、ロシアとの対決姿勢を弱めようとしていなかった。日本が西側諸国と協調を続けるなら、経済制裁を破るわけにはいかない。シベリア開発に全面協力してロシアの国力を底上げすることは、簡単には容認されないだろう。

 しかも日本には、ソ連に対する深いトラウマがある。サハリンの開発を始め、日本は何度も裏切られてきた。そもそも北方領土は、ソ連の一方的な不可侵条約破棄という卑劣な策略で奪われたのだ。政府内にも、ロシアへの接近を嫌う者が少なくない。総理と大統領が個人的に親しいからといって、国家間の取引が安直に行えないことは分かっている。

 とはいえ、北方領土問題が極めて大きく歴史的な〝政治課題〟であることに変わりはない。北朝鮮の拉致問題と北方領土問題は、極東の連携と発展を阻む大きな壁なのだ。その懸案事項が同時に解決できるなら、総理にとって最大の功績となる。ぜひ乗りたい〝取引〟ではあった。

 だが、それは実現できる確実性が極めて低い〝理想〟でしかなかった。仮に推進しようにも、国際世論の反発を抑えるための充分な理由が揃ったとは言い難い。アメリカは、本心では日露の関係が極端に深まることを警戒して、北方領土をこのまま放置しておきたいと願っていた。型破りな共和党の大統領が誕生した今でさえ、その本質は急激には転換できない。型破りであるがゆえに、現状を壊させはしないという反発も大きい。それは、アメリカという国家が巨大であることの証明であり、進路の大変更には様々な利害の調整に膨大な時間を要するのだ。

 ロシアの申し出は極めて魅力的ではあったが、簡単には受け入れられない〝しがらみ〟があったのだ。総理は何ヶ月もの間、米露の板挟みになって身動きができない状態にあった。ロシア大統領を日本に招いて二人きりの会談を行ってさえ、事態は遅々として進まないように見えた。

 それなのに――。

 北朝鮮との交渉は堰を切ったように動き始めた。拉致被害者奪還の中心にいたはずの小野田たちが『動いた』と知った時には、すでに全ての準備が終わっていたのだ。

 彼らも知り得ない〝何か〟が事態を急変させたことは疑いようがない。その〝本当の条件〟を知る者は、防衛駐在官の根本以外には考えられなかった。

 陰で自衛隊が動いているのだ……。

 最後の一家族がテーブルを離れ、遠くから小野田たちに会釈をしながらホールを去っていく。その表情には晴れがましさと不安が入り混じっていた。

 拉致被害者の家族全員が〝日本人〟だというわけではない。両親が日本人であっても、朝鮮語しか話せない子供もいる。言葉も文化も制度も、何もかもが異なる国に突然移住しようというのだ。拉致された本人であっても、日本を離れてから数10年という月日が経っている。戸惑うことは多いだろう。これから彼らは、家族ごとに用意された部屋で不安と戦いながら休息を取ることになる。

 ホールを離れる最後の家族を、北朝鮮から派遣された一行が厳しい目で見つめている。

 小野田は不意に実感した。

 これは〝人質交換〟なのだ……。

 拉致被害者たちを無条件に解放する気なら、すぐに空港へ連れて行っても問題はないはずだ。北朝鮮は『拉致被害者家族はしばらくホテルに止めたい』と要求してきた。それは、〝交換の代償〟が本当に得られたかどうかを確認するために違いない。

 最初に日本側が、拉致被害者の第三国への出国を確かめる。その後、北朝鮮が〝代償〟の受け取りを確認する。そして、双方が納得した上で、彼らを解放する――その人質交換の手順が、今まさに、このホテルで進行しているのだ……。

 だが、日本側が交換の代償に渡した物は何なのか? 

 経済援助や現金ではない。その類のものなら、これまで何度となく検討されてきた。小野田は常に、その検討の中心にいた。今それが実行されるなら、小野田に知らされないはずはない。

 根本しか知り得ないことなら、自衛隊の極秘事項だということになる。〝武力による奪還〟で脅したはずはない。日本の法は、それを許さない。強硬手段が可能だとしても、面子に極端にこだわる北朝鮮が抵抗もせずに身を引くはずもない。彼らは、核ミサイルという究極の恫喝手段さえ手にしているのだから。

 いくら考えても、何が起きたのか分からなかった。

 しかも、これが人質交換だとしても、これまで日本を騙し続けてきた北朝鮮が今回だけは正直に取引を行うという保証にはならない。〝代償〟を得た彼らは、ギリギリのタイミングで〝人質〟を取り返そうと企てるかもしれない。最悪の場合、全員を殺そうとすることすら考えられる。

 実際、ストックホルム合意以降の日朝交渉でも、北朝鮮が生きている拉致被害者を殺害し、〝既に死んでいた〟と強弁することが最も恐れられていた。そのために日本側は、遺骨から死亡時期を特定する技術があることを強調してきた。それにもかかわらず北朝鮮側は密かに、死体をどんな温度で何時間焼けばその特定ができなくなるかを探っていたという。

 国家機密の漏洩を防ぐには、拉致被害者たちの生命を絶つのが最も確実な手段だからに他ならない。北朝鮮は過去に、民間航空機の爆破や韓国政府高官の爆殺を平然と実行した国だ。このホテルで拉致被害者たちを殺すことさえ、あり得ないとは断定できなかった。

 と、根本が動いた。

 片方の襟を立て、そこにささやく。襟に隠された通信機で、誰かと連絡を取ったようだった。

 小野田の耳に、ささやき声が届いた。

「根本だ。鍵が合った」

 小野田は直感した。〝第一の確認〟が終了したことを誰かに報告したのだ。それを受けて、次は自衛隊がどこかで行動を起こす。その結果に北朝鮮が満足すれば、拉致被害者たちは解放される。

 小野田には、取引が順調に進む事を願うことしかできなかった。

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